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えひめ、その装いとくらし(平成16年度)

(2)帽子

 頭部の保護や日よけ、防寒などに用いられる点では、女性の手ぬぐいかぶりと同様の実用性を持つ。しかし、戦前における帽子は、それ以上に社会的地位を示すものとしての意味があった。『昭和のくらし博物館』によると「戦前までは男の人はよく帽子をかぶっていた。昔の群衆写真などを見ると男が全員帽子をかぶっているのにびっくりする。(③)」のである。
 松山(まつやま)市御幸(みゆき)地区の**さん(大正9年生まれ)は、昭和12年(1937年)に叔父の経営する勝山堂製帽店という軍帽店(軍隊の帽子を扱う店で、22連隊正門前〔松山市の南堀端〕にあった。)に弟子入りし、製帽技術を修得した。昭和17年から終戦までは、海軍軍属(軍人ではないが海軍の仕事をする人)で、帽子とは関係ない生活を送ったが、戦後の混乱期に独立、製帽業を始め、昭和26年(1951年)には小売店も開業した。代表的な帽子の移り変わりを概観してもらった。
 「専門の帽子店が扱う帽子の種別は、幼児用、子ども用、紳士物、婦人物などです。この外に制帽、労働帽、珍しい物としては看護婦さんや料理人さんが使う衛生帽がありました。帽子は、日よけ、頭部の保護、衛生的な意味などで使われるのが本来の目的ですが、実際にはそれよりもおしゃれとしてあるいは社会的地位を示す物として使われていました。そのため、装飾品の違いまであげていくと切りがありません。主なものだけを取り上げてみます。
 太平洋戦争が始まる前までは紳士物が流行(はや)っていました。しかし、女性はほとんどかぶっていませんでした。紳士物でよくかぶっていたのが、鳥打ち帽(ハンチング)や、冬用のソフト、それに夏用のかんかん帽とパナマ帽でした。昔は、男は徴兵検査を受ける20歳になれば、一人前といわれていました。奉公していた者も20歳になると職人として独り立ちする習慣でした。そのときに、まず手に入れたいのが帽子でした。帽子は一人前の証(あかし)だったんです。
 中でもあこがれたのが、高価なものでしたが、ソフトです。この帽子の材質はフェルト(*2)です。織布地の帽子は、幾つかの型に裁断して、それを縫い上げていきますが、フェルトは織ったものではないので、熱い蒸気をかけ、フェルトを軟らかくして木型に入れるとどのような形にでも加工できます。ソフトには山高帽や中折れ帽の形がありますが、お客さんの注文によってどちらの形にでもできたのです。山高帽は頭にかぶる部分(クラウン)をまるく、中折れ帽は頭頂(とうちょう)がくぼみ、前部はつまみといって、あんな形に作っているんです。どちらかというと中折れ帽の方が流行していました。ソフトをかぶるとみんなから一人前と見なされました。この帽子は正装のときにかぶるので、20歳以上なら年寄りまでかぶったよそ行きで、私も20歳のときにソフトを買いました。
 このソフトは冬用ですが、夏はパナマ帽かかんかん帽(写真2-3-8参照)をかぶりました。かんかん帽は麦わらを漂白して圧縮して作ったものです。人の頭に合わせて楕円形になっているのですが、柔軟性が全くなくて非常に硬いものですからかぶるというより頭に載せる感じです。パナマ帽は、パナマ草(*3)という草を編んで、ある程度の形になったものを輸入し、日本で型にいれて整形完成したものです。かんかん帽よりは生地が薄く柔軟性もありました。パナマ帽のほうが上品で格が上です。当時はきものの人も多かったのですが、これらの帽子はきものにも合いました。
 鳥打ち帽は、職人や労働者がよくかぶっていました。パナマ帽やかんかん帽はポケットには入りませんが、布製の鳥打ち帽は折りたたんでポケットに入れることができます。だから用途が広がり多くの人に愛用されました。
 制帽、労働帽、衛生帽も戦前からあり、子どもの帽子もよく出ていました。幼児用では、エジプト帽などは目にした人も多いと思います。子どもの学生帽はありましたが、かぶったりかぶらなかったりで、制帽とはいえないでしょう。
 制帽には学校、軍隊、国鉄(現JR)の制帽や、帽子の天井部分が平たく広い官帽(消防官〔消防士のこと〕や警察官の帽子)がありました。制帽とは、帽子の形でどんな立場の人かが一目で分かる帽子のことです。学校の制帽は、男の子にはありましたが、女の子は一時的なもので、原則的にはありませんでした。例外的に、県女(県立松山高等女学校、現松山南高等学校)にはずっと制帽がありました。戦前の話ですが、あの帽子を見るとすぐに県女の生徒だと分かり目立ちました。
