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遍路のこころ(平成14年度)

(3)遍路びとの思い

 ア 自家用車遍路-**さんに聞く-

 松山市在住の**さん(昭和3年生まれ)は平成3年に県立養護学校を退職し、現在4回目の巡拝を終えている。最初の遍路のきっかけは退職で、「おかげさまで無事終わりましたという感謝の気持ちからでしょうか。」と語る。2度目は義母の病気快癒の願い、3度目は亡くなった義母の供養と、それぞれに心のけじめをつけるために奥さんと一緒に巡拝したとのこと。そして4度目を平成13年に終えた。「今は、5回目までは回ろうという気持ちになっています。」という。「なぜか時を置くと、もう一度遍路に出ようかという思いがわいてくるんです。」と自分でも不思議そうに語る。
 巡拝の仕方は「1泊2日か、2泊3日の区切り打ちで、全体としては15、16日だった。」とのこと。通し打ちでは日数が掛かり過ぎて、それだけまとめての時間は取れず、年齢からくる疲労度を考えると「1、2泊程度が適当かとも思います。」と言う。
 装束は、白衣と輪袈裟(わげさ)・納札袋を首に掛け、金剛杖をついて、下は普通のズボンで、菅笠(すげがさ)はかぶらない。全部ではないにしても遍路装束を着ることによって、遍路としての自覚を持ち、普段とは違う自分に自ら仕立てているという。見る人も遍路として見てくれる。心の持ち方一つだから、普段着で回ってもいいのだろうが、「自分は白衣を身につけて回ってきました。」と話す。
 「今はお寺の近くまで車が入りますので、長い距離を歩くことがほとんど無いんです。それでも山路を上り、汗をかき、息を切らしながら、シンと静まった感じのお寺の境内へ入った時は本当にほっとします。樹々のもたらす木陰、ひんやりとした空気、土の柔らかさなど自然の恵みでしょうか、それともそうした自然に囲まれたお寺の雰囲気でしょうか。心癒(いや)されるものがあるんですよ。その意味ではやはり樹木の茂った自然の中のお寺さんがいいですね。来てよかったなあと思います。本来の修行的な寺へのあこがれでしょうか、神々(こうごう)しさのようなものがあって、自然に頭が下がる、そんな感じがあります。」
 人との触れ合いという点では、参道などで、全く見知らぬ他のお遍路さんと一緒に語りつつ歩くこともあり、大阪・東京など県外の人も結構多いのに驚くとともに、なんとも言いようもない親しみや楽しさも味わうという。またお接待については、「香川などでは、例えば食事に入っても、白衣を着ていれば、うどんなど安くなったり、お代はいりませんとか言われることがあちこちであり、四国遍路の世界では、全然見知らぬ人でもお接待の気持ちで接してくれたり、見知らぬ人が何の報酬も求めることなく物をくれます。しかもそれは特別な人の行為ではなく、ごく普通の人によって行われているわけですから、遍路経験をする中で人の温かさを感じますよ。」と話す。さらに「遍路成就は、歩く人は八十八ヶ所を巡り終えたときに『ああ、結願!』というのかもしれませんが、私どもの場合は八十八ヶ所と同時に高野山まで行って初めて一区切りという思いでした。私の頭のどこかに遍路とお大師さん、さらには空海と高野山という意識があるからでしょうか。
 お四国を苦労して回って人間ができていくということはあるでしょう。私自身はそこまで深く考えずにいましたが、確かに回ることによって、自然に触れて安らぎを与えられ、あちこちの人と交わることによって人間が大きくなったと思います。ですから私らのような宗教とは関係ない者にも遍路は価値があると思います。また、巡拝をしている時は、極端に言えば、家のことも仕事のこともすべて忘れて、ひたすら八十八ヶ所の一つひとつを越えていくんです。そしてその一つひとつについて成就し、やり終えたという達成感、喜び、満足感や安らぎとでもいうような思いを得させてくれるのではないでしょうか。そういう満足感の一つの表れが納経帳や、掛け軸の形で残ってくるんでしょう。そして、遍路で得た、こうした心の中の満足感や安らぎが、その後の、その人の人生をまっすぐに歩ませる力となったりすると思います。
 私たちは、夫婦で時間ができ、体調もよい時に、日帰りや1~2泊で出かけるようなことが多いです。高知などのように遠くに行って、遅くなったから泊ろうか、などということもあります。時間に縛られないことも、体調に合わせることも、自家用車で行くことの便利さ、自由さなのかもしれません。」

