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遍路のこころ(平成14年度)

(2)遍路の宿と人々の交流⑦

   b 西条市から新居浜市までの遍路宿

 遍路道は讃岐街道と交差しながら東に進み、西条市氷見(ひみ)の六十三番吉祥寺に至る。山門前には日野クニヨが遍路宿「楢屋」を昭和10年代まで営んでいた。道はさらに東に進み、洲ノ内の六十四番前神寺に至る。寺入口の宿「三原屋周作」も先はどの『四國巡拝道順案内』に指定宿として記されているが、やめた時期など不明である。遍路に喜ばれた湯之谷温泉を過ぎ加茂川に至る。遍路道は国道11号が通過する現在の加茂川橋より下(しも)手、常夜灯のあるところから対岸に渡っていた。橋の架かる以前は、増水した時など遍路は足止めされ、水が引くまで川の手前で待たざるを得なかった。加茂川に近い木賃宿「旭屋」には、そのような人も多く泊まったと思われる。
 渡河した遍路や旅人は、鉄道や国道11号がつくまで西条南部の中心だった大町に向け一本道を東に進む。大町の集落は街村をなし、讃岐街道と西条祭りの“だんじり通り”が交差する四ツ辻は、宿場町として金毘羅参詣の旅人や四国霊場巡拝の遍路の往来でにぎわった。かつてはこの四ツ辻を中心にして、東西に旅籠(はたご)や木賃(きちん)宿が軒を連ねていた。加茂川の橋のたもと、うどん屋を兼ねた「橋本屋」から四ツ辻を挟んで、現在の西条市農協大町支所近くにあったという「小川屋」まで14軒もの宿が、ほぼ讃岐街道沿いに並んでいた。中でも川原町バス停前の製材所に建っていたという高級旅寵「田野屋」をはじめ四ツ辻近くにあった「立田屋(のち国安屋)」は、芸妓(げいぎ)などが出入し、三味線の音が昼間から聞かれたという。地蔵堂前の「三島屋」、街道筋の「米田屋」「岸田屋」「新屋」などは木賃の安い宿として、多くの遍路や山間部の人たちでにぎわった(写真1-2-18)。これらの宿はほとんど昭和10年代前半に廃業したが、一部は終戦前後の混乱期に廃業している。この大町地区も町の盛衰に交通の発達が直接かかわっているといえよう。
 大町の旧街道沿いにある大念寺の前住職**さん(大正4年生まれ)は、「大念寺前の通りは金毘羅街道で、人の往来も多く、寺の前には馬車屋さんがあり、馬車が往来し、にぎやかな町だった。確か大正10年(1921年)ころ西条に国鉄が開通したので馬車が廃止された。馬車に代わって外国車を改造したバスが登場したが、交通の変遷は人の流れを一変させてしまった。さらに、やや南に国道11号が開通し、旧大町界隈(わい)の繁栄は完全に消えていくことになるが、昭和の初めころはまだまだ輝いていた。」と古き良きころを回想し、今や大町は淋(さび)しい町になってしまったと嘆く。
 西条市大町を後に渦井川を渡ると新居浜市萩生である。旧街道沿いにある岸ノ下地区について『讃岐街道』には、「四つ辻には、あたらしや、土佐屋、平野屋、谷口屋等の遍路宿や木賃宿等も数軒立ち並び、南子からの旅行者の常宿も置かれていたようである。(㊶)」とある。「新屋(あたらしや)」は料理屋を兼ねた宿で終戦後間もなく、また遍路宿も兼ねた四ツ角の「谷口屋」は昭和10年代に廃業している。明治の初めごろ、「新屋」は南予地方の人たちの定宿(じょうやど)となっていたという。旧街道沿いに街村をなす岸ノ下には4軒の宿が確認されたが詳しいことは分からない。
