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えひめ、その装いとくらし(平成16年度)

(2)下駄

 下駄(げた)の歴史はきわめて古い。既に、古墳時代には二枚歯の下駄の使用が見られる。しかし、庶民の間で流行し始めるのは江戸時代である。作業に使われる下駄は実に多様で、弥生時代の田下駄も姿を変えながら昭和期まで残っていた。しかし、ここでは日常生活で使われた下駄を対象とした。下駄の足を載せる部分を台といい、1本の木から作る連歯(れんし)下駄と、歯(は、はまともいう。)を別の木で作って差し込む差歯(さしば)下駄に分類される(②)。戦前の話を中心に、前述の久万高原町西明神の**さんと**さん、西条市丹原町の**さんに話を聞いた。
 **さんは、「下駄は、特別な呼び名は無かったが普通に使う女下駄と男下駄(写真2-3-19参照)、それに、畳表の下駄、こっぷり下駄、男女の高下駄ぐらいが一般的だったですね。こっぷり下駄は嫁さんに行ってまでは履かなんだから子どもの下駄ですかね。側(がわ)は塗りで、下駄の底をくりぬいて、中に鈴をつけているものもありました。高下駄は雨の日に履きます。雨よけや泥よけに下駄の前に先革(さきかわ)(つま革)をつけます。女の人の場合はナイロンの覆いにゴムひもをつけ後ろの歯のところで止めます(写真2-3-20参照)。男の人の先革は台に打ちつけてありました。入学式や冠婚葬祭などでは、ナイロンの先革を絞り柄の布にし、兎(うさぎ)の毛みたいなもので縁取りしてきれいに飾った先革にしていました。よそ行きに使っているお金持ちの人もいました。高下駄のはまがすり減ってくると、新しいはまに差し替えて使います。昔は、はま入れ屋さんが時々回って来て、木槌を使って上手に入れ替えていました。昔はいろんな人が回って来ていました。いかけ屋さん、傘の修理屋さん、研ぎ屋さん、挽(ひ)き臼(うす)の目立てをする人、みんないなくなりました。」と話す。**さんは、「戦後、中学生の男の子が高下駄履いてひきずって歩いているのを見ましたが、あれは、日和でも履いていました。」と話す。畳表の下駄は、結婚式などで使う高級な下駄のようである。 
 **さんの記憶では、祖父が厚みのある板をのこで挽(ひ)いて1足の下駄を作っていたのを見たことがあるそうで、一般家庭で下駄が作られることもあったようである。**さんは、「下駄の材質はキリが高級品でよそ行きの下駄、ノブノキ(ノグルミのことで、地域によってはゲタノキという。(④))の下駄は硬くて丈夫でした。マツやスギの下駄は安いので、普段履きに使っていました。」と話す。**さんによると、「ちり草履より下駄の方が履き物としては上です。買い物に行くときなどは、洋服でも和服でも下駄を履きました。正式のときは、上等の下駄かエナメル草履でした。」と話す。
 新しい履物を夜間に下ろす場合は作法があった。**さんは、「夜は新しいものを下ろすものではありません。どうしても夜下ろさねばならないときは、新しい履物を履いて一度駄屋(だや)(牛馬を飼っている場所)に行けば構わないといわれました。」と言う。愛南町網代でも、草履や下駄を夜下ろすと履き物の寿命が短くなるので、それを防ぐために履物の裏に鍋墨をつけていた。寿命が短くなるというのは、新品の内に他人に履き替えられる意味で、靴にはそのような伝承は無かったという。また、下駄を脱ぎ飛ばしてころがし、鼻緒の側が上になったら翌日は晴れ、歯の側が上になったら雨などの天気占いの伝承は各地で言い伝えられていた。 
 丹原町の**さんは、父親の代からの履物店で、小学生のころから下駄作りを経験している。下駄(げた)の作り方、種類や特徴(写真2-3-20参照)について話を聞いた。
