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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業21 ― 今治市① ― (令和3年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

2 人々のくらし

(1) 漆器職人と月賦販売業

 ア 漆器職人の家に生まれて

 (ア) 伝統工芸士の父

 「私(Eさん)の父は、桜井漆器の蒔絵師としての長年にわたる功績が認められ、昭和52年(1977年)に県から表彰されました。その後、県の伝統工芸士に認定されましたが、桜井では最も早かったと思います。残念ながら、私は父の跡を継がず別の道を歩み、昭和38年(1963年)から昭和58年(1983年)まで桜井にいなかったので、父の仕事の様子を細かなところまでは知りません。注文は、販売店が木地を持って来て、『この椀に何の絵を描いてほしい。』というような形で受けていました。販売店が職人に仕事を発注していたわけです。量産される商品の絵柄を描く仕事がほとんどだったようですが、ときには、『記念となる品に何か絵柄を描いてほしい。』という注文もありました。職人の中には稼いでいた人もいましたが、父のような職人は本当に食べていくのがやっとというような状態でした。父はどんどん仕事をするようなタイプではなく、納得いくまでじっくり仕事をするタイプだったので、やりかけの品が多く大変でした。父が亡くなる前に、虫の知らせか、注文を受けて預かっていたほとんどのものは、誰の預かり物かメモしていたので、父の死後にきちんとお返しすることができました。その中には大きな応接台や、割れた茶碗(わん)もありました。当時は、割れた茶碗を漆で継ぎ、金や銀で装飾して仕上げる『金継ぎ』という仕事もありました。」

 (イ) もらい湯

 「私(Eさん)が学校に行っていたころ、家には風呂がありませんでした。近所に父の兄弟の家が4、5軒あり、その家の人たちがみんな本家にもらい湯に行っていました。銭湯もありましたがあまり行ったことがなく、ほとんどがもらい湯でした。昭和38年(1963年)に高校を卒業するころまでもらい湯に行っていました。当時はテレビがまだ普及していない時代だったので、本家でテレビを見て帰ることもありました。本家には広い庭があり、秋になると庭職人が剪定(せんてい)をしていましたが、切りっぱなしで帰っていました。そこへ母など分家の奥さん方が行って、それを焚き物として利用できるように束にして、片づけていました。私もそのような手伝いをしていました。」

 (ウ) 餅つき

 「私(Eさん)の家だと家族5人分しか餅をつきませんが、本家ではたくさん餅をついていたので、本家が餅をつくときには親戚の人たちも手伝いに行き、餅を丸めたりする作業を手伝っていました。また、当時は『餅つきさん』と呼ばれる人がいて、何人かのグループを作って餅をつきに来ていました。近くの農家の方が何人かでグループを作り、1斗(約18ℓ)つくといくら、というような形で頼まれていたのだと思います。餅つきさんはセイロや釜を持ってきて、蒸す作業もしてくれました。昔は玄関の土間が6畳から8畳くらいあったので、そこで餅つきをしていました。」

 イ 蒔絵職人として

 (ア) 最後の蒔絵師の蒔絵教室

 「私(Dさん)の父(月賦販売業)の遺言ではありませんが、桜井漆器を大事にしたいという思いがあり、今は数少なくなった蒔絵師を講師に招いて、勉強会を開いています。講師はB峰(Bさんの蒔絵師としての号)さんで、最高の腕前の、最後の蒔絵師の一人です。生徒の中には、過去に別の教室にいたり、小谷屋さんという漆器店でお手伝いをしたりしていた人もいます。蒔絵教室は月に2回開いていて、1回が3時間くらいです。最初は金継ぎの技法を習っていたのですが、それだけでは面白くないというので、蒔絵まで手を伸ばしたわけです。」

 (イ) 弟子入りと衰退した桜井漆器

 「何の職人になるにしても、高校を卒業してから弟子入りするのでは遅く、中学校を卒業してすぐに弟子入りして修業しなければならないと思います。私(Bさん)は、中学校を卒業してすぐに弟子入り修行をした職人の最後で、同級生の職人はみんなやめてしまっています。その時分の桜井の蒔絵師は、飴屋の系統と会津斎藤系の流れがありました。今は弟子入り修業以外に、芸術系の大学や専門学校などで勉強して作家になるという道もあります。ただし、作家として生計を立てるためには、展覧会などに入選して実力を認められる必要があります。
 桜井漆器の最盛期には多くの販売店があったそうですが、今は桜井漆器組合に入っている販売店が3、4軒あるだけです。仕事をしている職人さんも非常に少なくなっています。私が中学校を卒業したのが昭和29年(1954年)で、その当時、桜井漆器はまずまず繁盛していましたが、景気の悪いときには私も漆器以外の仕事のアルバイトをしたことがあります。景気が悪くなり、販売店も店の経営が大変になってくると、職人を抱える余裕がなくなり、職人も何か仕事をしなければ生活していくことができません。」