 しかし、制帽といえば最初に思い出すのは、黒い学生帽です。小学生などの帽子は中央の製帽会社が作っていたのですが、松山経専(松山高商、現松山大学)と松山高校(現愛媛大学)の制帽は、松山の製帽店で作っていたので特に印象深いものです。松山高校は白線が2本、松山経専は黒い蛇腹(じゃばら)(波状になったテープ)を巻いていました。すべり(帽子の内側にあり、頭部に直接接する部分につけるもの)やひさしには牛革が使われていて特別上等の学生帽でした。うどんが5銭の時代に2円もしていたんです。
 労働帽といえば、麦わら帽子や経木(きょうぎ)帽子(経木とは、スギ・ヒノキを薄く削ったもの)それにイグサの帽子もありました。今も麦わら帽子はありますが、戦前のように本物の麦わらを使ったものは少ないです。木綿製の衛生帽は、髪の毛が落ちないようかぶっていたものですが、料理長なんかは格の違う帽子をかぶっているようです。
 戦争が近づいてくると帽子の世界もずいぶん変わりました。黒かった学生帽も『カーキ色でないといかん。』ということになりました。しかし、カーキ色で帽子に使えるような良質な布は陸軍にしかなく、個人が頼んでも分けてもらえません。県内の十数店の製帽業者で組合を作り、軍隊の被服廠(ひふくしょう)(旧日本陸軍で、被服全般を担当した機関)と交渉して布地を仕入れ、カーキ色(国防色)の帽子を作りました。愛媛県では、昭和12年(1937年)度の新入生からカーキ色の学生帽が取り入れられました。昭和15年には国民服や国民帽も制定されました。ただ、民間人がすべて国民帽というわけではなく、戦闘帽の民間人もいました。
 戦後しばらくの間も大変でした。昭和22年(1947年)に松山市の柳井(やない)町で帽子の加工を始めました。注文品は、学生や国鉄の制帽、登山帽、メトロ帽(写真2-3-11参照)に共布(ともぎれ)の垂れをつけた垂れつき婦人帽などでした。技術はあっても、材料も道具もない。道具は、戦災で焼けたミシンを修理しました。材料はお客さんに持ってきてもらいました。ほとんど白か黒の帽子でしたが、黒い帽子は不用になった黒のインバネスや海軍が払い下げた水兵帽などを持ってきてもらいました。水兵帽は浅い帽子でしたから、学生帽に作り直すと浅い帽子にしかなりません。白い帽子は、シャツの綿布などで作っていました。
 やがて帽子加工の仕事も減ってきたので、昭和26年(1951年)ころに製帽とともに小売業を始めました。小売りをするならと、松山市の三番町(さんばんちょう)、そして大街道(おおかいどう)に店を移しました。この時分の紳士物では、織布を材料として中折れ帽のような形をしたミルキー、子どもは野球帽が主流になりました。婦人帽では、ベレー帽に短いひさしがついたようなキャスケットが流行しました。これは、外国映画で女優さんがかぶった帽子が流行した物で、頂きにはピンポン球くらいの毛玉のかざりをつけた物もありました。
 戦後、アメリカ流の生活スタイルが入ってくると、帽子の世界は再び大きく変わりました。子どもが帽子をかぶらなくなり、紳士物も戦前のようなことはなくなりました。逆に、やはりアメリカの影響でしょうか、今までほとんど売れなかった婦人帽が出始めました。昭和30年(1955年)代から現在(平成16年)まで形をいったら切りがありません。そんな中で、特色ある帽子をあげると、小学生の黄色い交通安全帽(写真2-3-11参照)や昭和45年(1970年)の大阪万博のときに使われた発泡スチロール製のウェスタンハットやチューリップハットがあります。ウェスタンハットは万博のときだけでしたが、チューリップハットはその後も流行しました。大きな帽子でしたが、6枚の布地で出来ており折りたためば1枚分の大きさになるし、色もさまざまあり高校野球の応援などにも使われていた記憶があります。この帽子は、今治の帽子屋さんが考案されたもので、瞬く間に広がりました。けれども、戦後しばらくは松山に4軒あった帽子専門店も、今は私どもだけになりました。ブティック(しゃれた洋服や小物を売る店)と一緒に帽子を売る店はできていますがね。やはり総需要は減って来たといえます。」以上が専門店の主人による帽子の歴史の概観である。