 さらに東に進むと、新居浜市喜光地の町筋にかかる。この辺りは、かつて新居浜の繁華街で、飲み屋、旅館、料理屋、置屋、遊技場などがひしめく遊興の街であった。道の分岐点にあった「やなぎ屋」は大正初期まで、「こんぴら屋」は昭和10年代まで営業をしていたというが、ほかは分からない。喜光地の遍路道は、アーケード街になっている。遍路道は国領川を渡り、宇摩地域との境界「関ノ戸」に向かい緩やかな坂道を登る。
 関ノ戸(峠)は新居郡と宇摩郡の境界で、昔から新居関あるいは宇摩関と呼ばれていた。西側は新居浜市船木、東側は土居町上野である。梅村武氏は関ノ戸について、「『関ノ戸』という地名は『関のとお』からきたものであろう。『関』は勿論『関所』のこと。当地方では山などの一番高い所を『山のトオ』とか『山のトンギョ』などと云う。『トオ』は『峠』のこと。(中略)今は国道を自動車で走り去り、昔の面影はなくなってしまったが、此の峠は律令の昔からの伊予の幹線道路。つい最近まで多くの旅人たちが此処で一休みしたであろう所、この峠にも茶屋も宿もあったらしい。(㊷)」と記しており、また文政2年(1819年)土佐の遍路、新井頼助は『四國日記』に、「関ノ峠と云所平山越しノ所二町続キ至極能所也。店々二珍物出し酒肴出して留メ女二人引合也。予も此処二而酒まんちう杯たべて暫く休ミ(中略)…(㊸)」と記録している。客引きの女が出ていたというわけである。
 また道の北側には公務の宿(役人の宿)新屋(あたらしや)があった。「道の北側は新屋だけで、南側には西から出口屋・下丸屋・下栗屋・表(おも)屋(池田屋)・東屋・山口屋・和泉屋・大和屋・上栗屋・浜屋・川口屋酒店・丸屋・辰巳屋(新居郡分)と榎屋(宇摩郡分)が立ち並んでいた。旧街道は国道11号の路肩となり、川口屋辺りから郡境・榎屋跡にかけて一部残存し、それから旧国道24号によって分断された。(㊹)」という。ここは鉄道の開通以前は讃岐街道の宿場として栄えた。大正元年(1912年)ころ旧国道24号が、関ノ戸集落の南側を迂(う)回し開通した時、旧街道より約7m切り下げ道は分断された。さらに道を掘り下げ現国道11号が開通して、緩やかなカーブに付け替えられたので、峠の姿は一変した(写真1-2-19)。
 この関ノ戸は多くの宿屋や茶屋が軒を並べていた。かつて徒歩で旅する時代には、金毘羅宮への往還道のみでなく、遍路道でもあり遍路はもとより商人などの通行も多く、役人たちの公務の宿もあり、多くの旅人でにぎわったという。
 元川口屋(造り酒屋)の**さん(大正13年生まれ)は、「関ノ戸で遍路宿の看板を出していたのは、表屋と丸屋の2軒だけです。丸屋の方が少し早くやめたと思います。お遍路さんが来たら、お姐(ねえ)さんが足の高いたらいでお遍路さんの足を洗っていました。丸屋は街道沿いに土間があり、右手に襖(ふすま)で仕切った部屋が3つありました。表屋と同じく部屋はそれぞれに段差があり、値段の差をつけていました。奥座敷は6畳で上(じょう)客を通していたと思います。土間を挟んだ左手は帳場や家族の部屋や米倉などになっていたと思います。」と昔の遍路宿を振り返る。
 関ノ戸は讃岐街道の南側に13軒の宿が軒を連ね、その内の「表屋」と「丸屋」は木賃の遍路宿といえるが、ほかは旅人や商人の宿泊の比重が大きい商人宿だったと思われる。この関ノ戸の宿は、昭和10年(1935年)ころやめた「表屋」を除いて、ほかは少し早い昭和の初めころ廃業した。