 (ウ) 修業のころ

 「私(Bさん)が中学を卒業して父に付いて修業していたころは、いくら仕事をしても月に2千円くらいの小遣いをもらうだけでした。タオル染色のさらし場の1日の日当が140円の時代です。普通の職人は、今のように8時間労働などと言っていたら生活できないので、残業を日当分くらいして、倍の給料をもらうようにしました。
 昭和34年(1959年)、私が20歳のときに和歌山県海南(かいなん)市へ修業に出ました。20歳といってもまだ一人前とは言えず、半職人と言ったところでした。そこでは住み込みで、月給は5千円でした。毎月1日と15日が休みで、仕事の日は朝6時から始めて、昼休みを1時間取り、午後11時ころまで働いていました。仕事を終えてから銭湯に行って、帰りにうどんを食べさせてもらって寝るという生活でした。月給は5千円でしたが、お金は残りました。月2日の休日には映画を少し観(み)に行ったくらいで、遊びに行くことがほとんどなかったからです。ただ、夏の間は比較的仕事がありませんでしたが、お月見ころから忙しくなりました。
 そのころ腕の良い職人は、22、23歳で家を建てることができました。能力主義だったので、新しいデザインの絵柄が当たると、その職人にはたくさんの注文が入り、お盆に絵を1枚27、28円で1日に200枚くらい描いていたこともありました。その代わり、夜も寝床に入らず、3時間くらいうとうとしたら、また描くというような忙しさで、お金を使う間もありませんでした。そのような職人の中には体を壊した人もいました。」

 (エ) 技術革新と職人の消失

 「大きな面を筆で塗っていると時間がかかりますが、ローラーであれば2回くらい転がすと塗り終わります。例えば、松竹梅の松や竹は手で描き、その他の部分をローラーで描くと早く仕上がります。私(Bさん)が和歌山へ修業に出ていたころに特殊な塗料ができました。漆を盛ろうとしても中と外の乾き具合が違うためにしわができ、なかなか盛れません。ところが、その特殊な塗料は、油差しに入れておき、自分が絞りながら描くことができ、よく盛れるのです。乾燥するのも速いので、1日に100枚から200枚くらいでも出荷することができました。
 その塗料ができてから少し経ったころでしょうか、シルクスクリーンによる絵付けが行われるようになりました。シルクの布に絵柄を抜いておき、しごくと盛り上がったものが残り、きれいに描くことができました。その代わり、今まで筆で描いていた技術が不要になってきました。昭和34年(1959年)に、和歌山県には蒔絵師が400人くらいいたそうですが、昭和50年(1975年)ころに桜井漆器組合で和歌山県へ研修旅行に行ったときには、蒔絵師が1人しかいませんでした。かつての職人に『今は何をしているのか。』と聞くと、『蒔絵を習いに来ている奥さん方に教えている。』と言っていたので、大変驚きました。」

 ウ 月賦販売業

 (ア) 父の事業の成功

 「私(Dさん)の家は、もともと漆器製造業を営んでいました。父(河上重雄氏)は、小学生のときに父、私から言えば祖父を亡くし、高等小学校の6年生のときから仕事場を手伝っていたそうです。20歳ころには漆器塗りの一通りの工程も身に付け、漆器製造は弟に任せて、仕入れ販売にも手を出していたようです。
 2年間の兵役から帰郷してからは本格的に漆器の仕入れ販売に取り組みました。それには、高等小学校時代からの漆器製造の修業で培われた目利きが役に立ったようです。商売を大きくしようとすると資金が必要です。ある日、祖母方の親戚が訪ねてきて、『資金に困ったら相談を受ける。』と言ってくれたそうです。そこでお金を借りて、順調に商売を伸ばしました。戦後、その親戚が訪ねてきて、『これはお前のお母さんから預かっとったお金じゃ、返すけん。』と多額のお金を置いて帰ったそうです。祖母は、親から借りた金だと粗末にするからとの思いで、わざわざ親戚にお願いして融資をしてもらう形にしていたそうです。
 このような販売経験の下地があり、昭和25年(1950年)ころ、父は繊維製品を主体とした総合月賦販売店を弟とともに興しました。まだそれほど資本がなかったころは、問屋から借金をしたり、銀行に無理を言って融資を受けたりしていたようです。時代の波にも乗り、その後は順調に会社の規模を拡大し、今手元にある確実な資料では、昭和57年(1982年)には資本金2億4千万円、従業員数600名、年間売上高145億円という大きな会社に成長していました。」

