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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業18ー宇和島市②―(令和2年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

1 ミカン栽培

(1) ミカン作りの変化

 ア ミカン作りへの転換

 「私(Bさん)たちが子どものころ、平地の多くの部分は水田で、米を作っていました。山の方にも水田がありましたが、現在、玉津には水田は1枚もありません。私たちよりも前の、両親の時代や祖父母の時代には養蚕を行っていたと聞いています。少しでも平坦な土地や、山でも水を得られる場所であれば水田にしていたという時代でした。この地域では水を得にくかったので、サツマイモを多く植えていました。現在、玉津共選がある場所には、昔はでん粉工場があり、サツマイモを原料としてでん粉を製造していたことを憶えています。当時、この地域で産業らしいものはでん粉工場くらいしかないという時代でした。
 そのような状況でしたが、まだ私が小さかった昭和30年代にミカン景気となり、ミカンの価格が良くなっていきました。そのため、現在のように耕地は全てミカン畑に替わっていき、ミカンを増産する体制になっていきました。ミカンが最初に吉田町で栽培され始めたのは、史料的には江戸時代ということになっていますが、昭和30年代ころからミカンの栽培面積が増えていって、現在では吉田町が一大産地になりました。現在、JAえひめ南地区全体の販売金額は70億円近くになっているので、ミカン以外のもので稼ぐことはなかなか難しいのではないかと思います。」

 イ ミカンを山から運ぶ 

 「私(Bさん)が子どものころ、学校が終わると、当然のように友達と遊ぶか、ミカン作りの手伝いに山に行っていましたが、邪魔をしに行っているのか手伝いに行っているのかよく分からないような状態だったと思います。私が小さいころには車がなかったので、父はミカンが60kg入るような竹籠に私を入れてリヤカーに載せ、父がそれを引っ張って山へ行き、夕方になるとまた私が入った竹籠を載せて帰っていたことを憶えています。
 私が子どものころ、園地から道までミカンをほごろというものに入れて、担(にな)い棒と呼んでいた天秤(てんびん)棒で担いで下ろしていました。私たちの親世代の方たちは、ミカンを何百mも担い棒で担いで下ろしていたため、その世代の方たちは肩に大きな荷こぶができていて、腰を痛めていたことを憶えています。
 その後、索道が導入され、さらにオート三輪を使用するようになりました。昭和40年代の初めからモノレールが少しずつ設置され始め、私がミカン作りを始めた昭和58年(1983年)ころには、モノレールは多くの場所に設置されていました。設置された当時は、『作業がとても楽になった』と思ったことを憶えています。」
 「私(Aさん)は、昭和42年(1967年)に果樹試験場南予分場に入り、1年間勉強をしました。農家の跡取りはみんな、試験場に講習生として通っていて、松山の試験場か、こちらの試験場に通っていました。父が自動車の運転免許を持っておらず、『私が戦力にならなければ』という思いで、その時期に運転免許を取得しました。私の家では昭和43年(1968年)ころに索道を導入しました。ちょうどそのころ、国道56号の改築工事が行われていて、私もアルバイトとして働きに行きましたが、日当が1,200円だったことを憶えています。
 そのころ、私たちの親の世代には自動車の運転免許を持ってない人が多かったため、リヤカーでミカンを全て運搬していて、園地からリヤカーまではほごろと担い棒で下ろしていました。私の家の園地には、高い場所だと標高が200m以上の場所もあるため、索道で下ろすようになって楽になったことを憶えています。一輪車で園地の中を索道まで運んで、そこからは索道で下ろしていました。その時期も索道や道の付いていない高い場所からは、ほとんど担い棒で担いで下ろしていましたが、それが一番大変な仕事だったことを憶えています。担い棒は園地によっては、つい最近まで使っていました。ほごろなどは、昔は全て自分の家で夜なべして作っていたことを憶えています。それからしばらくしてモノレールを導入しました。私の家ではモノレールを導入したのは昭和48年(1973年)ころだったと思います。」
 「昔はほとんどのものが手作りでした。私(Bさん)も父がさまざまなものを自分で作っていたことを憶えています。冬の間には、父が土間で竹を編んで籠を作っていました。また、土間に丸い石を置き、もらってきた稲藁(わら)を水に濡らしてから叩(たた)いて柔らかくして、ほごろや担い棒の両側に付けていた縄も作っていました。」