   c 土居町から川之江市までの遍路宿

 新しい道路旧国道24号の建設で切断された旧街道は、土居町関ノ原の集落で再び出現する(写真1-2-20)。関ノ戸との境界のへりに建っていた「榎屋」は昭和初期に廃業し、料理屋を兼ねていた「泉屋」「東雲屋」も大正末から昭和10年代にやめ、今は跡形もない。旧街道は中将庵(あん)を過ぎ、古い家並みの中を東に向かい緩やかな坂をおりて行く。
 『四国遍礼名所図会』に、「十四日(中略)長野村、此所にて一宿、十五日雨天出立。西ハ西条・東ハ松山領境。関村、大師堂同所に有、川、石橋わたり上野村此所より讃岐象頭山見ゆる。河、土居村、大坂講中摂待道の左にあり、誓の松道の左接待店次にあり、名木結構なり、(㊺)」と道案内している。道は土居町に入り、「誓の松」で有名な番外霊場延命寺に至る。六十四番前神寺から六十五番三角寺への道程は約40kmと長い。歩いて巡った昔の遍路は、ほぼ中間に位置する延命寺に詣で休憩したと思われる。金毘羅(こんぴら)街道沿いのため行き交う人も多く、「金毘羅屋」「土佐屋」「恵比寿屋」「讃岐屋」など多くの木賃宿があったが、昭和初期から12年ころ廃業している。
 続いて伊予三島市寒川に入る。ここでも旧街道の両側に人家が並び列村をなす。道はゆるやかな扇状地の上を東に向かう。『四国邊路道指南』に、「ぐぢやう村、与左衛門やどかす。(㊻)」とあり、大正15年(1926年)刊行の『四國遍路同行二人』に、具定地区の「桝屋徳次」「角屋キン」などの宿が記されている(㊼)が、場所は特定できなかった。
 遍路道は、小松町付近から讃岐街道とほぼ重なっていたが、伊予三島市中之庄の通称「遍路わかれ」で旧街道「金毘羅街道」と遍路道に分岐する。中之庄の「遍路わかれ」(追分)で親が遍路宿をしていたという**さん(大正8年生まれ)は、「ここで昭和の初めころまで木賃の遍路宿をしていましたが、私の親の代でやめました。この道は昔、馬車道でのちにバスも通っていました。道幅は溝にふたをした程度で昔とあまり変わっていません。」と話す。「遍路わかれ」から右に入ると中曽根の町内となり、石床の「日除大師」を過ぎ、三角寺を目指す。
 遍路道は国道バイパスや高速道路を通り抜け、伊予最後の札所、川之江市金田の六十五番三角寺に向かう。山麓(ろく)から札所までは厳しい急坂である。三角寺山門の石段下に「長野屋」という遍路宿があったというが、戦後間もなく廃業し、その場所は現在駐車場になっている。三角寺住職夫人の**さん(昭和14年生まれ)は、「昭和31年(1956年)からバス会社の団体遍路が始まったんです。昭和の終わりころまで寺の宿坊に、多い時には1日に120~130人のお遍路さんを泊めていました。かつて団体の貸切バスは麓(ふもと)の三角寺口までしか上がらず、後は約3kmの山道をタクシーか徒歩で上がっていました。バスが寺まで上がるようになったのは、舗装ができた4、5年前からです。」と話す。
 三角寺を出た遍路道は、法皇(ほうおう)山脈の山腹を縫うように東に進むと、金田町半田に入り、坪谷川の上流を過ぎ平山地区に至る。ここは笹ヶ峰越えの土佐街道と交わり、「嶋屋」という有名な旅籠のあったところである。今、平山の遍路道沿いに地元の篤志家によって立派な休憩所ができている。ここから次の札所雲辺寺へは15~16kmもある。三角寺より佐礼を経て平山に出る道もある。遍路道はいずれも平山で合流して、左側の細い道に入り、横川・領家を経て番外霊場椿堂(常福寺)に向かう。