 (イ) 店の拡大と多くの従業員

 「戦後の割賦販売業としての井野屋は、最初は大阪で店を持たず、お寺のような所を借りて商品を展示し、販売しており、後に九州でも商品を販売するようになりました。商品を買ってくれた人のうち、代金を現金で支払うことができない人には、『3か月後とか半年後にもらいに行きますから』と、掛け売りをしていました。本来は月々に代金を払うので月賦販売と言われるのでしょうが、そのような売り方もしていたようです。
昭和32年(1957年)には福岡に井野屋商事という子会社を設立し、経営を弟に任せました。その前後には、大阪市の旭区、東住吉区に大きなデパート形式の店舗を構え、福岡県北九州(きたきゅうしゅう)市の小倉、若松にも同様の店舗を、大阪府守口(もりぐち)市、山口県下関(しものせき)市には木造の店舗を構えていました。正確なことは分かりませんが、多いときは700人くらい従業員がいたのではないかと思います。この辺りでは桜井だけでなく富田や旦、少し離れて西条(さいじょう)からも中学卒業後に入社した人もいました。中には、すでに定年退職してこちらに帰ってきて、悠々自適の生活を送っている人もいます。私(Dさん)は結婚して徳島の方にいたのですが、その近所にも井野屋で働いていたという方がいました。小学校の元校長先生に社員の募集や社員教育などに御尽力いただいたこともありました。会社には多くの従業員がいたので、クラブ活動で野球や登山、茶華道なども行われていたようですし、志島ヶ原には保養所もありました。」

 (ウ) 家族の様子

 「私(Dさん)たちが幼いころは、祖母、両親、私たち6人姉妹が一緒に暮らしていました。食事のときには、大勢でとてもにぎやかに食べていました。父は自宅に住んで会社を経営していたので、しょっちゅう大阪や九州の店舗に出かけていました。大阪からの帰りは、夜大阪から乗船し、早朝に今治港に着く関西汽船のフェリーで帰っていました。朝、私たち姉妹が目覚めると、枕元にカラフルな洋服や手袋、見たこともない革靴などのお土産が置かれていて、驚いたことを憶えています。母は、私が高校を卒業するまで、私たちより早く寝たり遅く起きたりしたのを1度も見たことがありませんでした。祖母に尽くし、父が留守がちな家をしっかり守った母でした。」

 (エ) 茶飲み友達

 「私(Fさん)が特に憶えているのが河上重雄さんです。月賦販売業を始める前からの父の一番の親友で、しょっちゅう私の家に来ていました。河上さんは月賦販売業者で、大阪に根拠地がありますが、商売を始めてから2、3年で軌道に乗ったのだと思います。それで1か月のうち1週間か10日間くらい大阪へ行っていたようですが、それ以外は桜井にいました。こちらにいるときには、私の家に午前9時に来て、昼食時と夕食時に帰宅する以外は午後9時半までずっといました。」

(2) 子どものころの思い出

 ア 今治空襲の思い出
 「私(Cさん)が小学校に上がる前の出来事になりますが、今治空襲のことはよく憶えています。敵機が寒風山の方角からやってきて、桜井沖の海上を低空飛行していました。高度80mくらいしかないように感じました。敵機が通り過ぎてしばらくすると、今治方面が真っ赤になっていき、浜の方の人たちはみんな海岸へ出てそれを見ていました。今治は3回くらい空襲を受けたと記憶しています。今治空襲のとき、電話局に爆弾が落ち、交換手の方が何人も亡くなりました。後に電電公社(現日本電信電話株式会社)に就職したので、詳しい話を何度も聞きました。」
 「私(Aさん)が高等小学校に通学していたころだったと思いますが、今治市内が米軍の空襲を受けた翌日、友人と自転車で市内の様子を見に行ったことを憶えています。鳥生地区の蒼社川沿いに祇園さんと呼ばれる神社があります。祇園さんのすぐ北側が蒼社川の土手ですが、そこに空襲で亡くなった方々の遺体を集めていたことを憶えています。祇園さんの所に橋が架(か)かっていたので、そこを通って市内に入りました。今は、四国電力の建物になっていますが、市役所の前にあった公会堂がなくなっていました。今治港から今治駅まで2kmくらいあると思うのですが、1軒の家もなくなり、ずっと見通すことができました。今の第一病院の辺りから蒼社川の土手までほとんど家がありませんでした。」