 「戦前から父が作っていたのは、まさ下駄(久万高原町西明神の『男下駄と女下駄』と同じ下駄。下駄の名称(*6)は地域によってさまざまである。)、利休下駄(高下駄と同じだが高さは低い女ものの差歯下駄)、神戸下駄(裏の前部が緩やかな傾斜で隆起し、後部のみが歯になっている下駄)の3種類でした。それぞれ、男女で差があります。神戸下駄は男性の下駄で、同じ形をして歯に当たる部分にゴムなどをはった女性用の下駄は、シューズとかソフトとかいいます。これは比較的新しい履物です。あとから考えると下駄は昭和30年(1955年)ころがピークだったのに昭和33年に鼻緒作りなどの修業に出ました。
 連歯下駄の作り方は、一つの材から挽(ひ)き割る方法と、はまを接着剤で台の板につなぎ合わせる方法があります。挽き割る方法は、左右の下駄を合わせた程度の厚みがある木材を用意します。その木材から左右の下駄が取り出せるよう線を引いておいて、真っ直ぐ切るために正面に鏡を立て、線に沿ってジグザグに糸のこでひいて行くのです。これを「イトコにひく」といっていました(図表2-3-4参照)。最後はのみで仕上げます。接着剤で歯をくっつけるのは、初めは、にかわでやっていたんですが、水にぬれたらはずれるので本格化しませんでした。しかし、飛行機の木製のプロペラを寄せ木で接着していたユリア接着剤(尿素樹脂)が市販されるようになって本格化しました。昭和25年(1950年)ころからだったと思います。接着剤と硬化剤に分かれていて、先に硬化剤を塗り、乾いてから接着剤をつけます。硬化剤を塗るのを忘れていてポロッと外れたりして困ったことがあります。
 差歯(さしば)下駄には、雨降り用の高下駄(男ものだと歯の高さが2寸8分〔約8.5cm〕、女ものはやや低い。)、それよりやや低い日和(ひより)下駄(男もの)、利休下駄(女もの)がありました。歯を入れるときはおしのり(飯粒をつぶして作るのり)を少しつけて差していました。差し替えるときは、本体の溝より差歯を少し厚めに作っておき、差歯の両端を石の上でたたいて水をつけて差していました。素人の方でも差し替えはやっていました。差歯の材料には、カシ、ホウ、ブナがあり、カシは高級品でした。
 下駄の材料は、キリが上物(じょうもの)で正装に使われ、ヒノキやスギは日用品でした。キリは軽いしクッションがあるというか、雑木はキリに比べると、軽い木でも冷たいし履き心地が違いました。最近はココノエギリを使った桐下駄がありますが、このキリは太りが早いだけに傷みも早いですね。
 鼻緒は黒か紺の別珍が男物です。女物は、えんじ、茶、グリーンなど5色くらいあって、派手、地味、中の5色を準備していました。上等の鼻緒には正絹や西陣、紬(つむぎ)などと呼ばれた絹織物があり、最近はナイロンや表面をけばだたせたハイミロンなどの合成繊維もあります。以前は、下駄も女物の草履も雪駄(せった)も鼻緒は台の真ん中に付いていました。これらの履き物には、男女差はありますが、左右の違いがありませんし大きさもほぼ同じです。だから、足の大小は鼻緒の立て方(すげ方)で合わせます。これは長年の勘で、私は左手の甲を上にして下駄と鼻緒の中に差し入れ、手の甲をふくらませて鼻緒を立てます。例えば、23cmの人ならきつめに、24cmの人ならややゆるめに立てるんです。この立て方で、履きよい下駄、履きにくい草履の差が生まれるんです。」


*6:下駄の名称 『江戸文化の考古学』によると、下駄の名称は「それらに標準的な名前をつけるのは非常に難しく、一方で
  民俗資料として整理されているものはその変遷のなかで混乱を来してしまっている。」とあり、諸本でも同一のものが別名
  で紹介されている。ここでは、地域の呼び名に従った。

写真2-3-19 女下駄と男下駄

写真2-3-19 女下駄と男下駄

左から、女下駄、男下駄。久万高原町西明神。平成16年7月撮影

写真2-3-20 さまざまな女性用下駄

写真2-3-20 さまざまな女性用下駄

左から畳表の下駄、差歯下駄(先革があり雨用)、シューズ(ソフト)。久万高原町西明神。平成16年7月撮影

図表2-3-4 まさ下駄の挽き割り方

図表2-3-4 まさ下駄の挽き割り方

図中の寸法は、男のまさ下駄の一例。挽き割りと、のみの仕上げで約3分(約0.9cm)が削られる。**さん提供の資料より作成。