 イ バス遍路にかかわった人々の思い

 (ア)先達として20余年-**さんに聞く-

 松山市在住の**さん(大正9年生まれ)は四国八十八ヶ所霊場会公認大先達で、昭和56年(1981年)先達となり、既に60回ほどの巡拝を経験し、現在、自分で立ち上げた「さわやか講」巡拝団長として活躍している。
 「先達として、お杖(つえ)は大切にしなさいと皆さんに言います。お杖はお大師さんです。お大師さんと一緒にお参りするから同行二人ですよ。そんな大事なお杖ですから、家に帰ったら、まずお杖の先を洗って、床の間か不浄でない場所へ大切に置きなさいと言うんです。
 先達の役目というのは、要するにお大師さんの弟子として、信者さんを率先して導く仕事です。先達として巡拝するということは、後ろに信者さんがいるということです。巡拝のときのお勤めは、まず開経のことば、懺悔(ざんげ)のことば、それから般若心経に入る。その後ご本尊真言、光明真言、大師御宝号、最後に回向(えこう)『願はくば此の功徳をもって……成ぜん』を唱えるのが霊場本堂でのお勤めです。大師堂ではご本尊真言が無いだけです。先達は、初めての信者の方々にもきちんとした形でお勤めをしていただくように努めることです。
 先達として気を遣うことといえば、皆さんが無事お参りできること、もうそれだけですよ。願い事は皆さんそれぞれでしょう。家族の安寧(あんねい)や身体の悪い人の思いもあるでしょうが、一生懸命拝む人もいれば、かつての私のように、必ずしもお大師様中心でない人もいます。買い物ばかり気になる人もいます。様々ですが、本当に一生懸命に頭(こうべ)を垂れて心からお参りしている人の姿は神々しくさえ感じられます。
 もう一つ、元気な方もいれば足腰の弱い方もいます。その方たちに合わすのが先達の力ぞよ、と他の先達にも話します。そんな条件の違う方たちが一緒になって、足腰の弱い方が遅れそうになると、何とか一緒にと手助けする人が自然に出てきます。日常の生活の中では、見て見ぬ振り、知らん顔するのが、寂しいけれど現代の風潮に見えますが、お遍路では、手を引いたり腰を押してあげたりとかいうような方がたくさんいますよ。これは必ずしも知り合い同士のことではないんです。
 83歳という年齢もあって、今は歩き通しの巡拝は身体的に自信がありません。それより先達として、お大師さんの遺徳をしのぼうという人たちのお役にたてば何よりと思っております。バスの場合は、足の悪い方、身体に自信のない方にも安心して巡拝できるという利点があります。それに先達も大抵付いています。それだけに先達自身本当にお役に立てるだけの勤めを果たす必要があると思います。」