 【黄色の通学用交通安全帽】
 松山市御幸地区の**さんに話を聞いた。「子どもの帽子が戦前ほど出なくなったのは、黄色い交通安全帽がかぶられ始めたことにもよると思います。
 この帽子ができたいきさつを話しますと、ある原糸メーカーが作ったイービーという化学繊維の原糸が太過ぎて、これで織った生地は非常に分厚いものになり、衣料には使えないことが分かりました。しかし、大量生産していたため処分に困り、考えた末に発案されたのが黄色く染めて交通安全帽にするというものでした。まだ、そんなに車は多くはない時期でしたが、増え始めていたことは事実で、この黄色の帽子を小学生にかぶらせれば、集団登校で黄色い帽子が線になって動くのですから、大変目立ちます。
 昭和30年代でしたか、愛媛県で最初に導人した小学校は、松山の道後(どうご)あたりのどこかの小学校だったと思います。効果があったということで、すぐに県全体に広がりました。私どもでも作ることになり、6年間かぶるのですからさらに丈夫な生地にし、帽子には事故に遭ってもすぐ小学校に連絡が行くように、学校の校章を入れる工夫しました。女の子はメトロ帽、男の子は野球帽の形でした。現在(平成16年)も使われています。」

 生活者の立場から、今治市大浜地区の人たちに話を聞いた。
 婦人物の帽子は、皆さんかぶったことはないという。紳士帽について、大正12年(1923年)生まれの**さんは、「かんかん帽は親父も、この辺りの人もぼつぼつ持っていましたね。麦わらで編んで固めたような叩いたらカーンというくらい固い物でした。祭りに呼ばれたり、よそ行きのときにかぶっていましたが、私はかぶったことはありません。夏の日にすててこをはいて、そのすててこが透けて見えるような絽(ろ)(絹織物の一種。糸目に透き目を作った夏用の和服地)のきものを着て、下駄(げた)履いて、かんかん帽をちょっと傾けてかぶって、非常に粋(いき)な感じがしました。
 鳥打ち帽はいつもかぶっていました。ちょっとした旅行や普段にも、仕事で畳を作るときにはほこり除けにも役立ちました。僕らは若いころには鳥打ち帽をかぶると青年になったような、一人前になったような気がしましてね。戦後もかぶっていましたね。ちょっといい鳥打ち帽なら、ひさしのところを折っても大丈夫で、取り扱いが乱暴でもかまわなかったのが特に気に入っていました。いろんな色があったし、若い人は鳥打ち帽で、40歳くらいの年配の人らはかんかん帽だったと思います。お医者さんがパナマ帽をかぶっていたですね。かんかん帽より優しい感じでした。僕の場合は、帽子は実用よりおしゃれの意味でした。」と話す。昭和9年(1934年)生まれの**さんは、「父がパナマ帽や中折れ帽を持っていたのは知っていますが、私は小学校時代の学生帽も、パナマ帽や中折れ帽などの紳士帽もかぶったことはありません。」と言う。
 労働帽である麦わら帽も意外と使われていない。**さんは、「仕事のときは、男はだいたい横でねじって止める鉢巻きだったですね。テントを張っているからそれで間にあったんです。けれども西日が横から当たり始めると麦わら帽をかぶっていました。女の人は手ぬぐいのところで話したようにほおかぶりをした上に麦わら帽をかぶっていました。」と話す。**さんは、「持ってはいましたがよほど暑いときしか使いませんでした。昔の麦わら帽は分厚かったし、重かった記憶があります。ただ、少し雨模様のときなどは便利でしたが、ぬれるとなお重くなりましたのでねえ。」と話す。地域や仕事内容にもよるのであろうが、水田地帯ではよく使われていたようである。


*2:フェルト ウサギの毛や羊毛などの繊維に、湿度・熱・圧力を加えて布状にしたもので織布ではない。ウサギのフェルト
  は上等とされた。1枚の平面の生地を縫うこともなく立体的にできる。
*3:パナマ草 主としてエクアドル、コロンビアに産する椰子(やし)科の多年草植物で、その若葉を裂いてパナマ帽の材料と
  する。

写真2-3-8 パナマ帽とかんかん帽

写真2-3-8 パナマ帽とかんかん帽

左がパナマ帽、右がかんかん帽。松山市御幸。平成16年7月撮影

写真2-3-11 黄色い交通安全帽をかぶって

写真2-3-11 黄色い交通安全帽をかぶって

女子はメトロ帽、男子は野球帽。伊予市下吾川。平成16年12月撮影