 ウ 男衆さん

 「私(Bさん)が子どものころ、ミカンを運搬するような力仕事を行うために若い男の人が住み込みで働いており、労働力が豊富にあったのではないかと思います。当時はミカンの景気の良い時分だったからかもしれませんが、住み込みで働いていた人がどの家にも結構いたことを憶えています。食事と寝泊まりする場所はありましたが、給料がどのくらいだったのか聞いたことがありません。」
 「私(Aさん)の家でも、男衆(おとこし)さんと呼ばれていた住み込みで働く人を2人、ミカンの収穫の時期だけでなく年中雇っていました。男衆さんたちの中には土地を分けてもらって、こちらに住み着いた人が何人もいますが、私たちの家もそうだったのかもしれません。私の家では、祖父の代から石垣を築いたり、土地を買ったりして農地を広げたそうで、もともとは野村(のむら)町(現西予市)の出身だと聞いています。農家の次男、三男は男衆に出るなど、いろいろと苦労して世帯を持ったという人もいたのではないかと思います。」

 エ オート三輪

 「昔は車といえばオート三輪のことでした。私(Bさん)が小学校に入学したころには、何軒かの農家がオート三輪を持っている程度でしたが、小学校を卒業するころには大体の家が所有していたのではないかと思います。オート三輪は最初のころは枝ハンドルでしたが、次第に丸ハンドルに替わっていきました。当初はセルもなく、キックでエンジンを掛けていたことを憶えています。みずしま、くろがね、マツダ、ダイハツといったメーカーのものがありました。マツダは現在とはマークが違っていて、ダイハツも大阪城のマークだったことを憶えています。当時、小学校の運動会のときは、多くの家庭が運動場までオート三輪を乗り入れて、運動場を取り囲むように並べて駐車していました。車の荷台に茣蓙(ござ)を敷いて、家族で運動会を観戦したり、お弁当を食べたりしていたことを憶えています。」

 オ 容器の変遷

 「私(Aさん)はミカンを木箱に詰めていた時代に、箱を組み立てるために父が釘(くぎ)と金づちを持って出掛けていたことを憶えています。現在では玉津共選に出荷していますが、私たちは宮の浦に住んでいたので、当時は丸宮支部に出荷していました。ほかにも、深浦や与村井などの支部があり、それぞれの支部で木箱を組み立てていました。」
 「東京に出荷し始めたころ、東京へは木箱で送っていたそうですが、私(Bさん)が小学生だった昭和30年代半ばころから段ボールに替わっていったという記憶があります。昭和46年(1971年)には、段ボールを赤箱にして、テレビ宣伝を開始しました。柳家小さんに出演してもらったのですが、相当お金がかかったそうです。また、昔は船でも運んでいたという記憶があります。ミカンを採る際の入れ物もほごろや竹の籠からコンテナに替わっていきました。はっきりとは憶えていませんが、大干ばつがあった昭和42年(1967年)にはコンテナに替わっていたのではないかと思います。」