 (イ)巡拝バス関係者-**さん・**さんに聞く-

 **さん(昭和28年生まれ)は瀬戸内運輸㈱に勤務し、団体遍路バスヘの添乗経験は100回以上という。**さん(昭和6年生まれ)は昭和36年(1961年)ころから瀬戸内運輸の巡拝バス運転手を勤め、現在は巡拝バスの添乗員として活躍している。バス遍路にかかわる者としての苦労や思いについて二人の話を要約すると次のようである。
 運転については、昭和30~40年ころのバス遍路は、春か秋が中心の1年に数回の巡拝だったが、困ったのはほこり。アスファルトもコンクリート舗装もなく砂ぼこり舞う道であり、2台で行くと2号車は1号車の巻き上げる砂ぼこりに口の中まで白くなった。あるいは標識のないことと道の狭いことのために、迷いそうになったこともあれば、大型バスでは通れなく、迂(う)回路を探さねばならないこともあったと振り返る。
 また添乗については、今のバスはほとんど山門まで行くから、そんなに苦労はないが、昔は登山用のリュックに参加者全員の納経帳、掛け軸から白衣まで全部入れ、それを背負った。その上、坂などあれば、前もって用意したさらしを、足腰の弱い人の腰にくくって引っ張って上がった。麓(ふもと)から寺までの坂を歩くのも当たり前であった。洗濯はしても脱水機はない。だからバスの中へ紐(ひも)を吊(つ)ってシャツもパンツも干したりでカラフルこの上ない。今のバスのようなトランクは無いので、バスの後部のシートをはずして、そこに荷物を積み込む。整備されていないガタゴト道だから、荷物が落ちないように、自転車のチューブや荷台のゴムひもで縛っていた。そんなことにも気を遣ったという。
 昭和38年(1963年)に「伊予鉄順拝バス」に乗った松田富太郎氏の巡拝記が残されている。それによると、バスを降りてから霊場まで、当時の歩きの様子が次のように書かれている(⑮)。
 横峰寺-「上りに要する時間は1時間50分」、雲辺寺-「上りに要した時間2時間半、(中略)下りは1時間50分、私は両膝(ヒザ)、妻は足首が殊の外痛み出し一行に遅れぬよう、後(アト)からついて行くのが精一杯(セイイッパイ)という所であった。」、太龍寺-「標高600米、上り所要時間1時間半」、神峰寺-「上り坂35丁、所要時間1時間半」と記し、「自動車に乗っていないときは、険阻な山道を這い回っていた。」とも書き残している。しかし「それほど苦しい巡拝でも、巡拝が終わると機会があれば、もう一度お詣りしたいというのが、殆どの人の気持ちであり、又願いでもあると思われる。」と結んでいる。バス遍路とはいえ、昭和38年ころは、歩く距離も相当長く、苦労のしのばれる巡拝記である。
 バス遍路を世話する者としての思いについて**さんと**さんは、次のように語った。
 「お四国さんは最近のNHKなどの放送で全国的に非常に多くの方に認知されました。この影響は大きかったですね。でも、それだけではなく、もともと一度は行ってみたいという気持ちの方も多いようです。そして不思議なことですが、一度お参りしてみると、必ずもう一度お参りしたいという気持ちになると言います。今、観光客は減っていますが遍路への思いは全国的に広がっています。一度はお遍路に行きたいという人はお大師信仰の根強さと共に決して減らないと思いますよ。今後もバス遍路は年配の方を中心に増加しても減ることはないと思います。
 我々巡拝の係りをするものとしては、お客さんから、『本当に来て良かった。また来させてもらうからね。』と言われる時ほどうれしいものはありません。私たちは、遍路するお客さんが喜び、その思いを抱いて帰って、再びお四国へ心を向けてくれる事を願っているわけです。
 お客さんたちは、『ちょっと危ないから。』と声を掛けたり、『ばあちゃん大丈夫かな。』と手を添えてあげたりするだけで喜んでくれます。気持ちが触れ合うこと、手を添えるにしても、その気持ちが通じ合うことが肝心ですかね。その触れ合いの温かさが人の心を癒(いや)し、もう一度遍路に出てみたい、そういう思いにつながるんでしょうかね。それを思うと、その思いにこたえるためにも精一杯の心配りをしなければいけないと思っています。」

 (ウ)巡拝バスの運転手、添乗員として-**さんに聞く-

 **さん(昭和17年生まれ)は昭和37年(1962年)、19歳で「伊予鉄順拝バス」の添乗員となる。21歳で運転手となり、巡拝バスを運転するようになったのが31歳。巡拝バス運転手となってからも、添乗員・運転手の両方で巡拝は続いた。昭和53年に1690番の先達公認証を受けた。**さんの添乗経験や今の添乗員としての思いを聞いた。
 「私は九州とか兵庫とか県外の方のお世話が多いんです。県外の場合は、2泊3日とか3泊4日での1国参りを4回で行うか、半周ずつ2回で結願するかで、今は通し打ちはほとんどありません。遠くは北陸の佐渡島の方々のお世話もさせてもらっています。そんな人たちに、四国へ行って良かった、もう一度お四国へ行きたいとの思いを抱いて帰っていただけるよう精一杯心を尽くすことが我々の仕事だと思っているんです。有り難いことに、30年にあまるお付き合いをさせてもらっている団体さんも結構あるんですよ。」
 そう語る**さんは、添乗員でガイドではなかったが、「せっかく四国においでてくれた方に、できる限りのご案内を心込めてするのが四国に住む者の使命と思えたんです」という。そんな思いの中、最初は本を見ながら必死で覚えたおかげで、今では、お寺のことも名所旧跡もたいていは説明できるようになったと言い、添乗員という仕事については、「添乗員はお客さんと直に接するでしょう。だからお客さんとのコミュニケーションは取れますし、そこで心が触れ合うと良いお付き合いが出来るんです。たくさんのお礼の手紙を頂きました。それを思うと、添乗・案内は私には本当に有り難い仕事でした。」と語ったあと、次のように締めくくった。
 「添乗員あるいは先達としても、ハートを失ったり忘れたりしたら通じません。口先で説明をいかに上手にしてもそれだけではテープと同じでしょう。ハートをもって接することで通じるものがあって、それでこそ初めて長い付き合いをさせていただけるんだと思うんです。その意味では私たちがなすべきことの答えは簡単じゃと思いますね。これからも、できる限り心込めてご案内させてもらうつもりです。
 今は大阪あたりからの日帰り団体さんも多いですよ。時間の制約もあるでしょうけれど、お参りも手を合わせるだけで終わりです。お参り3分、観光7分、あるいはそれこそ観光気分の団体さんもあるようです。変わりつつあるとはいえ、お四国はお大師さんの御遺蹟を純粋に慕ってお参りをする気持ちだけは変わってほしくないですね。」

