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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業18ー宇和島市②―(令和2年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

第2節 本町商店街の町並み

 宇和島(うわじま)市吉田(よしだ)町は県の南西部に位置し、法花津山脈の主峰高森山をはじめとする山々に囲まれた町である。平地に乏しく、集落の多くは谷間または沿岸部に立地する。江戸時代初めには宇和島藩領に属し、明暦3年(1657年)に宇和島初代藩主伊達秀宗の五男宗純が10万石のうち3万石を分知されて吉田藩を創設し、9代二百十余年にわたり陣屋町として発展した。明治時代に入ると、明治22年(1889年)の町村制施行に伴い、奥南(おくな)村、喜佐方(きさがた)村、立間(たちま)村、立間尻(たちまじり)村、吉田町、玉津(たまつ)村の1町5か村が成立した。昭和13年(1938年)には立間尻村が吉田町に編入され、さらに昭和30年(1955年)には、町村合併促進法により1町4か村と高光(たかみつ)村の知永地区が合併し、吉田町が誕生した。
 藩政時代の陣屋町は、横堀川で家中町と町人町に区画された。家老や家臣たちの屋敷が立ち並んでいた家中町は、立間川、国安川と、市街地の中央部を東西に横切る横堀川に囲まれ、道路は城下町特有のT字型や鉤(かぎ)型が多く、外敵に対する防御機能を備えていた。横堀川から南は町人町で、南北方向に西から魚棚、本町、裡(うら)町の3本の通りが走り、この3町はほぼ東西に走る三つの横丁で区画された。本町は家中町から桜橋を渡って御舟手に通じる主要道路に面し、商業の中心地として大店(おおだな)が軒を連ね、裡町は紺屋や鍛冶屋、石屋など各種の店舗が並ぶ職人町として栄え、魚棚は魚問屋や鮮魚商が軒を並べていた。戦災をあまり受けなかった吉田町の市街地は、江戸時代の名残を色濃くとどめており、現在の街路網はほとんど当時のものを踏襲している。町人町には現在でもその名を継ぐ店が何軒も残っており、この界隈(かいわい)は落ち着いた町並みとともに、現在も江戸時代の面影をしのばせる地域となっている。
 本節では、終戦前後から昭和40年代にかけての、本町商店街における人々のくらしについて、地域の方から話を聞いた。

聞き取り調査協力者
 Aさん(昭和7年生まれ)、Bさん(昭和10年生まれ)、Cさん(昭和12年生まれ)、Dさん(昭和14年生まれ)、Eさん(昭和19年生まれ)、Fさん(昭和26年生まれ)、Gさん(昭和32年生まれ)、Hさん(昭和34年生まれ)