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えひめ、その住まいとくらし(平成17年度)

(2)農村の住まいと生活改善運動

 このような住宅供給の施策とあいまって、国は農村の生活状況を改善するために、昭和23年(1948年)に農業改良助長法を制定した。これを根拠法として、「生活改良普及員」という地方公務員の採用が始まり、農村の生活改善が積極的に進められることになった(⑱)。当時の農村の住まいの様子や生活改善運動の実際について、かつて生活改良普及員であった松山市余戸(ようご)地区の**さん(大正15年生まれ)に話を聞いた。
 「生活改良普及員は昭和24年(1949年)から採用がはじまりましたが、私が採用されたのは昭和28年(1953年)で、同期で採用されたのは私を含めて11人で、それぞれが各担当地域の農協支所に駐在して活動しました。私の最初の担当地は、最近松山市に合併された旧北条(ほうじょう)市と現在の東温(とうおん)市でした。
 昭和28年に就職したわけですが、今のようなくらしになるなんてとても思えませんでした。そのころの農家の住まいは、わら葺(ぶき)の家も多く、中に入ると土で作られたオクドサン(かまど)が土間にありました。また、飲み水は多くが井戸水でした。流しはセメントでぬられた井戸の周りのところでしゃがんでするものでした。少し進んだ家では立ったままで仕事のできる人造石研ぎ出し(セメントで固めた小石を石板状に研ぎ出したもの)の流しもありましたが、たいていはしゃがんで洗い物をしていました。みんなそういう厳しい環境の中で一生懸命働いてくらしていたのです。
 最初に取り組んだ生活改善の活動は、『かまどの改善』です。当時はどこの家にも薪(まき)がいっぱい積まれていました。その薪をかまどにしゃがみこんでくべなければなりませんでした。そして松葉を燃やしますから、煙って煙って、それはもう大変でした。柱という柱はすすで真っ黒になるほどだったのです。そのために目を悪くされる方も多かったのです。そういうかまどを、立ち上がってちょっとした腰かけにでも座ったまま薪をかまどにくべれるようにしていくことを働きかけたのです。
 私の初めて担当した地区は松山市(旧北条市)の小川谷(こがたに)という15戸ぐらいの小さな集落でした。生活改善を進めていく上で、北条では『田から山へ』という合言葉があったのです。「山へ」というのは、山にミカンを植えることだったのです。お米だけでは農家の収入が限られていたので、とにかく収入が上がらないことには、いくら啓発しても、何もできないのです。昭和28年(1953年)ころから農業改良普及員の方と一緒に各家々を回り、ミカンを植えると、お米と比べてどれくらい収入が変わるかとか、どれくらいの労働力が必要かなどといったことを説明して歩きました。そのときに一緒にかまどの改善についても説明しましたが、最初はなかなか関心を持ってもらえませんでした。しかし、小川谷がミカンでいい成績を上げ、果樹農家としてもうまくいくようになってくるとかまどや簡易水道に改善したいという声もだんだんとあがってきました。
 そこで、県の農業試験場(松山市南町(みなみまち)、現愛媛県県民文化会館敷地にあった。)で開かれる『農業祭』のことをみなさんに知らせることにしました。農業祭では、かまどの展示があるのです。当時としては最新型のものが展示されるのです。農業祭にはもうみんなが押すな押すなで集まりました。当時は、農業問題を勉強するには農業試験場しかありませんでしたし、汽車に乗って松山の街中に出て行くのは年に一度あるかないかの時代でしたから、夫婦や家族で出かけていました。そこで見学に来た人はかまどの燃え具合をみたり、こういうかまどにしたらいいとか、値段はいくらかといったことを聞いて帰っていくのです。かまど屋さんも幟(のぼり)を立てて宣伝したりして、それはにぎやかでした。
 かまど改善の費用は、集会のときに積み立て貯金をするとか、各家でニワトリを飼って、その卵を農協に買ってもらい、その代金で『卵貯金』をして作っていました。農家の婦人はどこかに働きに行くということはできませんから、そういう形で必要な資金を積み立てていたのです。どこかの家が一つかまどを改善をすると、あそこは便利になったといって、次々にかまどの改善が広がっていったのです。