 (エ)アンケートの感想より

 次の各文は平成14年本センターバス遍路調査のアンケートに回答した人々の感想からの抜粋である。さまざまな理由で遍路を始めているが、巡拝を続けるにしたがって次第に心の安らぎや元気をもらい、これからも続けたいとの思いがわいてくるという感想が多い。

   ○ 生まれてまもなくの子供が亡くなってから20年、何もしてやれなかったその子の供養にと思い立ったのが最初の遍
    路でした。その時は主人と二人での遍路でしたが、今は亡くなった主人の冥福と、主人が残した分も合わせてお参りさ
    せてもらっています。(67歳 女性)
   ○ 最初は何の信心もないものが、山やお寺の庭の美しさに感動してお参りするうち、心の安らぎを覚え、お大師様を信
    じるようになりました。自分に少しずつ自信が出来るとともに、もっぱら大きな御心に抱かれて、今を生かされている
    思いです。(77歳 女性)
   ○ 最初は病気がちな自分を少しでも精神的に安らかに出来ればと思ってのことでした。一回りするのに何度も挫折しそ
    うになるのをいろんな人に助けられ、結願すると元気になり、精神面ではすごく安らかな日々が送れます。バス巡拝
    は、必ず、しかも安心して一巡できるように計画されていますから、私にはバス巡拝は有り難いです。
    (64歳 女性)
   ○ 健康・観光・暇つぶしで始めた遍路ですが、回を重ねるごとに信仰心も芽生え、体も元気になり、大勢の信者様にも
    支えられ、生来の短気も幾分気長くなったような気がしています。今は遍路を生きがいに感じています。
    (83歳 男性)
   ○ どうしてもお参りをしたいと思っていましたが、結願出来て、なんともいえない充実感に浸りました。また来年も行
    きたいと思っています。足が悪くても、皆さんにも支えられ、お大師様のおかげで結願出来たことを感謝しています。
    (80歳 男性)

 ウ 歩き遍路の思い

 歩き遍路の遍路記、通夜堂に置かれた2冊のノートに残された感想、遍路者への聞き取りなどから歩き遍路の思いを探った。

 (ア)遍路の動機

 歩き遍路の動機について星野英紀氏は、現代の歩き遍路のかなりの人々に共通していることの一つは、信仰からではなく(⑯)、「人生のリフレッシュ、チャレンジ精神」あるいは「自己鍛錬という意味をも含めた『自分探し』といった表現に集約することも可能である。(⑰)」と述べ、いくつかの例をあげている。ここではその中の1文と、財津定行氏の遍路記からの抜粋文を記す。

   ○ 信仰心がとくにあったわけではない。抹香臭いという周囲の人もいたが、それは気にならなかった。心の内側には、
    スポーツ気分、チャレンジ精神のようなものがあった。(⑱)
   ○ 今を見つめ直し、これから生きてゆくための心の土台となるものが欲しい。心のありようを探したい。(中略)この
    年齢のこの時に、遍路に挑戦し、自分の体力の再確認をし、歩くことによって体力の補強につながり、今後の人生の健
    康維持に少しでも役立てば何よりである(⑲)、と考えた。

 また加賀山耕一氏は、「その動機やきっかけはさまざまであろうが、だれもが人生の新たな一歩を踏み出す足場を模索しているのだ。」と述べるとともに、「私は、昨今の巡礼ブームと自らの遍路(へんろ)体験を重ね、この古くも新鮮な四国八十八ヵ所をめぐる巡礼が、既成の宗教という枠を超えて、人生の転機を自ら創出する『転機創造(てんきそうぞう)』の場として機能しているように思えてならない。(⑳)」と記して、四国遍路が既成の宗教の枠を越えた人生の転機創造の場だという捕らえ方をしている。

