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遍路のこころ(平成14年度)

(2)遍路の宿と人々の交流⑥

 (ウ)東予地域の遍路宿

 東予地域の遍路道は、越智郡菊間町から今治街道、西条街道、また小松町からは讃岐(金毘羅)街道の旧街道に沿って、県境の川之江市までの13市町村を通過する。遍路道はほぼ旧街道に沿って延びるが、東予市、丹原町などは旧街道から分かれた遍路道をたどり、石鎚山系の札所横峰寺へは独自の遍路道が延びている。図表1-2-18は、菊間町から新宮村までの14市町村にまたがる東予地域のかつての遍路宿151軒のまとめである。
 市町村別でみると新居浜市の24軒が最も多く、次いで西条市20軒、今治市18軒、土居町16軒、川之江市14軒などの順となっている。その内、新居浜市は東部の関ノ戸に10数軒の宿をはじめ、岸ノ下から喜光地の讃岐街道沿いにも多くの宿があった。西条市も同様で、街道沿いの大町に多くの宿が軒を連ねていた。さらに今治市には多くの札所があり、その門前に遍路宿があったことに加え、郷桜井にも旧街道沿いに宿が集中していた。
 一方、廃業時期別にみると、総数151軒中、不明が63軒(42%)、次いで昭和期終戦前が58軒(38%)、昭和期終戦後が20軒(13%)、大正期が10軒(7%)の順となり、明治期と平成期はない。これを見ると、他の中・南予地域と傾向はほとんど変わらない。新居浜市の関ノ戸、西条市の大町、今治市の郷桜井などの遍路宿集中地区は大部分が太平洋戦争前に廃業している。その理由も他の地域とほとんど変わらないが、東予地域は他地域に比べ主要道路の改修時期も早く、さらに大正末期には国鉄(当時は省線「讃予線」、昭和5年(1930年)から「予讃線」と改称)が延伸し松山以南の地域とは違った様相を呈し、交通機関の発達は、東予地域でも遍路宿の存続に大きくかかわっている。
 次いで、図表1-2-19は、個別の遍路宿の場所、屋号、宿主、廃業時期等をまとめたものである。これらの資料をもとに、東予地域のかつての遍路宿を遍路道に沿って記したのが図表1-2-20である。