 カ 品種更新

 「私(Aさん)が農業を始めたばかりのころ、最初は夏柑の栽培から始めましたが、すぐに夏柑の品種更新をしていったことを憶えています。まず、新甘夏や紅甘夏といった品種を導入しましたが、そのときには、バスを貸し切って熊本へ視察に行きました。次に極早生(ごくわせ)ミカンを、当時流行していた市文や堂脇などの品種に更新しました。その後、大谷伊予柑を導入し、さらに品種更新を続けていき、最終的に南柑20号を導入しました。この南柑20号が玉津には一番適していると思います。
 このように私がミカン作りを始めてからは、品種更新を続けたことが一番記憶に残っています。最初は夏柑を植えていたのですが、その後、さまざまな品種を高接ぎしました。当時、高接ぎの指導を行っていた人がいて、私は若かったので、助手として付いて回っていました。なお、現在は高接ぎをせずに苗から植えた方が生長は早いことが分かっています。大谷伊予柑への品種更新では少し失敗して、温州ミカンの台木に大谷伊予柑を接ぐと、すぐに駄目になってしまったことを憶えています。
 大谷伊予柑は玉津で生まれて、当時の南予分場の場長さんも『これはすばらしいミカンですよ。』と言っていました。最初のころは1kgで10万円を超えるような価格がついており、『これだ』と思って栽培していましたが、現在ではほとんど作る人がいません。」
 「昔の品種更新は高接ぎといって、旧品種の成木に新品種の穂木を接ぐという方法が主流でした。今は品種改良として、2種類の品種を交配するという方法が多くなっています。今注目されている紅プリンセスも、親品種である紅まどんなと甘平を交配するという方法で品種改良されており、昔ほどには高接ぎは行わなくなりました。高接ぎを行っていたときは、夏柑以外のものは台木がすぐに持たなくなっていたと私(Bさん)は思います。
 今までいろいろな品種が開発され、淘汰されてきました。『この品種は良い』と世間で評価されていても、その品種の栽培に適した園地もあれば、適さない園地もあります。そのため、実際に自分の園地に植えてみて、自分の園地に、玉津に適した品種を探さなければなりません。しかし、それにはとても時間がかかるため、大体10年くらいのスパンで考えておかなければなりません。そのようにして試行錯誤を重ねた結果、今残っているのが玉津に適した品種だと思います。それらの中で、玉津の柑橘栽培の主力となっているのが南柑20号という品種です。」

 キ 消毒・灌水

 「30年ほど前からスプリンクラーが導入され始め、現在では以前に比べると消毒や夏場の灌水(かんすい)なども楽になっています。現在、玉津にはミカン畑が400haありますが、その半分強がスプリンクラーで消毒や灌水を行えるようになってきています。仕事が楽になってきた分、昔に比べると自分の時間が持てるようになったのではないかと思います。昔は、朝早くから日が沈むまで仕事を一生懸命していました。私(Bさん)たちの親の時代は、子どもを竹で編んだ籠に入れて山に連れて行き、一日中、山で過ごして帰ってきていました。昔は父親が保育園の送り迎えをすることはほとんどありませんでしたが、今の方が生活に余裕があるため、若い担い手農家の間では、父親が保育園の送り迎えをしている家が多いと聞きました。生活に少しずつ余裕が出てきたので、『玉津に戻ってミカン農家になるのも良いかもしれない』と若い人が思うようになったのかもしれません。」

(2) ミカン価格の低迷

 ア ミカン作りを行う

 「私(Bさん)が小さかった昭和30年代に、この辺りは全てミカン畑になり、最初は景気が良かったです。当時は南柑20号などを販売して、農家の稼ぎも相当良かったのではないかと思います。そのころの農家の手取りを今の金額に換算すると、1kg当たり800円から1,000円だったそうです。現在、私たちのところでは、早生の1級品で農家の手取りが1kg当たり200円くらいなので、今の4倍から5倍だったことになります。
 玉津共選が昭和42年(1967年)に設立されましたが、昭和40年代前半はまだ価格が良かったようです。ところが、昭和40年代の後半から昭和50年代の前半に全国で温州ミカンの生産量が360万tになりますが、そのころから価格が下がっていって、農家も苦しい時期がありました。
 私がミカン作りを始めたのは30歳を過ぎてからです。高校を卒業した後、20代のころは宇和島で会社勤めをしていました。いずれは実家に帰らなければならないと思っていたので、子どもが小学生になる前に玉津に帰ってきて、玉津から宇和島の会社へ車で通勤していました。子どもにとって小学校を転校して、環境が変わることは大変なことなので、実家に帰ってきたこと自体は良かったと思っています。そして、父と同じ家で生活をし、年齢を重ねていく父の姿を見ていると、『たとえ分家で土地が広くないにしても、自分が農業を継がなければならないのではないか』と考えるようになりました。会社勤めよりも収入は減ることになると思いながら、妻に会社を辞めるという決意を伝えたところ、それほど反対はされませんでした。 
 ところが、30年前はミカンの価格が安い時期で、ミカンの価格は現在の農家の手取り額の4分の1から3分の1くらいでした。そうなると、農業だけでは生活が苦しくなります。当時はミカンの生産量が多くて余っていたので、きれいなミカンもジュース用として出荷せざるを得ないということもよくありました。そのころが私にとっても、生産者全体にとっても一番苦しい時期ではなかったかと思います。特に、子どもがいる家庭では多くのお金が必要となります。ミカン作りだけでは足りないので、多くの農家が、ミカン作りをしながら、農閑期、特に冬から春先にかけて土木工事のアルバイトを行っていました。私もいろいろな土木工事のアルバイトを行いながら、山で消毒をしたり、草刈りをしたりしてずっとミカン作りを続けてきました。10年くらい前までは、ほとんどの農家が自分の子どもに対して『ミカン採りではなくて、大学に入ってサラリーマンになりなさい。』と言っていたような時代で、『玉津のミカンはあと何年続くのだろうか』という感じだったと思います。」