 (イ)道中での思い

 遍路を始めて、数日を過ぎると、出発時とは違った思いを抱き始める。次の各文は遍路途次の思いを遍路記から書き抜いたものである。

   ○ 実際、私はどこへ向かって歩いているのだろう。何のために遍路に来たのであろうか。ひたすら次の札所をめざして
    進みつづけるうちに、巡礼をはじめた目的であるはずの「転機」という言葉すら、いつしか脳裏から完全に消え失せて
    いることに気づく。頭で考えた予想はことごとく外れ、予定は立たない。しかし、むしろこれこそ遍路の効能なのでは
    ないか。日頃は有効な「……のために」という大義名分は、遍路道を歩くうえでは、さして力にならないと思い知る
    (㉑)。
   ○ 道を間違えてまた戻るほど、つらくて馬鹿ばかしいものはない。「なんで標識をちゃんと立てないんだ」などと心の
    中で愚痴りながら戻ってみるとしっかり標識は立っていて、結局自分が良く見ていないだけだったりする。常日頃は自
    分が悪いくせに人のせいにして、周りの人に賛同を求め「そうだ、そうだ、あいつが悪い」と言っては安心する。とこ
    ろが、ここではそうは問屋が卸さない。怒りをぶつける相手もいなければ、愚痴を聞いてくれる人もいない。全ては自
    分で解決しなくちゃならない。歩き遍路は自分の汚さ、ずるさをまざまざと見せつけてくれる(㉒)。

 五十八番仙遊寺には、宿坊のほかに宿泊できる通夜堂がある。以下はその通夜堂に置かれたノートに残された、遍路途中の人々の思いの一端である。

   ○ 今回、初のお遍路をしています。父が3年前から来ていて、「なんでわざわざ四国の八十八の寺なんか、回るん?」
    と聞いたら、「行ったら分かる!」と言われ、ここまで何とか来ました。最初は、四国を回りながら、海に行き、おい
    しいものを食べ、楽しくやろうと思ってきましたが、今では、人と出会い、人に触れる日々がサイコー!!です。親父!
    サイコーだよ!四国!!(大阪府 男性)
   ○ 他のお遍路さんや地元の方々ともう数えきれないほどお話して、中にはお接待してくださった方もいらっしゃって、
    本当に嬉しくてたまらない一日でした。(中略)最初は興味本位で始めたこの旅も、今、私の歩く原動力となっている
    のは、今まで、私に何らかの形で関わって下さったお遍路さんや地元の方々への感謝の気持ちです。そしてこちらのお
    寺さんのようにお通夜させて下さる方々にも心から感謝いたします。本当に有り難うございました。
    (東京都 27歳 男性)
   ○ 私は本日で36日目ですが、この4、5日前から自分の気持ちが少しずつ変化している感じがしています。ある遍路
    の方に「輪円具足」という言葉を教えていただき、生きている、生きていられるということは、他の色々な人の気持ち
    や行動によってささえられている、そのような意味でした。そう考えてみると、この遍路でも様々な人々からのお接
    待、声援、挨拶等々があるからこそ、ここまで来れたのだと思えるようになってきました。
     自分の犯した罪への懺悔で始めたこの遍路で、懺悔する気持ちに、懺悔の先にある次の第一歩が加わり、感謝する心
    が生まれ、まだ何か見つかるような気がしています。この四国遍路の旅で受けたり感じたりしたものを、これから何ら
    かの形で他の人に返せる生き方をして行こうと思っています。四国遍路とお大師様に感謝。(広島県 男性)
   ○ 父が死に、母が死にそして妻が死に、子供も無く一人です。死にたい、死にたい、死にたいと願い、1番札所を出
    発、生死の辺路の海に苦しみ、もがきながら、気が付けば88番札所に立っておりました。妻は生前子供が生まれるこ
    とを願い、父と母と3人で6回の歩き辺路を終えていました。7回目は私の退職後、二人で歩き辺路する予定でした。
    その妻も、孫を夢見た父母も今は居ない。今、父母・妻が歩いた辺路道を、一人で、人の情けを心の宝としながら、
    4回目の歩き遍路をしております。(愛知県 男性)
   ○ ・・・もう夕方4時過ぎ、雨で服もぬれているところにご住職様が「お風呂を使いなさい」といって下さいました。カ
    ンゲキ! 野宿しながらお遍路をさせてもらっている私にはこの上ない喜びです。
     1番札所を出発してから1ヶ月と少し。体調を崩して会社をやめ、体調が戻ってきたのでこの旅に出発しました。会
    社を辞める数ヶ月前に付き合っていた女性とも別れ、「職なし、女なし、金なし、何にもなし」の私。最初はすべてが
    いやになって「四国に行けば一人になれるかも、誰も知らない所で消えてしまいたい」と思っていました。でも、お遍
    路はまったく違っていました。朝も道で「おはよう」のあいさつがあり、お接待をしていただいてきました。この旅に
    出てからは、それまですべてをマイナスにばかり考えていた自分がバカに思えてきました。この旅で本当の人の心に触
    れられたような気がしています。それは、今までの人の付き合いとはまったく違う、乾いた心が潤いを与えてもらえる
    ような気がしています。ありがとう。ありがとうございます。本当にありがとうございます。これもお大師様のお導き
    なのでしょう。(25歳 男性)