 また、昭和39年(1964年)になると、農林省(現農林水産省)の農業改良資金制度の中に『農家生活改善資金』が設けられました。この資金が呼び水になり、台所、風呂場、便所といったところの部分的な改善がかなりできたのです。上限は5万円で、それも無利子で5年償還という条件でしたので、申込みが殺到したことを覚えています。融資枠以上の希望数がでたら、希望者にさまざまな条件で優先順位を決めて、枠に入りきらなかった方は次年度に回ってもらったりしました。当時の5万円では、今のようなステンレスの流し台は無理ですが、タイル張りの流し台の購入は可能だったと思います。薄暗い台所から、気持ちの良い明るい流し台への改善もできるようになったのです。」
 こうやって、生活改良普及員の啓発活動を起爆剤に農村住宅の台所改善が徐々に進められていったのである。昭和55年(1980年)の今治(いまばり)市伯方(はかた)町の農家の台所を見ると、手前には井戸水を汲(く)み上げる手押しポンプがあり、その奥に見えるのはタイル張りの流しである。流しのそばには昭和40年代ころから普及しはじめた瞬間湯沸器が設置され、流しの上にはガラス戸がはめ込まれている。**さんが語る「気持ちの良い明るい流し台」のイメージと重なるものである。もちろん、こういった台所改善には、農家の意欲と資金的な裏づけが必要であったわけだが、資金的な問題と向き合いながらも、創意と工夫とによって進められた生活改善運動についても話を聞いた。
 「農家の方と私たちと両方が一生懸命に、どうしたらお金を使わないで生活の改善ができるか、そしてみんなが良かったといえるようにできるかを集まるたびに話し合いました。みんなが意見を持ち寄って、助け合ってやっていました。例えば襖(ふすま)の張替えです。これは、みんなで助け合って公民館でやりました。襖を家から持ち込んで、それぞれにどこの家のものかわかるように目印を入れて大勢で取りかかるのです。食事も作り、一日仕事で楽しみながらやりました。襖紙も共同で購入したのです。そうするとたくさんのお金をかけないで、家が新しくなった、きれいになったといってみんな喜びました。襖の張替えが終わると、その地域全体が新しくなったような感じでした。網戸の張替えもみんなでやりました。お金をかけないために、一つ改善事例ができたら、その事例をみんなで見てまわり、その繰り返しでやってきたように思います。
 今にして思えば、当時の自分は度胸があったと思います。まだ27歳ころでしたから、自分より年配の方もいらしたし、そういう中で襖を張り替えませんかと言ったりするわけです。よく聞いてもらえたと思います。襖を張り替えたらきれいになりますよと音頭をとると、『やろう』という声が返ってくるのです。今みたいにお金で何でも買える時代ではなかったからこそ、逆にできたのかもしれません。
 また、当時は布団にカバーはかかっていませんでしたから、布団カバーもみんなで作りました。布団は今のような清潔感はなくて、1年に1回洗濯して縫い直して、綿を入れなおすことが女性の仕事でしたが、これも大変なことでした。布団カバーをつくることにしましたが、何で作ったかというと、倉敷紡績(クラボウ)のビニロンという布で作られた肥料袋があり、捨てるのがもったいないから、それを使って作ったのです。肥料袋には『硫安』とか、『配合割合』とかの数字が印刷されていますから、それを消すために鉄釜にお湯を沸かして、石けんと一緒に入れて煮ました。そうすると袋に印刷されている文字が消えるのです。そして文字の消えた肥料袋をほどいて、それをみんなと共同でミシンで縫い合わせて布団カバーにしたのです。昭和34~35年(1959~1960年)ころになると、クラボウからシーツ用の布地を共同購入して、みんなで作りました。」
 こうやってさまざまな形で生活改善運動は進められていたが、**さんによると、昭和40年代半ばころには農家の所得も向上し、普及員が特別な働きかけを行わなくてもいいほどまでに農家の生活改善は進んだという。