 イ ミカンの価格の回復と若い農家の増加

 「私(Bさん)がミカン作りを始める前の昭和50年(1975年)ころは、ミカンの生産量が非常に多くなって価格が低迷していましたが、ここ数年は高単価となり、農家が生活をするのに十分な収入を得ることができるようになってきました。現在、全国の温州ミカンの出荷量が70万tほどになっており、需要に対して供給が少し足りないという状態です(図表3-1-2参照)。特に年末、12月の贈答の時期には、市場の方からも『12月はミカンが足りません。』と言われます。そのため、玉津地区では温州ミカンを増やしていこうという動きが起こっています。中晩柑である紅まどんなや甘平といった、愛媛県で新たに開発された品種が出てきていますが、やはり、ここ玉津は温州ミカンの産地なのではないかと思っています。
 ミカンの価格がある程度安定してきたこともあって、この辺りの農家にも若い人が増えてきました。現在、玉津共選にミカンを出荷している方が180名ほどいて、そのうちの約60名近くが40代以下の方です。過去にミカンの景気がものすごく良い時期があり、その後、少しお金にならない時期がありましたが、現在は少しずつ持ち直して、若い人たちがミカン作りをしてみようと思うようになったのだと思います。この地域では第1次産業が中心で、山でのミカン作り以外には水産業関係の仕事くらいしかありません。昔は若い人のほとんどがサラリーマンになって玉津から離れていきましたが、今は少しずつ帰ってきてもらえるという状況になってきました。
 現在、農地はいわゆる担い手農家と呼ばれる若い人たちにどんどん集まってきています。高齢となったが後継者のいない農家の方が、隣の農地で若い人たちが頑張っている姿を見て、『悪いのだが、うちの畑でも作ってくれないか。』という話になり、農業委員会を通して正式な契約を結び、若い農家に農地が集まっています。若い農家の中には、園地が4haや5haもある農家も結構います。それが国や県の方針でもあるのですが、若い人たちにはやる気があり、年配の農家の方も自分の畑が草原や雑木林になるのは忍びないので、必然的にそうなるのだと思います。そのような状況のため、今のところ玉津では、耕作放棄地がほとんどありません。
 やはり若い人がいると、いろいろと動きが身軽です。災害のときにも若い人たちを中心に、JAとは別に玉津柑橘倶楽部という組織を作って、国、県、市の補助を受けたり、宣伝を行ったりしています。現在、玉津は全国的にも珍しい、若い農家が多い地域となっています。担い手農家の中でも一番若い人は20歳を少し超えたくらいなので、あと50年くらいは玉津が産地として続けていけるのではないかと思っています。」