 (ウ)結願に向けて

 次の各文は、結願間近での思い、あるいは結願寺に到着した時の思いを遍路記から書き抜いたものである。

   ○ 生き生きと回想されるのは、めざす札所に着いた安堵の時や足取り軽い一日ではなく、なぜか険しい山中や、トンネ
    ルの数々、熱射にうだる海岸線、あるいは寝場所が決まらず路頭に迷う夕刻など、苦しかったときの情景ばかりだ。
     そして、いくつかの難儀な記憶の断片をたどれば、それが本当に苦しかったのかどうかもわからなくなる。それどこ
    ろか、楽しかったことよりも、むしろ苦しかったことのほうが楽しい場面のようにも思えてくるのだ。巡礼と実人生と
    では比較にならぬだろうが、命に別状のないかぎり、人の一生の苦楽というのは、どちらがめでたいものやら、にわか
    には判断ができないのではないか(㉓)。
   ○ 目が醒めると、どうもまだ夜中らしい。ちょっとやそっと待っても明るくなりそうもない。かと言ってあと数時間で
    結願だと思うと、胸がわくわくして寝てもいられない。(中略)星が空一杯に輝いて本当にきれいだ。歩きながら見と
    れているうちに、何か今日の結願を祝ってくれているような気がしてきて、涙が出てきた(㉔)。
   ○ 「これでやっと目的を達することができる」と思った瞬間、両眼から自然と涙があふれ出るのをとめることができな
    かった。今までの厳しい苦難やお世話になった数々のことが、いっぺんにふき出したかのように万感胸に迫った心境で
    あった。そして、これもきわめて自然に、「ありがとう。ありがとうございました」と、繰り返し叫びながら、両手の
    拳(こぶし)を握って振り下ろし、さらに大粒の涙を流しながら口もとを崩して泣いていた(㉕)。
   ○ 雨の通り過ぎた寺域は清く、木立も堂宇の屋根も、雨に洗われてすがすがしく光っている。本堂に進み、思いを込め
    てしっかりと声を出し、二人でお経をあげ始めるが、途中から遍路道中の諸々を思い出すにつれ、ここまで来れた嬉し
    さも相乗し、声が詰まり、目頭が熱くなって、どうしようもなかった。家内の目にも涙が溢れている。よくここまで頑
    張った。本当に二人でこうしてお参りすることが実現できた感激は、言い尽くせぬものがある(㉖)。

 (エ)遍路を振り返って

 次のものは自らの遍路体験を顧みた時の思いを遍路記から抜き出したものである。

   ○ 私は多くの人々から支えられて、この四国遍路を終えることができました。つらい時、苦しい時に、不思議と誰かが
    現れて勇気づけて下さる、こんな体験は一度や二度ではありませんでした。道を教えて下さった人、「頑張って下さ
    い」と声をかけて下さった人まで含めると、それはもう、とても数え切れるものではありません。そして恐らく、私を
    支えて下さった多くの人たちも、私という一人の遍路を通して、自らの仏心を確かめられたに違いありません。信仰を
    通して、多くの人々が生かし生かされている世界、これが千年以上も前から連綿と続いている四国霊場です(㉗)。
   ○ 私の四国遍路は、日夜、接待という有形無形の人の情けを身に受けつつ、いつでも今が最もつらく、同時にいつで
    も、生きている今この瞬間が一番しあわせだと思える旅であった(㉘)。

