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遍路のこころ(平成14年度)

(1)各地の新四国②

 (エ)御祓新四国も巡拝

 昭和62年(1987年)からの御祓新四国の再興に尽力した**さん(大正12年生まれ)に、昔の御祓新四国の思い出を聞いた。
 「昭和7年(1932年)の小学校3年生のころ、春の縁日が近づくと、この御祓地区で栽培していたコウゾ・ミツマタで漉(す)いた障子紙で納札を作り、縁日の前日には筆で『奉納四国八十八ヶ所同行二人』と書き、その下に名前を書いて当日の巡拝の際に持参していた。その札を納めながら巡拝していくと各所で小豆ご飯などのお接待があり、そのおいしさは今でも忘れられない。また、夏の縁日には午前中で巡拝が終わるように早朝から回り、午後の相撲見物を楽しみにしていた。夜は、ちょうちんの明かりのもとで盆踊りがあり、にぎわっていたのを覚えている。御祓地区の人々は、縁日には巡拝者の接待に追われるので、若い衆や子供だけが周辺地域の巡拝者に混じって巡拝していた。地元の人々は、接待を行えばお大師様のお陰があることを信じ、巡拝者を厚くもてなしてきた。」
 また、心の安らぎを求めて巡拝を続けている松山市の**さん(昭和24年生まれ)にも、巡拝の動機を聞いた。
 「平成9年に子供を事故で亡くしたことを契機に平成11年から巡拝を続けています。主人と一緒に巡拝した最初の年は、亡き子供を思い出して涙が止まりませんでしたが、巡拝を終えた時には本当に気持ちが落ち着き、心からお参りできてよかったと思い、巡拝に誘ってくれた方に感謝しました。巡拝はかなりの道のりで、1番石仏から85番石仏までの山道は急な坂道で、毎年登るのが大変ですが、苦労して登り終えた時のそう快感は格別で、地元の人たちに感謝したい気持ちでいっぱいになります。巡拝中、札所ではお米や札を納めて、短い時間のお祈りをしていますが、手を合わせることでとても充実感がわき、亡き子供に逢(あ)えたような気持ちになります。また、巡拝路の至る所で、地域の方々の心のこもったお接待があり、その気配りをありがたく頂いています。縁日の4月21日には仕事の都合をつけて必ずお参りしており、毎年の巡拝が生活の一部になっています。今までと違って、知らない人と心安く話ができるようになったのも巡拝のお陰であり、これからは知人も誘って参加できたらいいと思っています。」

 イ 砥部新四国

 「砥部新四国」のある砥部町は、松山市の南に隣接し、伊予市や広田村などに囲まれた人口約21,000人の町である。近年、松山市のベッドタウンともなっており、町の産業を支える砥部焼きは特に有名である。なお、「砥部新四国」は「砥部四国」とも呼ばれている。

 (ア)砥部新四国のおこり

 砥部新四国のおこりを示す資料としては、1番・3番・75番の本尊石仏(写真2-2-5)を安置している岩谷口・熊野神社前の大師堂に掲げられた堂建立時の「寄進者覚」の板書がある。大内優徳氏の『砥部四国』によれば、この板書に「庄屋日野治右衛門の芳名とともに天保三辰年九月吉辰と記され、奉納俳額には天保七歳」とあり、そのことから「石仏の造立は天保年間にさかのぼるものと考えられ、砥部新四国のおこりはそれ以前であったと推定される。(⑫)」としている。また、「大師堂建立寄進者覚や堂内に安置された3番の本尊石仏には、文政10年(1827年)から元治元年(1864年)ころまで上唐川村(現伊予市)の庄屋を務めた景浦喜右衛門の名もあり、砥部新四国のおこりを推測する一つの資料といえるのではないか。(⑬)」、とも記されている。
 さらに大内氏は、砥部新四国の開創は、1番・12番の本尊石仏を寄進して大師堂の建立寄進者としても名が記されている新谷藩領の岩谷村(現砥部町)庄屋日野治右衛門らが中心となって提唱し、砥部郷・麻生郷内の僧侶・住民、それに隣接地域の人も呼応して始まったのではないか(⑭)、と推定している。
 砥部新四国は、開創以来、明治初期ころまでは盛んであったが、その後、太平洋戦争などもあって、巡拝は次第に途絶えてしまった。しかし、昭和50年(1975年)に地域住民等の尽力によって、「砥部四国八十八ヶ所めぐり」として再興された。この再興に際しては、昭和45年(1970年)ころに砥部町教育委員会が調査を行い、欠損した数体の本尊石仏を新たに造立した。調査は、昭和50年春に終えたが、その間に地区住民によって札所周辺の道も整備された(⑮)。