   a 菊間町から小松町までの遍路宿

 菊間町の遍照院までは、古くは窓坂越えの道をたどった。番外霊場の遍照院は、円明寺と延命寺のほぼ中間にあり、「かわらの町」菊間は宿が多い。境内に「小沢屋」という遍路宿があったというが国道196号の拡張時に消失している。寺周辺には「橋本屋」「角屋」など木賃宿も多くあったが、ほとんど終戦前に廃業した。さらに遍路道沿いの浜地区の「森田屋」や佐方地区の「市川屋」などは昭和初期にやめている。これは街道の改修に伴うバスの運行や讃予線の開通が、宿の存続に大きく影響したものと思われる。その一例が大西町大井の「えんぎ屋」「今治屋」などに見られる。これらの宿は、鉄道の開通でにぎわったが、国道196号の付け替えに伴う通行人の減少で廃業した例である。ちなみに国鉄の県内への延伸をみると、川之江(大正6年)、西条(同10年)、今治(同13年)、松山(昭和2年)、終着の宇和島までつながったのは終戦直前である。安価で時間の正確な鉄道は、遍路にとって貴重な足としてよく使われたと思われる。菊間から今治への途中、菊間町種(たね)地区入口の松林の中に「青木大師堂」がある。大師堂の前に、こぢんまりした通夜堂があり、ここは今も歩き遍路の宿泊が多いという。
 遍路道は大西町を経て今治市阿方(あがた)の五十四番延命寺に至る。明治中期や大正末の遍路案内記には、延命寺近くや旧馬越村(現今治市馬越町)などに遍路宿があったと記されているが、存在そのものがはっきりしない。大正15年(1926年)再版の『四國遍路同行二人』には、「當地(このち)は宿(やど)に乏(とぼ)しく、寺(てら)に淸潔(きれい)なる通夜堂(つやどう)を設備(せつび)し、攝待通夜(せつたいつや)を得(え)させ、(㉞)」と記されており、宿が少ないので遍路を無料で延命寺の通夜堂に泊めていたのであろう。「縣(あがた)村八五郎殿一宿(㉟)」と寛政12年(1800年)に出された『四国遍礼名所図会』に、延命寺近くの縣村(現今治市)で宿泊した記録もある。延命寺の元住職近見快仙が門前で宿をしていたと、明治16年(1883年)刊行の『四國道中記』に記されているが、確認できなかった。
 次の札所、別宮の五十五番南光坊へは大谷越えの山道と山路経由の二つのルートがある。札所近くにあったと古い遍路案内記によく記載されている「白石屋」など数軒の遍路宿も分からなかった。遍路道は町を横切り、小泉の五十六番泰山寺に至る。寺の東には「泉屋スミ」という人が、昭和初期まで組合宿をしていたと『四國遍路同行二人』に記されている。玉川町に入ると八幡の五十七番栄福寺と別所の五十八番仙遊寺がある。栄福寺近くに「やどや」という木賃宿が確認されたが、あとは分からない。仙遊寺に関し、大正15年(1926年)の遍路案内記に、「五十八番は、通夜堂を新築せられ、一般の巡拝者へ通夜を得させる。(㊱)」と記されている。仙遊寺から次の札所五十九番国分寺まで二つのルートがある。頓田川右岸に昭和10年(1935年)ころまで営業していたという「いずみ屋」、国分寺の石段下には「飯尾屋」など3軒の遍路宿があったが、昭和初期に廃業している。道を進むと桜井地区に入る。「さくらゐ村、こんや伝左衛門やどかす。(㊲)」と真念は記している。郷桜井には遍路中心の「甚平屋」「石丸」などを含めて8軒の宿が狭い旧街道の両側に並んでいた。「梅野屋」は旅人・商人宿、「小桜屋」は古くからの旅館であったが、戦後の昭和24、5年(1949、50年)ころでやめている。現在、当時の遍路宿の建物が完全に残っているのは、駅前通りの「石丸」(写真1-2-17)だけである。特に地形的制約がなく、札所前の参道でもない街道筋にこれほど宿が集中したのは珍しい。
 地元の中学校で教師をしていた**さん(大正11年生まれ)に、昭和24年(1949年)に担当していた3年生の女生徒が書いた『遍路について』という色あせたレポートを見せてもらった。それによると、「この郷部落に遍路宿をしていた家が6軒あり、現在は1軒しか営業していません。現在の宿屋は初めから宿屋として建築されたもので、他のものは普通の民家の構造をしています。旅人の多いのは春期間で、大正から昭和7年頃までは6軒の宿屋が次々と遍路さんの世話をしていました。宿賃は20~25銭、最も古い家では2銭という時代もありました。」と書き、中には遍路宿「石丸」の間取り図もあった。これらは、当時を知る貴重な資料である。
 遍路道は長沢、孫兵衛作(まごべえさく)などの集落を経て東予市に入り、大明神川手前の三芳(みよし)に至る。旧三芳村(現東予市)入口には「柳屋旅館」、大明神川の橋の手前には「旦屋」「三国屋」などの宿があり、遍路や通行人でにぎわったというが、大正の末ごろすべて廃業している。この地でもお遍路さんを大事にしたらしく、ある古老は「朝はどんなに忙しくとも7人以上のお遍路さんにはお接待をするものだ。そのお金は決して家系のくぼみにはならないものだ。」と地域の人たちに教えたという。東予市の旧楠河村に「武田屋」「柴田キク」、旧吉岡村に「三日月屋キン」などの宿が、大正末から昭和初期の遍路案内記にでてくるが場所や廃業時期などは分からない。丹原町の街道筋の要所に位置する木賃宿「玉乃屋」は終戦の数年前まで宿とうどん屋も営み繁盛していたが、今は電機屋に衣替えしている。丹原町の街道筋には、今も格子(こうし)の入った軒の低い昔ながらの店が多く残っており、かつての在町(ざいまち)の面影をしのぶことができる。遍路道は生木地蔵(正善寺)を過ぎ、小松町に向かう。
 中山川を渡った遍路道は、山麓(ろく)を東西に延びる讃岐(金毘羅(こんぴら))街道に合流する。ここが横峰寺の「打戻り」で有名な小松町大頭(おおと)である。『四国邊路道指南』で真念は、「大戸(ママ)村、此所に荷物おきてよこミねまで二里。(㊳)」と次の札所横峰寺まで約8kmと案内している。また『四国遍礼名所図会』には、「十二日(中略)大頭村町有り、小松領、此所にて一宿此所に荷物置行。十三日(中略)(横峰寺経由)小松城下へ出、此所にて一宿。(㊴)」と記され、大頭で宿をとり、荷物を宿に置いて身軽になって登っている。
 次の札所六十番横峰寺は石鎚山系の高所にあり、遍路は荷物を大頭に置いて急坂を登り、参拝後また大頭に打戻った。ここは街道筋で場所にも恵まれ、「東屋」「田野屋」「大西屋」などの宿が営業していたが、大正末から昭和10年代までに廃業している。また、駅前通りにも、遍路専門の「妙口屋」「いりこ屋」のほか、割烹(かっぽう)を兼ねた宿もあったが、遍路宿は早い時期に、ほかは昭和35年(1960年)ころまでに店を閉めている。西端さかえ氏は六十一番香園寺の通夜堂について、「子安講の団体参拝もあるからだろう。この寺には1,200人くらいお通夜できる設備がある。ご飯はボイラーで炊き、食堂は1回に200人が食事できる。お風呂は銭湯なみの広さ、ふとんは横幅3.6m(約2間)の長さ、8人くらいが寝られる。ぐるぐるすまきにしておいてあった。(㊵)」と記している。のち通夜堂は宿坊に変わり、大型バスなどの団体遍路や講員を見込んで寺院の境内に建てられたのである。
 現在、六十二番宝寿寺は国道11号沿いにあるが、国鉄讃予線が大正12年(1923年)に壬生川(にゅうがわ)駅(現東予市)まで開通したのに伴って、札所は現在地に移っている。この札所に近い宿として、大正12年刊行の『四國巡拝道順案内』に指定宿として、「大西屋雪次郎」「合田カネ」「中村屋」などが記載されているが、「中村屋」だけしか場所と廃業時期を確認できなかった。

図表1-2-18 東予地域市町村別のかつての遍路宿数と廃業時期

図表1-2-18 東予地域市町村別のかつての遍路宿数と廃業時期


図表1-2-19 東予地域のかつての遍路宿と廃業時期

図表1-2-19 東予地域のかつての遍路宿と廃業時期


図表1-2-19 ②東予地域のかつての遍路宿と廃業時期

図表1-2-19 ②東予地域のかつての遍路宿と廃業時期


図表1-2-20 東予地域のかつての遍路宿

図表1-2-20 東予地域のかつての遍路宿


写真1-2-17 郷桜井のかつての遍路宿「石丸」 

写真1-2-17 郷桜井のかつての遍路宿「石丸」 

今治市郷桜井。駅前通り。平成14年6月撮影