 (オ)通し打ちを終えた若者

 ここでは男女二人の遍路を取り上げた。結願寺で出会った真摯な若者の姿と両親に25通のハガキを書き続けた娘遍路の思いである。

   a 結願を迎えた若者

 八十八番大窪寺本堂(写真4-3)へは、昔からの山門をくぐって、正面階段を上る道と新しい大きな山門・大師堂を経て本堂へ通じる道とがある。平成14年9月16日の昼前、その学生(福井県 21歳男性)は新しい山門・大師堂を経てやってきた。新しい山門を進む者はほとんどそのまま本堂へ向かう。ところがその学生は、途中から本来の山門へ下り、その山門の外に出て合掌礼拝をしてから、あらためて山門をくぐり、階段を上って本堂へ向かった。手水(ちょうず)の所で手を洗い、口をすすぎ、本堂の前で笠を取り杖を置き本尊の前に立った。賽(さい)銭を投じ深々と一礼し、他の参拝者を考えてのことであろうか、少し左脇により、経本を開いて般若心経を唱え始めた。大きくはないが明瞭(りょう)に声を出しての奉納である。その後、瞑目(めいもく)合掌が続いた。他の人たちが手を合わせては去っていく。彼はしばらく合掌しつづけた。最後に深々と礼をして石段を下りてきた彼は納経所を傍目(はため)にすたすたと元来た道へ帰っていく。改めて大師堂へ向かっていたのだった。
 彼にとって山門は心を込めてお参りするスタートであり、本堂・大師堂の参拝を済ませて初めて納経帳への朱印を頂くものと考えるようになったという。黙々と何の迷いもない彼の動きは他の人とは一味違うすがすがしいものに映った。彼の納札の願意には感謝とある。学生に話を聞いた。
 「ここまで来ると矢張り疲れを覚えます。でも本当にスカッとした気分です。」と満足そうに語る。ここまで来るのに35日、4~5日は野宿もしたという。歩き遍路を始めたきっかけを聞くと、「学生生活で何か一つやり遂げたいと思ったこと、今まで中途半端に生きて来た自分を振り返って、四国遍路をやり遂げられたら、少しは自分への自信がつくかもしれないとも思ったこと」だと幾分はにかみながら話す。
 「でも歩き始めた最初のころだけで正直、投げ出したくなりました。僕はテーピングなどの準備もしてなくて、四番まで行っただけで既に足がぼろぼろになりかけていました。本当に最初の1週間はつらかったです。」と言う。それが10日前後で足の方も慣れてきて、それ以後はどんどん歩けたから途中からは断念しようなどという思いは全然消えてしまった。一番きつくつらかったのは十一番藤井寺から十二番焼山寺の間で、この間のアップダウンの急坂は苦しく、特に上りの擬似木の階段の延々と続くこと、つま先に負担がかかる急坂の下りの辛(つら)さはこたえたという。もう一つの辛さはこの間に飲み水のないこと。飲み水の用意無しでは苦しくて歩けない。この道を踏破できれば大抵の遍路道は十分歩き通せる。それくらいきつい場所だったと思い起こすように語る。彼の話を続ける。
 「お接待ももちろん有り難かったのですが、おじさんおばさんが、『どこから来たん?』『苦しいだろうが頑張りよ。』とあれこれ声を掛けてくれました。人とそうやって会話するとそのあとすごく歩けるんです。理屈はともかく足も心も軽いんですよ。それで何度助けられたでしょうか。ほんの一言でいい、人とかかわることで力をいただくものなんですね。土・日だけ母が福井から来て一緒に歩いた時がありました。母は、『四国の人が福井に来たら絶対生きていけないというぐらい、四国というところは包んでくれる温かさがある。』と言っていました。
 僕はお接待を受けてもその恩を返せるほどの者ではないのですが、こんな温かい人間関係の原点のようなものを見られたのは、これからの自分の人生に大きな糧になるかなと思っています。」
 途中の苦労も、今はむしろ楽しげな思いであるかのように明るく語る。歩き遍路のこの若者に、お参りに来た3人組の70歳あまりの女性が声をかける。一人は車椅子、それを二人が支えるように押している。「兄ちゃん歩いてのお参りよくやったね。私たちもこうしてお参りしているだけに本当にえらいと思うよ。」と言う。青年は「有り難うございます。」と素直に謝辞を述べながら「おばあちゃん方もどうかお気をつけてください。」と心からの言葉を返している。若者とお年寄りの笑顔でのやりとりは温かい雰囲気に包まれた光景であった。