 (イ)砥部新四国の巡拝路

 巡拝は、春の彼岸前後の土・日・月曜日の3日間行われる。かつては、四国八十八ヶ所の先達資格をもつ者が中心になって世話をしてきたが、平成10年以降は砥部町の公民館事業の一つとして新四国の巡拝が企画され、公民館の人たちが世話をし、先達の先導で3日間に100名ほどの町民が参加している。
 砥部町公民館で聞いた巡拝の様子を整理すると次のようになる。
 1日目の巡拝は、川登(かわのぼり)地区の千里(せり)、立野(たつの)、川上、川中の各地区に点在する15の札所を巡拝する。まず、巡拝者は8時に砥部町公民館に集合し、バスに分乗して、国道379号を砥部町川登の銚子ダム入口まで行く。ここから、21、33、27番を巡拝したあと、約1kmの山道を国道まで下った後、送迎用バスで千里口(せりぐち)まで下る。その後、徒歩で千里口の29番からニツ木の30番を経て、立野の32番まで登って巡拝する。この札所は砥部新四国の中で最も標高が高く(約500m)、瀬戸内海を望むことができる。途中の立野公民館では地元住民による昼食の接待を受け、再び千里口の22番まで下ってくるが、ここまで来るのに昼食休憩を含めて約3時間を要する。この千里口から山道を登って26番を巡拝した後、川上と川中の集落に点在する七つの札所を巡拝して1日目の行事を午後4時ころに終了する。
 2日目は、8時に岩谷口の大師堂の1・3・75番から巡拝を始めて、大南(おおみなみ)地区の46番までを1日かけて巡拝する。この間には岩谷口地区の11か所、岩谷地区の8か所、さらに久保田地区の9か所を巡拝するが、久保田の集会所では昼食の接待がある。昼から、大谷・外山(とやま)地区のそれぞれ二つの札所を巡拝した後、五本松・和田・北川毛地区に密集した13か所を巡拝する。これらの札所を巡拝するのに3時間を要する。そして最後に、大南地区の5か所を巡拝して解散する。
 3日目は、中央公民館を8時30分に出発して、千足(せんぞく)・宮内・川井地区の七つの札所を巡拝した後、原町の11か所を経て、松山市上野町の一つの札所をお参りし、最後は三角(みよおか)の三岳寺にある二つの札所を巡拝して打ち納めとなり、昼過ぎに3日間の巡拝行事を終了する。

 (ウ)砥部新四国の巡拝

 明治から大正年代にかけて先達として砥部新四国を巡拝した佐川弥太郎氏の話として、『砥部町誌』には次のような内容が記されている。
 私は、明治35年(1902年)に砥部四国の巡拝を始め、それ以後30余回も巡拝を続けているが、旧砥部の中心大南の街には3軒の宿屋があり、2泊3日の巡拝の際はその宿屋に泊まった。巡拝を終えて地元に帰った者は、自宅で寝たのでは大師のご利益がないということで、お互いに他人の家に泊まる習わしがあった(⑯)。
 さらに、昭和の初期ころから巡拝を続けた伊藤英雄氏は『わがふるさとと愛媛学Ⅶ』の中で、砥部新四国に託す思いを次のように語っており、抜粋して記す。

   私が尋常小学校のころ、地区には『お大師講』があり、毎年春休みに砥部四国の巡拝を3世代の家族約30人が2日間で
  行っていた。初日は、川登より岩谷・大南と巡り、夜は大南の戎(えびす)の宿屋に泊まり、銭湯にも行き、夕食後は砥部座
  で映画も見た。2日目は、千足・原町・川井・北川毛・五本松・大谷と巡り、そして出発地の川登に戻り、2日間の巡拝が
  無事終了できた喜びを語り合い、疲れを忘れた。
   私は小学校3年生の病気の折、祖母に連れられて砥部四国を巡拝したことがあったが、3か月ほどで全快し通学するよう
  になった。この体験も、私が砥部四国巡拝に参加する理由の一つになった。戦後、久しく砥部四国は忘れられていたが、昭
  和45年(1970年)ころに町教育委員会が調査を行い、先輩先達のもとに公民館事業として『ふるさと探訪』(別名『砥部
  四国巡り』)の名称で復活した。今は、毎年3月下旬に3日間の日程で開催され、子供からお年寄りまで約100人が参加し
  ている。その行程は山あり谷ありで、実際に歩いてみるとなかなかきつい状況である。ふるさと探訪では、参加者の集団を
  『参拝団』、巡るコースを『巡拝コース』と呼んでおり、同様に、道案内をする人のことを『先達』と呼んでいる。現在、
  19名が先達を担当し、『先達会』が構成されている。私が先達を務めて11年になるが、『ふるさと探訪』に参加してよ
  かったと思うことが三つある。
   まず一つには、参加することでふるさとの自然を見直すことができることで、初めて参加した多くの人々が、『砥部町に
  こんなすばらしい所があったのか。』と驚かれる。人ひとりがやっと通ることができるくらいの山道を歩く時には、小学生
  などは探検の好奇心で目を輝かせている。巡拝途中の山頂での休憩では、女性は下界の景色を眺めながら疲れをいやしてい
  る。こうした自然の美しさは実際に歩いてみないと案外分からないもので、この行事を通してその良さに気づかされる。
   二つ目は、参加者同志の触れ合いが生まれることである。歩き始めた最初は、お互いに会話もあまりなく、ただ黙々と歩
  を進めている。しかし、時間がたつにつれて巡拝団のあちこちから笑い声や楽しそうな会話が聞こえてくる。この巡拝には
  老若男女が参加するので異世代間の交流が深まり、苦労しながら一緒に歩いているという共通の体験の中から、一種の連帯
  感が生まれてくる。
   三つ目の特徴は、各地域の人たちとの触れ合いが生まれることである。巡拝コースの道すがら、私たちは本四国になぞら
  えて、二十数か所の集会所や広場などで『お接待』を受ける。巡拝者が歩き疲れたころに、それぞれの接待場所で甘酒やよ
  もぎもちをいただき、元気を回復する。ここでは、お接待をしていただく方々の温かい心に触れることができるわけで、こ
  のお接待の心は四国に住む私たちの誇りとすべき文化であり、今後ともその行為の奥底に流れ続ける心情を大切にしていき
  たいと思う(⑰)。

写真2-2-5 岩谷口にある大師堂の本尊石仏

写真2-2-5 岩谷口にある大師堂の本尊石仏

平成14年6月撮影