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遍路のこころ(平成14年度)

(1)各地の新四国①

 図表2-2-2で分かるように、愛媛県内には多くの新四国があるが、今回の調査では南・中・東予地域から代表的な新四国を一つずつ取り上げ、その概要を整理した。

 ア 五十崎町御祓新四国

 喜多郡五十崎(いかざき)町の御祓(みそぎ)地区(旧御祓村)には、「みそぎ大師まいり」として地元の人々に親しまれている「御祓新四国」がある。御祓地区は、五十崎町の中心部から約7km離れた山間部で、小田川支流の御祓川の北側の只海(ただみ)、南側の北表(きたおもて)、山鳥坂(やまとさか)の3地域に分かれ、370人ほどの人々が主に農業で生計を立てている。

 (ア)御祓新四国のおこり

 御祓新四国のおこりを示す史料としては、明治2年(1869年)と刻字した札所の石碑があったと伝えられているが、現在はその石碑の場所は不明である。しかし、別の供養塔に明治14年(1881年)と刻字されていることから、明治の早い時期に成立したものであると考えられる(⑩)。
 新四国が設立された際に寄贈、建立された本尊石仏の刻字には、施主として地元の人々だけでなく山を隔てた河辺村や旧福岡村(現五十崎町)、旧重松村(現五十崎町)、さらに上浮穴郡旧立石村(現小田町)の人たちの名前が見え、近在村民の関心が高かったことがうかがえる。しかし、この「みそぎ大師まいり」は、昭和の年代になると、太平洋戦争やその後の地域の過疎化で次第に衰退していったが(⑪)、昭和62年(1987年)ころに地元有志の熱意によって再興されて現在に至っている。

 (イ)御祓新四国の巡拝路

 御祓川を挟んだ里山や平地に設けられた巡拝路には、お堂や小さな岩室などに各札所の本尊や大師像を刻んだ石仏が安置され、八十八ヶ所の霊場名がそれぞれ木札に銘記されている。巡拝路はまず、成内(なるうち)地区の1番石仏(写真2-2-1)から北表の山中を回った後、里山に開けた新田(にいだ)地区を巡拝する。その後、御祓川に沿って成内地区を経て川上地区を巡拝した後、成内地区の海蔵寺での数珠(じゅず)送りで巡拝行事が終わるが、その間の行程は約10km、標高差は約200mあり、巡拝に約5時間を要する。
 平成14年4月21日の縁日の巡拝について概要を記すと次のようである。
 成内公民館を出発して、まず1番から標高約325mの頂上周辺の山道に点在する22か所の札所の石仏を巡拝する。次に、里山に広がる新田地区を巡拝する途中の新田公民館では小豆ご飯や温かいお茶の接待がある。その後、御祓川両岸に点在する札所の石仏を巡拝するが、その間、紅葉の名所となっている紅葉滝を通り、常久寺では小豆ご飯のお握りやお茶の接待がある。また、巡拝路沿いでも各所で清涼飲料水や果物のお接待が出ている。さらに常久寺から御祓川を渡った成内大師堂でも接待を受けたのち、川上地区の16か所の札所の石仏を巡拝するが、この間の川上大師堂でも小豆ご飯とお茶の接待が出ている。最後に巡拝者は、海蔵寺に集まり、小豆ご飯や豆腐田楽の接待を受けた後、地元住民と一緒に住職の法話を聞き、そのあと数珠送りをして、みぞぎ大師まいりの巡拝行事を終わった。
 この御祓新四国の巡拝路に点在している石仏は、すべて地域住民が施主となっており、必ずしも順番通りには配置されていない。それぞれの石仏については、「受け前」と称して地域の人々によって世話人が決められており、縁日前には、石仏とその周辺の清掃を自主的に行うという風習が残っている。巡拝路に点在するいずれの石仏やお堂も、地域の人々にとってはかけがえのない大切なものであり、その気持ちが巡拝路や石仏周辺の整備にもつながっているようである。

 (ウ)御祓新四国の接待

 御祓地区の中心部にある成内大師堂には、明治44年(1911年)から現在まで書き継がれている『大師様施待記録帳』(接待記録帳)が残っている。この記録帳の見開きには、「毎年、酒1升8合、肴代 50銭、青物 ヤドノ事 以上ノ定メ」と記されており、明治44年当時の接待に用いる酒、肴(さかな)などの量や費用などが定められている。さらに各年の記録には収支決算が記入されており、成内地区で行われてきた接待の内容をうかがうことができる。この記録帳は昭和50年(1975年)以降になると収支決算も簡略化されている。
 この成内大師堂で接待を続けている**さん(昭和7年生まれ)に、縁日での接待の様子を聞いた。
 「御祓大師まいりには、私の家は大字只海の川上地区の手前で巡拝者に接待を続けていたが、成内地区に転居したのを機会に、成内大師堂で仲間と一緒に接待をするようになった。転居当時は若い衆や娘さんなどの巡拝者も多く、接待も10人ほどでやっていたが、当番に当たった家の女性は、前日から豆腐や里芋などの料理の準備や当日の酒、肴(さかな)の賄いで忙しかった。また、接待後の御籠(おこも)りと称する酒盛りもあって、その世話のために女性は特に忙しかった。15年ほど前に仲間内の4、5人が接待講から外れ、さらに人数が減って、現在は3人で接待を続けている。我が家の天井裏には、川上地区で接待をしていた際に巡拝者からもらった納札が俵に入ったまま今も残っており、亡父から大切に扱うようにと言われている。」

写真2-2-1 成内地区の1番石仏

写真2-2-1 成内地区の1番石仏

成内地区。平成14年4月撮影