データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業19ー大洲市①―(令和2年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

1 製蝋業の記憶

(1) ハゼ採りの記憶

 ア ハゼ採りを始める

 「私(Aさん)は喜多灘小学校を卒業すると『家の仕事を手伝いなさい。』と言われ、ハゼ採りの方法を父に一つずつ教えてもらって、ハゼ採りを始めました(写真3-2-1参照)。私が住んでいた今坊地区の集落に13軒くらいありましたが、どの家もハゼ採りをしていたと思います。私は昭和43年(1968年)に実家を離れて、長浜町の中心部に移り住みましたが、それまではハゼ採りを続けていました。ハゼ採りは冬の仕事で、全ての実を収穫し終わるのが1月の中旬から下旬ころでしたが、その間は毎日ハゼ採りをしていたことを憶えています。
 ハゼ採りを始めた若いころは、よくハゼにまけて(かぶれて)いました。その年のハゼ採りを始めて3日くらいすると、首の辺りに小さなブツブツができて、かゆかったことを憶えています。1週間ほど辛抱するとブツブツがなくなり、その後はハゼ採りを何日続けても何でもありませんでした。若いころはハゼにまけていましたが、年を取ってくるとまけなくなりました。」

 イ ハゼの木に登る

 「ハゼの実を収穫するためにはハゼの木に登らなければなりませんが、はしごは一切使いませんでした(写真3-2-2参照)。手で抱え切れないほどの太い木にはロープを使って登りますが、『そうじゃない、ロープはこう使いなさい。』と父にハゼの木の登り方を教わったことを私(Aさん)は憶えています。ハゼの木に登る際の履物は草履で、藁(わら)の草履が一番滑りませんでした。ハゼ採りを始めたころ、谷川の上に伸びているハゼの木に登った際に、下を見ると谷底まで目が回るようなものすごい高さがあって、『何とまあ、こんな所で仕事ができるだろうか』と思ったことを憶えています。慣れてくると、初めは目が回っていたような高さでも、問題なく登って作業ができるようになりました。私はハゼの木から落下したことは一度もありませんでしたが、危険な仕事だったと思います。」

 ウ ハゼ採りの道具

 「ハゼの木に登って実を収穫する際、私(Aさん)はカンコ、ロープ、ハゼ採り籠の三つの道具を使いました。カンコというのは、ハゼの実が生(な)っている枝を手元に寄せるために使う道具です。長さ2mくらいの梅の木の枝の根元にカギンコ(鍵状になっている鉄)を釘(くぎ)で留めて作りました。ロープは麻をより合わせて作った紐(ひも)3本を合わせて編んだもので、ハゼ採り籠は直径、高さともに60㎝くらいのものを使っていました。ハゼの実が生っている枝をカンコのカギンコ部分を引っ掛けて手元に寄せて実を採り、採った実をハゼ採り籠に入れます。これを繰り返して、ある程度ハゼ採り籠がいっぱいになったらロープでハゼ採り籠を木の下に下ろします。下にいる人がハゼ採り籠の中身を叺(かます)(藁で編んだ袋)に移し替え、空になったハゼ採り籠を引き上げて同じことを繰り返します。そのようにして1本のハゼの実を全て収穫し終えると、別のハゼの木の収穫に移りました。」

 エ ハゼの実の出荷

 「ハゼの実が入った叺は、負い子にかって(背負って)家へ持ち帰り保管し、その後、出荷するためにハゼ俵に詰め替えました。ハゼ俵は、長さ1m50㎝くらいの筵(むしろ)を巻いて底を付けて、実が漏れないように藁を挿してしっかり留めたものです。筵は冬場の時間があるときに、自宅で藁を編んで作っていました。そのハゼ俵にハゼの実をびっしりといっぱいに詰めて蓋をし、手押し車に積んで集落の麓にある浜まで持って行きました。浜では業者がきちんとハゼ俵の重さを量って価格を決め、ハゼ俵を買い取っていたことを私(Aさん)は憶えています。」

