データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業18ー宇和島市②―(令和2年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

2 人々のくらし

(1) 商店の家族

 ア 家族旅行

 「一般の家庭の場合、日曜日になると会社も学校も休みで家族がそろいますが、商店街は木曜日が定休日なので、店が休みになっても子どもは学校があり、家族そろって休みになることはありません。私(Fさん)は、子どものころ家族で遊びに行った記憶はなく、学校が休みの日は子どもたちだけで遊んでいました。なお、商店街の子どもたちの通学区域は辰野川で分かれていて、恵美須町は天神小学校、新橋通と袋町は鶴島小学校の通学区域になっています。」
 「祖父母が元気だったころ、家族旅行は年に1、2回したことがありましたが、祖父が体を悪くしてからはほとんどしたことがなく、私(Eさん)が小学6年生のときに大阪万博(昭和45年〔1970年〕開催)へ行ったくらいです。松山から大阪まで行く際に初めて飛行機に乗ったこと、万博会場にものすごい数の人がいたこと、太陽の塔を見て感動したことなどをよく憶えており、楽しい旅行でした。
 父親が会社勤めの場合、日曜日は父親も休みなので、商店街以外の近所の同級生はよく家族で出掛けていましたが、たまに一緒に連れて行ってもらうことがありました。船で近くの島へ渡り、日帰りでキャンプのようなことをしたことを憶えています。」
 「私(Aさん)が子どものころ、家族で出掛けることはほとんどありませんでした。商店街の皆さんが家族旅行をするようになったのは、平成に入ってからだと思います。私も子どもが小学生から高校生のころに、家族旅行をしました。子どもが夏休み中で店も忙しくない時期である8月の盆過ぎに、定休日と重ねて何日か休店して出掛けたことを憶えています。」

 イ 学校行事

 「私(Cさん)が子どものころ、基本的には参観日や運動会などの学校行事に親が来ることはありませんでした。」
 「店が忙しいことは分かっていたので、私(Eさん)を含め商店街の子どもたちは、学校行事に親が来ることを別に期待していなかったと思います。」

(2) 子どもの世界

 ア 子どもの遊び

 「公会堂の敷地内は、子どもたちが自由に出入りできて、車もほとんど出入りしなかったので、広場のようでした(図表1-1-3の㋞参照)。私(Cさん)が子どものころ、そこで野球をして遊んだことを憶えています。公会堂前の道路は舗装されていましたが、道路の中央部に楕円形状になった舗装されていない場所があり、そこで独楽(こま)回しやラムネ、ネンガリをして遊びました。ラムネとはビー玉のことで、当時、子どもたちはビー玉やビー玉遊びのことをラムネと呼んでいました。ただし、ビー玉はラムネ瓶から取り出したものではなく、ビー玉そのものが売られていました。自分のビー玉を離れた場所に置いてある相手のビー玉を目掛けて投げ当て、陣地から出した相手のビー玉をもらえる、という遊びです。ネンガリとは、地面に突き刺した五寸釘(くぎ)に向かって離れた場所から五寸釘を投げて、地面に突き刺した五寸釘が倒れ、自分の投げた五寸釘が地面に刺さると勝ち、という遊びです。そのような遊びをしていたので、舗装されていない場所が子どもたちの遊び場でした。」
 「私(Eさん)が子どものころ、どの道路も舗装されていて砂地がありませんでした。そのため、遊びが限られていて、ゴム跳びや、ゾッカンと呼んでいた缶蹴りをしていました。また、近所の恵美須神社で野球をして遊んだことを憶えています(図表1-1-3の㋟参照)。今考えると罰当たりですが、投げたボールが賽銭(さいせん)箱に当たるとストライクで、バッターは手でボールを打っていました。現在の恵美須神社は階段が付いて、下側が倉庫になっていますが、私が子どものころは小さな古い社と鳥居があるだけの平らな場所で、神社前の通りも一方通行でそれほど交通量もなかったので、私たちは公園のように利用していたのです(写真1-1-6参照)。店が夜遅くまで開いていて明るかったので、商店街の子どもたちは午後9時ころまで遊ぶことができて恵まれていたと思います。」

 イ 亥の子

 「商店街の道路が舗装されていなかったころ、亥の子が商店街の通りで行われていました。亥の子石を搗(つ)いてできた穴を埋めていたことを私(Bさん)は憶えています。やがて車道が舗装されて、歩道にもコンクリートブロックが敷かれると、亥の子石を搗けないので、まだ舗装されていない商店街の裏通りで行われるようになりました。昭和40年(1965年)ころまで、主要な道路以外は、舗装されていない土の道路がまだまだ多かったと記憶しています。裏通りには酒を提供する飲食店が多く、そこのお客さんが『石を搗きなさい。』と言って、御祝儀をくれることもありました。
 やがて亥の子が行われなくなりましたが、子どもたちに昔からの風習を伝えようと、町内会の役員が中心となって復活させた際、半畳ほどの大きさの畳を友人が営む畳店に作ってもらい、畳の上で亥の子石を搗くようにしました。復活させると、『結婚式の余興で亥の子石を搗きたいので貸してください。』とよく頼まれたことを憶えています(写真1-1-7参照)。20年ほど続きましたが、子どもの数が少なくなり、4、5年前にやめました。現在では、宇和津彦神社の近所で亥の子は続いているようですが、近辺では亥の子を見掛けなくなりました。」
 「亥の子のときは、店の前で亥の子石を搗いた方が御祝儀をたくさんもらえるので、商店街の周辺地区の子どもたちが商店街の通りに来ていました。袋町の子どもたちは、商店街の通りではなく、近所の方を回っていたことを私(Cさん)は憶えています。また、それぞれの町内に子ども会があって、それぞれでクリスマス会などの行事をしていました。子どもの数が多かったので、袋町も1丁目と2丁目の単位で組織されていました。」
 「私(Eさん)が子どものころ、新橋通、袋町では亥の子をしていましたが、恵美須町では子どもの数が少なかったので亥の子をしていませんでした。また、祭りのときには、愛護会の活動で神輿(みこし)を担いだことを憶えています。」

参考文献
・ 宇和島商店街連盟『結成三十周年記念誌』1983
・ 愛媛県『愛媛県史 地誌Ⅱ(南予)』1985
・ 愛媛県高等学校教育研究会社会部会地理部門『宇和島市の地理』1990
・ 宇和島市『宇和島市誌(上巻、下巻)』2005

写真1-1-6 恵美須神社

写真1-1-6 恵美須神社

令和2年12月撮影

写真1-1-7 亥の子石

写真1-1-7 亥の子石

令和2年12月撮影