その途中、川滝町領家古下田(こげた)の旧遍路道沿いで母親が「小松屋」という遍路宿をしていたという**さん(昭和12年生まれ)は、「領家地区には3軒の遍路宿がありました。やめたのは終戦後しばらく経った昭和30年(1955年)ころで、歩きのお遍路さんが急に減った時です。お遍路さんは春が中心で、2階の10畳の間に雑魚寝していましたが、超満員の時は私らの母屋にも泊まっていました。お遍路さんはお修行(托鉢(たくはつ))でもらったお金とお米を宿に戻ってより分け、お米だけを木賃として出していました。遍路宿だけの収入では生活は苦しく、煙草や塩のほか、雑貨も売っていました。」と話し、少し破れた襖(ふすま)張りの「木賃御宿」(裏面には「きちんおんやど」)と書かれた宿の看板と当時の宿の写真を見せてもらった。また少し東の原中で祖母が遍路宿「松本屋」をしていたという**さん(大正12年生まれ)は、「木賃代は22銭、お米がない場合は40銭。食材で買うものは豆腐ぐらいで、おかずは煮しめと漬物だけ。昼食の弁当に入れるので必ず梅干を出しました。おかず一皿5銭でした。朝はみそ汁と漬物だけの質素なもので、精進料理のため煮干も使いません。お婆さんは午後の2時か3時ころになると、道行くお遍路さんに『雲辺寺は遠いぞな、ここで泊まっていかんかな。』と声をかけていました。」と昭和10年ころの様子を語る。ここは終戦近くまで遍路を泊めていた。明治19年(1886年)、ひい婆さんの時に遍路宿を始めたという「許可証」を今も大切に保管している。椿堂近くには、昭和10年代でやめたという大規模な商人宿「大黒屋」、終戦後もしばらくの間営業した遍路宿の「大西屋」など数軒の宿があったが、今は民家や空屋になっている。
 ここから遍路道は、阿波街道(現国道192号)と重なって徳島との県境、下山七田(しちだ)地区まで進む。ここは「境目(さかいめ)峠」の麓にある県境の集落で、ここから遍路は徳島県の箸蔵(はしくら)寺や六十六番雲辺寺へ向かう。七田橋バス停から橋を渡ると旧道に沿って遍路宿が数軒集まっていた。規模の大きい2階屋の「久保屋」、祖先が和紙の原料楮(かじ)を扱っていた「問(とい)屋」、馬車宿でもあった「松田屋」など七田には4軒ほどの遍路宿があったと地元の人は言う。昭和30年代まで営業した「久保屋」を除いて、すべて昭和12年(1937年)ごろ宿をやめている。「問屋」に嫁いで来た**さん(昭和3年生まれ)は、「川之江から阿波の池田に抜ける阿波街道は、境目トンネルなどが整備される前は道幅5尺(約1.5m)の狭いものでした。祖母が内職で遍路宿を始めた当時、この七田に4軒の宿があったと言っていました。私の小学生ころ、春先になると菜の花の咲く細い道を白装束のお遍路さんが行列をなしてやってくる。すると村の青年団の人が出てお接待をしていました。ほほえましく心和む風景でした。」と遍路特有の文化である「お接待」を懐かしむ。愛媛と徳島を結ぶ国道192号が拡幅(かくふく)・整備されたのは昭和47年(1972年)のことである。

写真1-2-18 西条大町のかつての木賃宿と金比羅街道

写真1-2-18 西条大町のかつての木賃宿と金比羅街道

西条市大町。四ツ辻付近。平成14年9月撮影

写真1-2-19 関ノ戸の旧街道と国道

写真1-2-19 関ノ戸の旧街道と国道

新居浜市船木関ノ戸。旧街道(右)と国道11号(左)。平成14年9月撮影

写真1-2-20 関ノ戸の頂上付近

写真1-2-20 関ノ戸の頂上付近

土居町上野関ノ原。旧街道(右)と国道11号(左)。平成14年9月撮影