(3) ミカンを売る

 ア 共選の役割

 「玉津共選は昭和42年(1967年)に誕生したので、私(Bさん)たちの親の代にはありませんでした。共選の役割は生産者と市場の間を取り持つことです。生産者が個人で品質の違うミカンをバラバラに売るよりも、共選でまとめて販売する方が何かと有利です。個人単位だと出荷量は10tから20tくらいですが、共選であれば何千tも出荷することができます。そのようにして少しでも産地の優位性を生かすために共選ができました。また、私たちは玉津のマークを付けて出荷していますが、共選間でも競い合って、産地のレベルアップを図ろうとしています。
 共選に集荷されたミカンは各地の市場に出荷されます。そして、市場の方から仲卸に、その次に昔であれば小売店、今はスーパーなどを経由して、消費者の元まで流通していきます。また、個人であれば自分で荷造りをして、代金回収を行わなければならないところを、共選が間に入っています。
 共選は農協の一部門でもありますが、独立性は強いです。実務的な業務はJAえひめ南の職員が行っているのですが、昔から、生産者の中から代表者や役員を共選に送り込み、生産者側と販売者側がそれぞれの立場で話し合いを行いながら、共選の運営を行っています。やはりJAのような大きな組織になると、生産や販売に関わっていない職員もいます。そのため、生産のことが分からない、販売のことが分からないということがあるので、生産者側、販売者側のどちらの立場の職員も全ての共選で勤務しているようにしています。共選長や役員は生産者の代表ということになるのではないかと思います。私たちとは別に荷受け作業をしてもらっている、農家と共選の間をつなぐ、支部長という役職もあり、支部長の仕事は若い方にしてもらっています。自分の山でミカン作りをしながら、共選の役員も務めなければならないのでかなり大変ですが、支部長には共選内部のことを勉強してもらって、先々は共選長などを交代で務めてもらうことにしています。私は35年ほどミカンを作ってきましたが、共選長を務めながらミカンを作ることは難しいので、共選長になってからは若い人たちに作ってもらっており、自分の手元に残っているミカン畑は一部だけです。
 東京などの市場との話し合いや市場調査も共選の大切な役割です。例年であれば秋口からほぼ毎月東京の市場に行っていますが、今年(令和2年〔2020年〕)は新型コロナウイルス感染症の影響で行くことができていません。」

 イ ミカンの流通

 「玉津共選では、ほとんどのミカンを東京の大田市場(神田青果市場が平成元年〔1989年〕に廃止され、大田市場に移転)、昨年(令和元年〔2019年〕)新しくなった豊洲市場、そのほか、八王子(はちおうじ)(東京都)、横浜(よこはま)(神奈川県)、前橋(まえばし)(群馬県)、宇都宮(うつのみや)(栃木県)など関東の市場に出荷しています。県内では松山の久万ノ台にある松山中央卸売市場に多くの量を出荷しています。果物は特にそうですが、東京での評価というものがその産地の評価となります。
 愛媛のミカンでは西宇和産の評価が高く、大田市場では1番か2番という評価を受けています。玉津共選も西宇和産ミカンと同様に東京青果の競り場へミカンを出荷していますが、実際に見ていると西宇和産ミカンにはすぐに買い手がつき、見ていると羨ましくなるほどです。玉津共選のミカンを競り場へ出荷したときには、西宇和産ほどには買い手が多くはありません。そのような産地にしていくために、ときどき若い人たちに西宇和へ視察に行ってもらっていますが、きちんと手間を掛けてミカンを作っていると思います。私(Bさん)は、『これからは玉津の若い人たちに一生懸命に頑張ってもらわないといけない』と考えています。」

 ウ 流通の変化 

 『宇和青果農協八十年のあゆみ』によれば、昭和33年(1958年)の宇和青果の輸送別形態では、貨車による輸送98.83%、船積み外1.17%で、貨車による輸送がほとんどであった。昭和30年代の後半からトラック便の利用の試みが始まるが、南予地方は道路事情が悪く本格的な利用に取り組めなかった。ところが昭和45年(1970年)、国道56号が現在のように2車線に改良された後、トラック便の利用が少しずつ増えていった。昭和48年度には、ミカンの輸送は、貨車約88%、トラック約7%、その他約5%となり、昭和59年度には、トラック約91%、貨車約9%とトラックによる輸送がほとんどとなった。昭和50年代のミカン輸送について、Bさんは次のように話してくれた。
 「昭和50年代になると、国鉄との付き合いもあり、ミカン全体の数%は国鉄の貨物列車で輸送していましたが、ほとんどがトラックによる輸送になっていました。そのころには、船の輸送は全くなくなっていたと私(Bさん)は思います。国鉄で輸送するときには、立間駅から東京の汐留まで貨物列車で運んでいました。今は見る影もありませんが、現在、汐留の日本テレビがある場所に、東京の貨物のターミナル駅(昭和61年〔1986年〕廃止)がありました。そのターミナル駅から築地市場まで引き込み線があり、列車が汐留から浜離宮の前を通って築地市場まで運ばれていたそうです。
 現在でも出荷するミカンの全てをトラックで輸送しているわけではありません。玉津共選では少しではありますが、北海道の旭川(あさひかわ)の市場にも出荷していて、そのときにはJR貨物のコンテナで輸送しています。一つのコンテナには10kg箱で600個ほど入り、大体二つくらいを旭川の市場に輸送しています。旭川へはトラックで輸送するよりもJR貨物で輸送する方が速いのです。」