 イ 遊び

 (ア) 戦時中の遊び

 「私(Aさん)は、戦時中、兵隊ごっこをしていました。大川の土手で、二手に分かれて、竹で作った機関銃で打ち合いをしていました。竹を割った所に引っ掛かりを作って、それを連続で跳ねて音が出るようにしたものです。弾は出ませんが、機関銃のように大きな音が鳴りました。独楽(こま)遊びをしたり、自転車のホイールを棒でついて回して競争したりもしました。また、戦前から、志島ヶ原で野球もしていました。ストライクを『入りました。』と言っていました。」

 (イ) 駅前の子どもの遊び

 「伊予桜井駅前に住んでいた私(Gさん)にとって、小学校時代は駅前辺りが遊び場で、今の旧国道より向こうや志島ヶ原の方へは行ったことがありませんでした。校内でグループを作って一緒に遊んでいた友人たちとも、学校から帰ってから一緒に遊ぶことはありませんでした。4月の始めころに、子どもたちだけで駅の裏の山へ花見に行く日があり、弁当を持って行っていました。また、中学生のころまで、山でチャンバラごっこをしていました。駅の裏山は、手前の山を荒神山といい、荒神さんという神社があります。奥のもう一段高い山をマンド山と呼んでいました。」

 (ウ) 亥の子

 「昔は亥の子が行われていました。私(Gさん)たちが中学生ころ、中学2、3年生を大将とするグループが、この辺りには三つくらいあり、亥の子のときには大将たちが『お宿』に泊まっていました。その年に男の子が生まれた家をお宿とします。昭和50年(1975年)に長男が生まれたときは私の家がお宿で、大将たちに夕食を御馳走(ちそう)しましたが、宿泊はしませんでした。次男が生まれたときにはお宿を決めなかったので、そのころには子どもたちを接待するという風習自体がなくなっていたように思います。昔は道路が舗装されていなかったので、家の前や中庭で亥の子石をついていましたが、道路が舗装されてからは、厚みのある敷物を敷いてその上からついたり、該当の家とは関係ない場所でついたりするなど、どんどん変わっていきました。こちらへ転勤で戻ってきた昭和50年には、家の前の道路は舗装されていました。」

 (エ) ヤンマ採り

 「私(Iさん)は子どものころ、ヤンマ(トンボの一種)を採っていたことを憶えています。2本の小さな釘(くぎ)を曲げて紐(ひも)を付け、80cmくらいの糸を紐に結び付けたものを『ヤンマ採り』と言っていました(写真1-2-17参照)。ヤンマの群れが来たとき、高さ6、7m投げると、それを餌と間違えたヤンマが寄ってきて、糸が羽に絡まり落ちてきました。また、池の端を飛んでいるヤンマを採るときは、ヤンマ採りが池に落ちてしまうため、トンボに糸を付け、誘って採ることもありました。秋になると、夕方にヤンマ採りを持った人が何十人も綱敷天満宮にたむろしていました。上手な人は2匹も3匹も指の間に挟んでいるのに、それでもまだ採り続けていました。ヤンマが糸に絡まって落ちてくる瞬間は何とも言えずうれしかったことを憶えています。」

 (オ) 志島ヶ原での遊び

 「私(Eさん)は遊ぶというと、たいてい志島ヶ原に行っていました。マツが少し途切れた所で野球をしていました。野球といっても松林の中は狭いため三角ベースで、ボールは軟式テニスのボールを使い、バットはその辺りの竹を切ったものを使っていました。その他の小学生ころの遊びといえば、いわゆるビー玉遊び、メンコなどで、私たちはそれぞれ『ダブリッキン』、『パッチン』と言っていました。また、釘立てもして遊んでいて、釘立てのことを私たちは『ビッチョコ』と言っていました。地面に五寸釘を打ち付けた所を線で結んで相手を囲っていき、そこから相手が出られなくなると勝ちでした。ただし、釘が飛んだり跳ねたりして危険だからという理由だったと思いますが、釘立ては学校で禁止されました。」

 (カ) 剣道具での遊び

 「桜井の町では、剣道が結構盛んでした。私(Eさん)は剣道をしていたので、竹刀の竹を使って非常に強い弓を作っていました。枯れたセイタカアワダチソウに釘を付けて矢を作り、山へ行って打ち合いをしていました。釘の頭を先にしていたので、突き刺さりはしないのですが、当たると結構痛いものでした。剣道をしている子が集まってそのような遊びをしていましたが、すぐに親にやめさせられました。また、松林の中で、みんなが剣道の防具を付けてチャンバラごっこをしていました。直径2cmくらいの竹を長さ15cmくらいに輪切りにし、節を抜いたものを面の先や胴に付け、それを割られると負けというルールでした。きれいに叩(たた)かれると竹が割れるのですが、少し当たったくらいでは割れませんでした。」

