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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業18ー宇和島市②―(令和2年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

第1節 漁業と人々のくらし

 宇和海沿岸では平安末期のころからイワシ網漁業が行われていたといわれ、藩政時代は西国第一の好漁場として知られていた。江戸時代から明治初期にかけてのイワシ網漁業として地引網、船引網、八手(はちだ)網が三大漁業といわれ重要な漁業となっていた。しかし、明治期に入るとイワシの接岸が少なくなってきたため、イワシ刺網漁業が盛んとなり、地引網、船引網は次第に衰退していくこととなった。イワシ刺網漁業の漁法は藩政時代から使用されているが、地引網、船引網に比べて小資本で経営でき、しかも労働力が少なくて済む関係から営業者が続出することとなったが、昭和初期には激減した。
 大正初期にはイワシの四ツ張網漁業が発達し始め、昭和の初期以降は特に西宇和郡、北宇和郡などの沖合海域で盛んに行なわれ始めた。しかし、昭和30年代のイワシ不漁時代に遭遇し、そのうえ人手不足も深刻化したことから各地区とも四ツ張網漁業の経営は困難となった。
 本県の巻き網漁業は明治期において漁具漁法の基礎が確立され、大正期に入り、漁船の動力化、大型化によって漁場が沖合へ拡大し、操業方式は従来に比べて一変した。南宇和郡を中心とした大型巻き網漁業の一大船団が豊後水道及び宿毛湾で操業を展開するが、昭和30年代に入りイワシの不漁期となった。特にマイワシは漁獲が皆無となり、大型巻き網漁業者の倒産が相次いだ。宇和海沿岸の漁村は、このイワシ不漁をきっかけにして、昭和30年代の真珠母貝養殖、同40年代のハマチ養殖を主体とした養殖漁村へと大きく変貌していった。同40年代に入るとマイワシの資源回復の兆しが見え、イワシ、サバがハマチ養殖の餌として大量消費されるようになると、ハマチ養殖が宇和海沿岸で急成長した。低価格ではあるが価格が安定するイワシの巻き網漁業が維持され、四ツ張網はこうした状況の中で、小資本で省力操業が可能な、漁獲効率の高い巻き網漁業へと転換していった。
 九島は藩政時代から漁業が盛んで、城下町宇和島に対する水産物供給地であった。かつては地引網、四手(よつで)網などのイワシ漁が主体であったが、地引網は昭和30年(1955年)ころ、四手網も同40年(1965年)ころには消滅して小型巻き網、磯建網、一本釣りなどが行われたが、特に小型巻き網漁が盛んになっていった。
 宇和島では昭和30年ころに外部資本によって真珠養殖が始まり、それに刺激され九島では昭和32年(1957年)ころから真珠母貝養殖に取り組み始めた。一時は真珠母貝養殖一色といえるほど盛んとなったが、昭和42年(1967年)の不況を契機に衰退し、代わってハマチ養殖が盛んとなった。養殖海域の水質が悪化してくると、比較的汚染に強いマダイ養殖も行われ始め、消費の高級化や多様化に伴ってマダイ以外の魚類も養殖するようになった。
 本節では、巻き網漁を中心とした九島の漁船漁業について、Aさん(昭和26年生まれ)、Bさん(昭和36年生まれ)、Cさん(昭和36年生まれ)から、また、ハマチ養殖を中心とした九島の養殖漁業について、Dさん(昭和13年生まれ)、Eさん(昭和14年生まれ)、Fさん(昭和36年生まれ)から、それぞれ話を聞いた。