 エ 消費者のニーズの変化

 「現在は日本中どこでも、ほとんどの果物の糖度をセンサーで測定しています。今はどのような果物も糖度が重視されており、ミカンも選果場のセンサーで糖度を測定し、美味(おい)しくない、甘くないものは淘汰されていています。ミカンの場合、糖度が11度か12度あれば美味しく感じると私(Bさん)は思います。ミカンには糖度も必要ですが、適度な酸っぱさやコクがある方が美味しいのではないかと私たちは考えています。しかし、東京の人は違うようで、とにかく甘いミカンが好まれて、ミカンに酸味は必要ないと考えているようです。大都会の消費者の感覚と私たち生産者の感覚にずれがあり、難しいところです。
 昭和40年代にミカンが大量に作られていたころは、6.7cm以上の大玉のミカンを中心に販売していました。現在では6.1cmから6.7cmのM玉が中心になっていますが、最近では市場の方から、『小玉はありませんか。』という問い合わせが入ることがあります。昔は、普通の規格でしたら5.5cmから8.0cmまでを一つの箱に入れて販売していましたが、現在では5.0㎝から5.5㎝までの小玉の需要が比較的あります。最近では、もう一つ下のサイズの5.0㎝以下のミカンを買い求める方もいます。私も気になって、何に使うのか尋ねてみると、ミカン大福の中に入れるのだそうです。大きいミカンは入らないためで、そのような使い方も今は行われているようです。都会の方でも小さなミカンの方が美味しいということが認識されつつあるようです。ミカンの消費量が減っているので、昔のように大玉であれば1個を食べるのには少し多いけれども、小玉であれば1個でも2個でも食べられるということもあるのかもしれません。」

 オ 共選長としての苦労・やりがい

 「私(Bさん)が共選長として一番苦労しているのはミカンの価格です。昨年(令和元年〔2019年〕)は長雨の影響によりミカンの味が少し落ちましたが、そのような場合、少し売れ行きが止まってしまいます。売れ行きが止まって滞果状態になると、例年であれば少しずつ価格が下がるところが、急激に下がってしまうのです。そうすると、当然農家の手取りが少なくなってしまいます。私の責任ではありませんが、そこがやはり共選長をしていてつらいところで、ときどきミカンが売れなくなる夢を見てしまうことがあります。農家の仕事というのは果物や野菜を作るため、天候に左右されます。晴天と雨天のバランスが良い年は大丈夫ですが、長雨であったり、日照りが続いたりすると大変で、その辺りが苦労するところです。一昨年(平成30年〔2018年〕)の西日本豪雨の際は、『なぜ私が共選長をしている時期にこんなことが起きるのか』と思いました。
 消費者から『とても美味しいミカンでした。』といった手紙をいただくことがあります。食べた人に『美味しいミカンだった。』と言ってもらうと、共選としても生産者としてもやりがいを感じます。特に子どもが『美味しいです。』と言って、にっこりと笑ってくれたら最高です。やはり、農家は自分が作ったものを『美味しい。』と言ってもらうのが一番で、お金も稼がなければなりませんが、やりがいはそこにあるのではないかと思います。そのうえで、共選で勤務するほかの職員と一緒に一生懸命に取り組みながら、ある程度のお金を年明けに得ることができると、『頑張ったかいがあった』と思います。」