 ウ お手伝い

 (ア) お使いの思い出

 「私(Iさん)が小学校2、3年生ころのことだったと思います。当時、醬油は量り売りだったので、朝田屋さんに1升瓶を持って行き、醬油を入れてもらっていました。帰りにそれを抱えて朝日町の通りを歩いていると、つまずいて転んだ拍子に1升瓶が割れてしまいました。当時、貴重だった醬油をこぼしただけでなく、大切な瓶まで割ってしまったつらさは今でも忘れられません。そのため、朝田屋さんの醬油はとても印象深く残っています。」

 (イ) お店の手伝い

 「私(Kさん)は、小学生のころから家業の菓子店の仕事を手伝っていました。普段は両親がやっていましたが、家族みんなでお店の仕事をするという雰囲気だったので、忙しいときには私と妹二人も当然のように手伝っていました。しかし、敬老会の赤飯などは夜なべ仕事でしたし、正月用のお餅は、12月24、25日から毎日午前2時くらいから餅米を蒸し始め、夜遅くまでずっとついていました。私はそれが嫌で、31日が来るのを指折り数えて待っていました。
 小学生のころは、お菓子やケーキの箱を折り、できた箱を部屋に積み重ねていく作業を手伝っていました。餅つきのときは、お餅を切る機械からベルトコンベアーで運ばれてくるお餅を拾う仕事をしたり、お手伝いに来てくれた人の昼食や夕食の賄いをしたりもしました。中学生ころになり、少し手先が器用になると、包餡作業などを手伝ったり、鏡餅や餡餅を作る手伝いをしたりしていました。年末のお餅作りのような本当に忙しいときは、父の兄弟や近所のおばさんにも手伝いに来てもらっていて、7人くらいが手伝いに来ていたと思います。高校までは家から通学していたので、家の手伝いをしていましたが、大学生になっても、敬老会のときなど忙しいときには、必ず手伝いに帰っていましたし、私と妹たちは結婚後も、お店が忙しいときには手伝いに帰っていました。」

 エ おやつ

 (ア) 駄菓子の思い出

 「石材店の裏手の路地を入った所にあった小さなお店で、おばあさんが駄菓子を売っていたのを私(Iさん)は憶えています(図表1-2-2の㋧参照)。そのお店では、小さな子どもが食べるような駄菓子ばかりを売っていました。小学校へ上がる前後のころの話ですから、昭和20年代末ではないかと思います。」

 (イ) ズガニの思い出

 「私(Eさん)たちは『ズガニ』と呼んでいますが、子どものころ、大川の河口にモクズガニを獲(と)りに行っていました。河口は、引き潮のときは、水が全くなくなります。当時の堤防は今のようにコンクリートではなく、石積みでした。石積みの堤防には結構大きな穴があり、そこに手を突っ込んでズガニを獲っていました。手が入らない穴には、竹の先に曲げた針金を付けて突っ込んだり、引き出したりして獲りました。獲ったズガニを家で炊いてもらい、おやつにしていました。」

 (ウ) おやつの思い出

 「私(Kさん)の家は菓子店だったので、おやつを買いに行くことはなく、よその子は買いに行かなければならなかったので『かわいそうだな』と思っていました。私が小さいころは、飴やチューインガムなどの駄菓子も売っていたので、そういったものをおやつにしていました。自分の家のお菓子以外の思い出もあります。学期末に学校から帰っていると、近所の八百屋さんのおばさんに『成績どうやった。』と聞かれたので、通信簿を見せると、『ようできとったねぇ。』とほめられて、お菓子をもらったことを憶えています。」


参考文献
・ 愛媛県『愛媛県史 資料編 社会経済下』1986
・ 今治市『今治郷土史 写真が語る今治 写真集 近・現代5』1989
・ 今治市『今治郷土史 現代の今治 地誌 近・現代4』1990
・ 愛媛県生涯学習センター『愛媛の技と匠』1998
・ 愛媛県生涯学習センター『えひめ、子どもたちの生活誌』2007
・ 桜井史談会『桜井の史跡と伝説』2008
・ 河上重雄『母往き去りし道』2016
・ 愛媛大学社会共創学部井口梓研究室『わたしが旅するさくさくさくらい歴史散策まち歩き』2019
・ 株式会社井野屋『会社概況』

写真1-2-17 ヤンマ採り

写真1-2-17 ヤンマ採り

令和3年12月撮影