   b **さんの遍路便り-20歳の学生遍路-

 彼女(愛媛県 昭和48年生まれ)は大学3年生のとき、障害者の施設へ実習に行った。何の自由もない閉じ込められた世界のように感じられたという。「自分もそんな存在として扱われていたかもしれない。人間の命とは何なのか。人の生きる価値は何なのか、多感な20歳を迎えて胸のうちのくすぶっている思いを打ち破りたい、自分の生きる価値を確かめたい。」と思ったのが遍路への動機だったと当時を顧みて語る。
 20歳の平成5年、大学3年の夏休みと4年になる前の春休みとを利用して四国遍路を成就した。夏(8月6日~22日、17日間)は一番霊山寺から四十番観自在寺までの、また春(3月2日~18日、17日間)は四十番から八十八番大窪寺までの、合わせて34日での遍路行であった。その間、前、後半の17日間に13通と12通のはがきを両親の元に書き送っている。びっしりと書かれたその便りをもとに彼女の思いをたどってみる。
 心の重荷を背負った彼女の遍路旅は、「戸惑いながらの1番」で大師堂(写真4-4)へ向かったときから、「涙がぽろぽろ出て」止まらず、「歩いている時に温かい心で見守られると、なおさら嬉しくて涙が出る」心境で始まった。でも、「きっと帰るころには弘法大師様が私を力強くしてくださると思っています。明日も歩きつづけます。笑顔で、いろんな人と出会いながら…。」と初日の思いを書き送っている。
 4日目は、焼山寺への上り下りの苦しさを越えて、地域の人の心温かいお茶の接待を受け、嬉(うれ)しくて話し込んだ。その日の思いを「足が痛いとか、肩が痛いとかつらいよりも、こうやって喜びになって戻ってくることの方が嬉しくて歩き遍路を頑張っているみたいです。でもやはり思います。生きる喜びって言うのは、つらいことよりも、それ以上になってはね返ってくる喜びがあるから人間は生きられるのではないか、生きていられるのではないかと思っています。そんな爽快(そうかい)感を味わいながら、今日も歩くのです。」と苦しさと喜びを記している。
 8月15日、前日40kmも歩いて、精神的にもしんどく、「重く痒(かゆ)い足を引きずりながら」進む彼女に「70歳くらいのおばあさん」が家から走ってきて、「ジュースでも飲みなさい」と120円を手渡してくれ、わざわざ宿所まで送ってくれる。「こんな人も居るのだなとまた励まされました。『弘法大師様ちゃんと見守ってくれる』そのおばあさんの言葉を胸に……。」と記す彼女は、そのさりげない心遣いに励まされながら、また一歩を踏み出す。
 途中、自然の驚異も身にしみて体験する。3日目には炎天下の中、脱水症状を起こし、「目は朦朧(もうろう)として足もしっかり歩けず、気を抜いたら倒れそう」で「足とか肩が痛いよりも脱水症状のほうが辛い。」と乱れた文字でつづる。また、二十四番最御崎寺(ほつみさきじ)への海岸線では、台風の余波を受けた太平洋の荒波の激しさを恐れながら、時には土砂降りの雨の中を歩く。しかしまた、自然の恵みや美しさに感激し癒(いや)され、勇気をもらったという。
 「8月16日なんと言ってもこの『神峰の水』というのが冷たくておいしいったら、ありゃしない。感激しました。そしてこの神峰から眺める太平洋のきれいなこときれいなこと……。2日前の荒れた太平洋とは別人で、昨日よりももっときれいでした。お寺を下りながら充実感と頑張れる力といろんなパワーがよみがえった気がします。一つ一つお寺で納経を済ませるたびに喜びが増えていきます。山を越え、谷を越え一歩一歩頑張っています。」
 8月22日、17日目。やっと足摺(あしずり)にたどり着く。何度も道を間違え、涙を流しながら歩いてきた。その間の経験は「すべて私にとっては不必要なことではなかったと思っています。」そして「やっと人の目にも負けず、ひたすら歩くことが出来るようになりました。」とつづり、そこまで歩いてきた今、「もし、四国八十八ヶ所をして、生まれ変われるのなら、私は再び**になりたいです。どんな苦労をしようが、困難なことがあろうとも、私は**という人間が大好きだからです。私は私でよかったと心から思っています。いつも心配かけてごめんね。そして有り難う……。」と17日間の遍路を通して、しっかりと自分を見つめ直し、温かく見守ってくれる両親への感謝の気持ちを、わずかながら、しかし素直に書き送っている。
 後半の遍路行スタートの2日間は、母親も一緒に歩いた。そんな親の気持ちをしかと受け止めながら、今度は夏の炎天下とは違う初春の雪舞う道を歩く。その寒さに耐えながら、「ちょっと精神的にきついです。でも頑張らなければ、みなが私のことを応援してくれているのだから……。」と自分に言い聞かすように一歩一歩を踏み出している。後半は膝(ひざ)の痛みをずっと抱えながらの遍路行であったが、さすがに、結願の大窪寺を前にすると、「精神的には晴れ晴れしているので、足取りも軽かったです。」と記す。そして「やっとやっとの88番で、本当に嬉(うれ)しかった。」と記す彼女は「大窪寺に着いたときには感激と感動とで弘法大師の前で大粒の涙でした。やっぱり生きていてよかった……と思いました。」と結願の感動を両親に書き送っている。彼女は多くの人々と触れ合い、励まされ、自然の懐に包まれながら、しっかりと自分と向き合い、新たな自分の生き方を感じ取ったのかもしれない。彼女にとっては大きな転機になる34日間の遍路行であったと思われる。ただ、「これはやっぱりやった人にしか分からないことかもしれません。」とも書き送っている。

写真4-3 結願寺八十八番大窪寺本堂の参拝風景

写真4-3 結願寺八十八番大窪寺本堂の参拝風景

香川県さぬき市多和にて。平成14年9月撮影

写真4-4 一番霊山寺の大師堂

写真4-4 一番霊山寺の大師堂

鳴門市大麻町。平成14年9月撮影