データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

遍路のこころ(平成14年度)

(2)遍路の宿と人々の交流⑩

 今後の宿の経営(図表1-2-32)について、今まで通り続けていくつもりかという問いには、ほとんどの91%(39軒)の宿が、「続けたい」と答えている。
 今後も続けたい主な理由(表1-2-33)に、「少しでも従来通りお遍路さんのお役に立ちたい」が73%と最も多く、次いで「後継者がいる」の13%や「お遍路さんが多く将来性がある」の10%がそれに続く。その他の中に「今後お遍路さんに奉仕する意味合いから、宿泊料金等の大幅割引を検討している」という回答もあった。

 (イ)特色ある遍路の宿

 現在営業している県内の遍路の宿から、特色ある2軒を取り上げ、宿の特色や遍路の感想、宿主の遍路への思いなどをまとめた。

   a 民宿「一里木」

 「一里木(いちりぎ)」は、松山市と高知市を結ぶ国道33号に面した上浮穴郡久万町入野にある。久万町は松山市と高知市のほぼ中間に位置し、古くから四十四番大宝寺の門前町、近世では松山藩の在町、旧土佐街道の宿場町として繁栄した高原の町である。
 「一里木」(写真1-2-22)は、昭和49年(1974年)5月に、現在の主人(**さん、昭和21年生まれ)の先代が始めたものを、今(平成14年)から13年前に奥さんと2人で引き継いだ。宿は国道沿いという位置的なこともあり、通りすがりで予約なしで飛び込んでくる自家用車の客が大半で、次いで徒歩、マイクロバス、自転車・単車の順となっている。年間を通して400人ほどの宿泊客があり、その内、約30%が遍路である。本業は農業なので、客には自家栽培の米や新鮮な野菜などの食材を使う。宿泊する遍路で多いのは、定年退職後第2の人生を迎えた初老の人たちと20歳代の若者である。四国遍路は新たな人生の目標づくりや自分を見直す旅でもある。主人は、「何不自由のないこの世だからこそ、不自由に耐え、行(ぎょう)を積んでほしい。」と遍路に注文する。
 さらに、この民宿では宿の家族と遍路や遍路同士の交流がよく行われ、思い出に残る宿として慕われていることは、長年続いている宿帳代わりの雑記帳「旅路」と題されたノートを見れば一目瞭然(りょうぜん)である。「旅路No.24」と「旅路No.25」の中から、幾人かの宿泊客の手記(原文のまま)を紹介する。

   ○ 平成11年8月21~22日泊 Tさん(女性)
     一里木の皆さんへ 2日間、大変お世話になりました。こちらには6年前、お遍路の時にもやはり2晩お世話になり
    ました。6年経った今も、やはりこちらの一里木様の事が忘れられませんでした。おばあちゃんやお母さんの明るさ、
    優しさ、お父さんの本当に美味しい料理、どんなにか心励まされたかわかりません。あの時「きっとまたここを訪れよ
    う」と思っていました。それがやっと実現し、再び皆様の変わらぬお心遣いに、実家へ帰ったような気持ちになりまし
    た。本当にくつろいだ2日間を過ごさせていただきました。6年前学生だった私も今は看護婦として働いています。
     本当にありがとうございました。旅先の事でこのような形で誠に申し分けありません。
   ○ 平成12年4月23日泊 大阪府Kさん(男性)・19歳
     野宿をしながら遍路している私を「久万は朝寒いから今晩はお泊まりなさい」とおばあちゃんから朝御飯まで頂いて
    有難く思います。大阪に寄る事があれば、どうぞ山寺ですが声を掛けて下さい。
     合掌
   ○ 平成13年4月2日泊 茨城県Hさん(男性)
     一昨年4月お世話になって以来、2度目の宿泊。世の中色々な人が色々と生きている。歩き遍路にも色々居る。一里
    木さんも大変な出来事を家族の協力と頑張りで対処されていることを老遍路から聞かせてもらい、久万で泊まるなら一
    里木さんでと決めていた。「朝の来ない夜はない。春の来ない冬はない」私も自分なりに頑張りたい。遍路も日常生活
    も同様に。
   ○ 平成13年5月8日泊 東京都Tさん(男性)
     入浴だけできないかと、おたずねしたのですが、お接待をいただき大変ありがとうございました。なれない野宿を続
    けながらの歩きへんろで、久しぶりのたたみの上は本当にありがたかったです。木ぶろも最高に気持ちがよかったで
    す。本当に助かりました。ありがとうございました。