(4) 自然災害とのたたかい

 ア 大干ばつ

 昭和42年(1967年)の大干ばつは、西日本一帯の農作物に大きな被害をもたらした。玉津地区では7月19日から9月22日までの65日もの間、雨がほとんど降らず、水確保のために自衛隊までも出動した。生産者は井戸を掘ったり、あるいは不眠不休で水を運んだりしたが、柑橘の被害は甚大なものとなった。この大干ばつについて、Bさんは次のように話してくれた。
 「昭和42年の大干ばつは大変でしたが、これを契機に南予用水事業が進展しました。この干ばつが発端となり、どうしても水を引かなければならないということで野村ダムが完成したのです。今ではスプリンクラーで灌水することができるので便利になりましたが、昔のように水をタンクで運び、自分の手で水を撒(ま)くことを考えると大変です。しかも、当時は大きなタンクがなかったので、ドラム缶で水を運んでいました。当時はこの辺りの川も全て干上がってしまったので、農家の人たちが宇和島まで水をくみに行っていたことを憶えています。宇和島でドラム缶に水をくんで、こちらで少しずつ水をミカンの木に撒いていましたが、とても大変そうでした。農家は、自分が苗木から育てて大きくした木は枯らせたくないものなのです。
 当時、私(Bさん)は中学生だったので、ミカン作りの手伝いをすることはあまりありませんでしたが、学校でも、だんだんと給食が水を使わない、洗い物が要らないものになっていったことを憶えています。最後はパン1個と牛乳だけになりましたが、よほど水がなかったのだと思います。大干ばつは、台風が来て雨が降ったので終わったという記憶があります。
 この地方は何度も台風の被害を受けてきました。台風はミカンが落ちたり、傷ついたりするというデメリットがありますし、ミカンの木は潮風を多くかぶると枯れてしまいます。ミカンの栽培には水は必要ですが、雨が降りすぎるのも困ります。この辺りは傾斜が急なので、水はけが良く日当たりも良いため、美味しいミカンを作ることができますが、一昨年(平成30年〔2018年〕)のように1時間に100mm近い雨が降ると、斜面の大崩落が起きることがあります。斜面での栽培にはメリットも多いですが、デメリットもあって思うようにはいきません。」

 イ 冷害

 「昭和42年(1967年)は大干ばつだけではなくて、前年の12月から1月末まで大寒波がやって来たことを私(Aさん)は憶えています。この年は正月前から雪が積もり、解けたのが1月の終わりでした。果樹試験場ではミカンの防寒対策として、試験的に喜佐方で古タイヤを燃やしたことをよく憶えています。この年は大寒波と大干ばつのダブルパンチで、なかなか大変でした。」
 「ミカンはマイナス5℃から6℃が3、4時間続くと中身が凍り、鬆上(すあが)りして酸っぱいミカンになります。気温が低すぎるとミカンが駄目になるのです。一昨年(平成30年〔2018年〕)にも、非常に強い寒波が来て、私(Bさん)たちの共選でもせとかという品種が大きな被害を受けました。鬆上りはセンサーを通しただけでは分からないので、荷受けのときにミカンを切り、味見をして判断します。やはり果物や野菜は天候に左右されます。今年(令和2年〔2020年〕)のような猛暑だと、ミカンが日焼けして黄色くなり、毎年同じという年がありません。どちらかというと今年のように少し干ばつ気味の方が、少し焼けが来ますが、美味しいミカンができます。」

 ウ 西日本豪雨からの復興

 「一昨年(平成30年〔2018年〕)の西日本豪雨の際、玉津地区ではミカン畑が流されるなど大きな被害が出ました。発災直後は道路が寸断されてこの辺りは孤立してしまいましたが、玉津地区では行政の力を借りずに、ほとんど自分たちで泥除けをして道路を開通させることができました。
 しかし、園地にかなりの被害が出ました(写真3-1-10参照)。園地もそうですが、モノレールやスプリンクラーのほか山に置いている機械など、いろいろなものが流されました。家のトラックまでも水に浸(つ)かって使えなくなった方もかなりいました。そのため『玉津は大変だ、もう廃農する人が多いのではないか』と私(Bさん)は思っていましたが、そのような人はほとんどいませんでした。逆に若い人たちが、『あきらめない強さ』というスローガンにあるように、前向きに取り組んでいます。
 国、県、市の行政にもいろいろとお世話になり、少しずつ復旧工事が進んでいます。大崩落を起こした場所を国の大型補助事業で再編をしており、園地の中にトラックが入る道を付け、今まで以上にミカンを作りやすい園地を整備しようとする工事も進んでいます。この農地の再編事業も、『もう構わないのではないか。』と言う農家の人もいたのですが、若い人たちが『先々できなくなったら、私たちがしますから一緒に整備してもらえませんか。』と説得して、事業を進めています。
 そのほかにも、農協の職員がボランティアで土のうを作ってくれています。昨年(令和元年〔2019年〕)までは県下いろいろな所からボランティアに来てもらっていたのですが、今年(令和2年〔2020年〕)は新型コロナウイルスの関係で地元の人たちだけで取り組んでいます。農家は、自分の畑をできる限り自力で直そうとします。園地を直すのに土のうの使い勝手が一番良いので、ボランティアの方々が土のうを作り、農家に使ってもらっています。1,000個作っても半日でなくなりますが、有り難いことです。大規模再編工事は4年ほどかかるため、工事が終わり、ミカンの苗を植えて、実が生(な)り始めるまでには、おそらく10年近くかかると思います。良い園地をどのようにして次の世代に引き継いでもらうか、現在、国、県、市、農協と協力しながら取り組んでいる最中です。」