 オ ハゼ山

 「ハゼの木は山の上の方からたくさん植えられていて、集落の付近では畑や田んぼの畔(あぜ)に植えてあり、1人役では採り切れないくらい大きなハゼの木が何本もありました。当時はハゼの実が大事な収入源で、上位の新しい品種を高接ぎして育てて大きくしていたのです。新しい品種は、実が大きくて少し潰れた形をしていて、実がよく生る年とそうでない年があり、収穫に差がありました。なお、ハゼの木は枯れてしまうと芯は朽ちていきますが外側の樹皮は残るので、枯れたハゼの木の内側には蜂が巣をよく作っていて、子どものころ蜂の巣を取りに行きました。当時は殺虫剤がなかったので、蜂に刺されないようにするのに苦労したことを私(Aさん)は憶えています。たくさんあったハゼの木も時代とともに伐採していき、その後はスギを植えていったので、実を収穫していたハゼの木は現在では1本も残っていません。野良で生えている山ハゼは、ときどき見掛けることがあります。」

(2) 晒蝋の記憶

 ア 丸蝋

 「私(Bさん)が晒蝋の手伝いをしていたとき、長浜にある喜多製蝋所(現株式会社セラリカNODA)から委託されて晒蝋をしていて、喜多製蝋所から送られてきた木蝋(生蝋)を天日に晒して白蝋にしていました。喜多製蝋所からは一度に30㎏入りの箱で5、6箱送られてきたと記憶しています。喜多製蝋所から送られてくる木蝋は青味がかった色をしていて、私たちは丸蝋と呼んでいました(写真3-2-3参照)。」

 イ 晒蝋の工程

 (ア) 天日に晒す

 「朝6時ころから火を焚(た)いて熱していた大釜に丸蝋を入れて溶かし、大桶(おけ)に移して冷やしたものをもろ蓋に移しました(写真3-2-4参照)。火を焚く際は、山から採ってきた木やシイタケを栽培していたので余ったクヌギを燃やしていて、特に燃料代はかかっていなかったと思います。もろ蓋に移す際には、蝋が塊にならないように道具を使ってさばいて(掻(か)き混ぜて)いました。もろ蓋は何枚もあって、一輪車でもろ蓋を運んで天日に晒すために敷地いっぱいに広げなければならず、大変だったことを私(Bさん)は憶えています。
 なお、平成13年(2001年)に開通した白滝大橋に関連した道路拡張工事のために土地が収容されて敷地が狭くなり、もろ蓋を広げることができなくなりました。それ以降は、大きなナイロンを購入してその上で蝋を天日に晒すようにしました。もろ蓋に蝋を入れる手間がなくなり、一輪車で蝋を運んでナイロンに移すだけになったので、身体的には楽になったのを憶えています。また、ナイロンは軽いので広げるのもしまうのも便利でした。
 蝋を溶かして天日に晒す工程を蝋が白くなるまで2回繰り返し、合わせて1か月ほどは天日に晒していたと思います。天日に晒している間、特に真夏の時期は強い日差しで蝋が溶けないようにときどき水を撒(ま)いて冷ます必要がありました。水を撒く量やタイミングは経験が大切で、夫や義父が蝋の様子を確認しながら撒いていたことを憶えています。」

 (イ) 角皿で固める

 「最後に小さなサンプルの白蝋を作って、蝋が完全に白くなったのか色を確認した後、溶かした蝋を角皿に移して一晩冷やして固めると白蝋が完成しました(写真3-2-6参照)。サンプルの白蝋は襖(ふすま)の敷居に塗って襖の滑りを良くするのに便利で、友人に頼まれて分けてあげることもあったことを私(Bさん)は憶えています。完成した白蝋の量は、天日に晒す前の木蝋の量と比べて減っていましたが、それほど変わらなかったと思います。喜多製蝋所から引き取り日の連絡が入るので、その日までに完成した白蝋を筵に入れて箱詰めして、トラックで引き取りに来た喜多製蝋所の方に渡していました。白蝋は和蝋燭(ろうそく)の原料ではなく、化粧品や相撲取りの髷(まげ)を固める際に使われる鬢(びん)付け油などの原料となり、高級品とされていたそうです。」