   b 民宿・旅館「長珍屋」

 長珍(ちょうちん)屋のある浄瑠璃町は旧坂本村(現松山市)に属し、旧土佐街道沿いにあり、国道33号が開通するまでにぎわっていた。久万(くま)町から三坂峠を越え、旧街道の谷を下り、桜・榎・丹波などの窪野地区を経て浄瑠璃町に至る。かつて三坂峠から浄瑠璃寺、八坂寺あたりの道沿いには10軒を超す多くの遍路宿があったが、今は浄瑠璃寺門前の長珍屋(写真1-2-23)だけである。
 光明寺住職の加川芳光は、今から160年ほど前、生計を補うために提灯(ちょうちん)張りの内職をしながら遍路のために、「長珍屋」という屋号の遍路宿を始めた。春・秋の遍路のシーズンに宿を営むかたわら、農業で生計を立てていた。周防国(現山口県)の遍路・中務茂兵衛の『中務茂兵衛諸日記』には、大正8年(1919年)7月に、「四日代浄留り寺村加川芳光」とあり、さらに翌9年6月に、「廿日代浄留り寺村香川藤市(正しくは加川豊一)方一泊。(㊽)」と記され、その後も定宿として度々宿泊している。
 昭和30年(1955年)ころからバスによる団体遍路が出現するまで、かつての遍路は歩く以外に巡拝方法はなく、遍路道沿いには宿も沢山あったが、大正・昭和と時代が進むにつれ、巡拝の風習も徐々に衰微し、不況の上に戦時という世相や交通機関の発達も相まって遍路宿も姿を消していった。そのような中でも遍路宿の灯(ひ)を消すことなく守り通してきたのが長珍屋である。長珍屋の年間宿泊者数は本店だけで約25,000人とけたはずれに多く、その内90%が遍路である。
 現在、この宿は名物ばあちゃんの**さん(大正14年生まれ)と長男夫婦と孫2人を中心に、10人ほどのパート従業員も加わり運営している。
 **さんがここへ嫁いで来た、戦後間もないころの宿泊料は30円だった。昭和30年ころには300円になったが、年間の利用客は300人程度で、一家を支えてゆくにはとても足りず、収入は主人の農業に頼っていたという。
 宿には様々な遍路がやってくる。**さんは、「どんな人だろうと皆さんがお大師様だと思ってご奉仕させていただいています。」と言う。また、もう一つ心底から真心を込めた「言葉のお接待」も心掛けていると言う。私のところでは、「歩いて四国を回られているお遍路さんにだけ、無料で泊まっていただく『お接待』をしてきています。これだけは、長男夫婦にも無理を言って私の願いを聞いてもらっています。」と話す。長珍屋は、歩きの遍路を無料でお接待する宿として有名だ。宿泊予約表に歩き遍路を「お接待」と書いて車遍路と区別していると言う。
 四国も高速道路と架橋の時代に入り、大型観光バスの増加によりお参りの人は増えたものの、大阪方面からでも日帰りができる時代になった。観光を兼ねた団体の参詣(けい)者は道後温泉を宿泊地にしている。しかし、歩き遍路などの巡拝者はここをよく利用すると言う。
 最後に、お遍路さんに「遍路に出ている時は、無になって手を合わせてほしい。一生懸命になれば必ずご利益が得られる。」と語る。長珍屋の名物ばあちゃんは、今日も明るく、来館されるお遍路さん一人ひとりに、真心を込めて手を合わせるあいさつを繰り返している。

図表1-2-32 今後の宿の経営

図表1-2-32 今後の宿の経営


図表1-2-33 今後も続けたい主な理由

図表1-2-33 今後も続けたい主な理由


写真1-2-22 久万町の民宿「一里木」

写真1-2-22 久万町の民宿「一里木」

久万町入野。国道33号沿い。平成14年6月撮影

写真1-2-23 長い伝統の宿「長珍屋」

写真1-2-23 長い伝統の宿「長珍屋」

松山市浄瑠璃町。浄瑠璃寺前。平成14年10月撮影