(5) みかん研究所

 昭和8年(1933年)、愛媛県立農事試験場南予柑橘試験地が玉津村(現宇和島市)に設置された。この柑橘試験地の誘致には立間(たちま)村(現宇和島市)と玉津村の間で、国鉄の誘致問題を絡めて激しい争奪戦があった。最終的にくじ引きにより玉津村に設置されることが決定したが、玉津村は多額の村費を支出するなど大きな努力があったようである。昭和9年(1934年)には農事試験場南予分場となり、初代分場長として村松春太郎が就任した。村松は多数の新品種を選抜したが、その中でも特筆すべきなのは現在玉津共選で主力品種となっている「南柑20号」である。また、村松は農家の子弟を練習生としてミカン栽培を学ばせ、数多くのミカン生産者を育てた。昭和23年(1948年)に愛媛県立果樹試験場が創設されると、農事試験場南予分場は果樹試験場南予分場となった。平成19年(2007年)に南予分場が整備・拡充され、みかん研究所(以下「みかん研」と記す。)に改称された。みかん研について、Aさん、Bさんに話を聞いた。
 「私(Aさん)は高校を卒業した後、果樹試験場南予分場で学びました。午前中は教室での授業でしたが、午後からは接ぎ木や開墾の方法などを教わりました。ベルトコンベヤーを担いで上がって農地の整地をしたり、石垣を築いたり、その手伝いをしたりしたことを憶えています。」
 「私(Bさん)の父は大正15年(1926年)の生まれで、最後の新兵として朝鮮に行ったそうです。幸いなことに実戦を経験せずに演習だけで帰ってきたと言っていました。その父が最初のころの南予分場の練習生として勉強に行っていたと聞いています。
 現在ではみかん研になっていますが、みかん研は私たちの生産の柱になっていると思います(写真3-1-12参照)。農家ではなかなか行えない研究を行っていて、愛媛の農業、ミカン作りを活発にしていくために必要不可欠なものだという認識を皆さんが持っています。
 みかん研と一緒に事業を進めることが多くなっています。例えば、根域制限栽培の実験は、最初は農林水産省から話があったのですが、みかん研にお世話になって、協力して取り組んでいます(写真3-1-13参照)。現在、14aの農場に290本ほどミカンを植えて、いかに天候に左右されずに美味しいミカンを作るかということを検証しています。新しい技術を取り入れて、どのようにしてミカンに付加価値を与えるかということを考えているのです。この実験では、データの数値取りはみかん研でないとなかなかできないので、みかん研で予算を組んでもらって、土の中の湿度や温度などをセンサーで測定し、データをすぐにスマートフォンで確認できるようになっています。ミカンの生産があってこその販売なので、まずは美味しくてきれいなミカンを作るのが目標です。」

図表3-1-2 全国のミカン収穫量の変化

図表3-1-2 全国のミカン収穫量の変化

『果樹生産出荷統計』より作成

写真3-1-10 災害からの復旧

写真3-1-10 災害からの復旧

令和2年11月撮影

写真3-1-12 現在のみかん研究所

写真3-1-12 現在のみかん研究所

令和2年11月撮影

写真3-1-13 根域制限栽培の実験

写真3-1-13 根域制限栽培の実験

令和2年11月撮影