 ウ 晒蝋の時期

 「蝋を天日に晒すには十分な日差しが必要なので、冬場はできません。毎年5月ころから始めて、6月から8月が最盛期で、遅くとも10月ころにはやめていました。一度天日に晒すとしばらく外に出したままになるので、天気予報を必ず確認していたことを私(Bさん)は憶えています。雨が降りそうなときは、濡(ぬ)れないように蓋をしなければならず大変でした。さらに大変だったのは台風が近づいてきたときで、もろ蓋に蓋をした上で台に紐でしっかりと縛り付け、重しを載せて風に飛ばされないようにしなければなりませんでした。台風に備えて紐や重しはすぐに使えるように準備していたことを憶えています。それでも、強い風に飛ばされてもろ蓋がひっくり返ることがあり、もろ蓋に残った蝋は大丈夫ですが、地面に落ちてしまった蝋は使い物にならなくなってしまいました。」

 エ 家族での作業

 「晒蝋は夫の祖父が始め、夫は子どものころから作業を手伝っていて、夫の姉や妹も子どものころは手伝っていたと聞いています。私(Bさん)は夫と結婚した当初、晒蝋の作業を手伝っていませんでしたが、義父が高齢になってきたこともあり、私も作業を手伝うようになりました。娘が産まれる前だったので、昭和の終わりころだったと思います。私が手伝うようになってからは、夫、義父、義母、私の4人で晒蝋の作業をしていました。夫と義父が作業の中心で、義母は大釜を熱するために竈(かまど)で火を焚く作業を任されていたことを憶えています。娘も小学校高学年になると手伝うようになり、一輪車でもろ蓋を運んだり、雨の日にもろ蓋に蓋をしたりしてくれました。お小遣いをあげていたこともありますが、嫌がらずにしてくれていたと思います。私が結婚する前、甥(おい)がまだ子どものころ、遊びに来たときに手伝うことがあったそうです。義父と義母が亡くなると、夫婦で晒蝋を続けていましたが、10年近く前に夫が体調を崩しため晒蝋をやめました。
 晒蝋をしていた最後のころ、全国的にも晒蝋は珍しかったため、何度かマスコミの取材を受けたこともありました。内子町に木蝋資料館が建設されることになった際、私たちが使っていた道具や生産した製品を資料として寄付しましたが、資料館がオープンしたときに家族全員が招待されたことを憶えています。」

 オ 副業

 「夫の祖父の時代は景気が良く、晒蝋の収入だけで十分生活できたそうです。しかし、私(Bさん)が夫と結婚したころは晒蝋の収入だけでは十分でなかったため、シイタケの栽培や稲作、養蚕なども行っていました。昔に比べて白蝋の価格が下がっていたことに加え、晒蝋は時期が決まった仕事で年間を通して収入がないことが要因だったと思います。私が夫と結婚してからも、白蝋は売れなくなっていって、生産量がだんだん減っていきました。
 私は実家で稲作をしていたので、田植えや稲木掛けなど稲作の作業は苦にならなかったのですが、養蚕は経験がなかったこともあって、蚕をどうしても好きになれずに困りました。蚕に与える桑の葉を摘みに行ったり、繭を選別したりすることはできましたが、蚕を見たり触ったりすることは気持ち悪くて最後までできなかったことを憶えています。娘が小学生になる平成の初めころまで養蚕をしていましたが、義母が娘を家から少し離れた所にあった蚕室によく連れて行っていたので、娘は蚕に触るのは平気でした。」

写真3-2-1 喜多灘小学校跡

写真3-2-1 喜多灘小学校跡

令和2年12月撮影

写真3-2-2 ハゼの実

写真3-2-2 ハゼの実

令和2年12月撮影

写真3-2-3 丸蝋

写真3-2-3 丸蝋

令和2年10月撮影

写真3-2-4 大釜(右)と大桶(左)

写真3-2-4 大釜(右)と大桶(左)

令和2年10月撮影

写真3-2-6 角皿と白蝋

写真3-2-6 角皿と白蝋

令和2年10月撮影