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伊予の遍路道(平成13年度)

(1)小松町大頭を経て横峰寺・香園寺へ②

 イ 横峰寺への山道

 県道147号終点手前(小松町石鎚横峰)に「四国のみち」休憩所があり、ここが横峰寺への登り口となっている。ここから、40段あまりのコンクリートの階段を登り、横峰寺への山道(写真3-3-4)に入っていく。前出の**さん・**さんの話によると、この山道は、昭和56年(1981年)以降「四国のみち」整備事業が進められた際に、かつての遍路道を改修・整備したものであるという。
 階段が途中で右折する地点に、「二十丁」と刻まれた舟形地蔵丁石がある。左手に谷川、右手に杉林を見ながら登っていくと、「十九丁」の地蔵丁石がある。以下、一丁ごとに地蔵丁石が置かれ、「十八丁」と「十七丁」の間には、横峰寺に登る途中、一夜の宿を断られた弘法大師が野宿したと伝えられている「大師の野宿石」がある。「十六丁」と「十五丁」の間、「四国のみち」の標識「60番横峰寺1.6km」の下に、「峯より弐十丁」と刻まれた地蔵道標⑧がある。
 この後、山道は「四国のみち」整備事業により架けられた五つの橋を渡り、谷川を縫うようにして登る。道幅約1mで、板状自然石の敷石が続く箇所、地表に現れた岩盤を階段状に刻んだ箇所、土止めをし階段状になっている所、沢からの水で多少ぬかるんでいる所などがあるが、よく整備されている。しかしもとの遍路道は、谷川を飛石伝いに渡り、登っていたようである。
 「60番横峰寺1.2km」と記された「四国のみち」の標識右下に、「從峯十三町」と刻まれた道標⑨がある。「十一丁」と「十丁」の間に「從峯十一丁」の道標⑩があり、「十丁」過ぎの山側には、「文政二年」(1819年)と刻まれた芸州(広島県)の遍路の墓がある。さらに登ると、「從峯十丁」と刻まれた道標⑪が立っている。この道標の前に、「享保十六年十二月廿一日 千足山村 とち之川 市左ヱ門」と台石に彫られた大師像がある。「九丁」を過ぎると、山側に「從峯十二町」と刻まれた道標⑫がある。この道標は後世下からここへ移動させられたものと思われる<10>。
 さらに進むと右側に大きな自然石が見えてくる。その手前に「七丁」の丁石、その先には、「文化十二年」(1815年)と刻んだ播州(兵庫県)の遍路の墓がある。さらに登ると、「從峯七丁」と刻まれた道標⑬が倒れている。これを過ぎると、「八丁」の地蔵丁石が立っているが、これは「七丁」の地蔵丁石と場所が入れ替わっている。「六丁」を過ぎると、左手に「安政七申」(1860年)と刻まれた周防(山口県)の遍路の墓がある。
 さらに登り、「60番横峰寺0.6km」と記された「四国のみち」標識の反対側の山道右手に「五丁」の地蔵丁石がある。この辺りにはかつて古坊(ふるぼう)(小松町石鎚横峰)という集落があり、昭和50年代初めのころまでは住民が居たとのことである。石垣が所々に残っているが、一面杉林となっている。近くの「四国のみち」ベンチ横に、香園寺への道を示した和田屋利平建立の道標⑭と古坊の人が建てた道標⑮の2基の道標が倒れている。少し登った左側には小堂、六地蔵、石仏があり、小堂裏には「天保三年辰」(1832年)と刻まれた隠岐(島根県)の女遍路の墓がある。
 さらに進んで、少し下って谷川、そしてまた登ると、左手に7基の遍路墓(写真3-3-5)が見えてくる。右端の2基は折損しており、その形状・刻字から見てもとは一つの墓石であったと喜代吉榮徳氏はいう。「正徳四」(1714年)、「天保九」(1838年)、「天保十四」(1843年)、「嘉永元」(1848年)、「慶応三年」(1867年)などの年号を刻んだ阿州(徳島県)や芸州(広島県)などの遍路の墓である。「60番横峰寺0.4km」と記された「四国のみち」の標識の下に「三丁」の地蔵丁石があり、さらに登ると山側に、「從峯三丁」の道標⑯がある。この坂を登り、やや平らになった地点右手に「二丁」の地蔵丁石がある。そこから杉の大木の右を通りさらに登っていく(写真3-3-6)と、横峰寺の山門に至り、そのすぐ下に、「一丁」の地蔵丁石と合掌した地蔵が立っている。
 六十番横峰寺は、境内下段に山門と庫裏(くり)を配し、上段右側に権現造りの本堂、左側に大師堂・歓喜天堂などが配置されている。背後の山肌には数百本の石楠花(しゃくなげ)が植えられている。
 山門の前に立っていた利平道標⑰は、現在は山門工事のため、山門横に保管されている。また、大師堂右前の「百度石」も裏面を見ると、「井上利平建之」と彫られている。井上(和田屋)利平(1809年~1890年)は、小松藩両替所を営み、町頭を務めていたという。神仏崇敬の念厚く、遍路道標や常夜灯などを小松周辺に数多く建立している<11>。今回の調査で確認された利平道標は、小松町に6基、東予市に2基、西条市に2基の計10基である。建立年代を見ると、文久4年(1864年)と明治14年(1881年)に集中的に建てられている。なお、他の道標が一般に角柱や角板であるのに対して、利平道標の大部分は円柱状であるのが特徴的である<12>。
 山門を出て南に約500m登っていくと、星が森峠に達し、そこが霊場「星が森」である。途中には、横峰寺と小松までの方向と距離を示した道標⑱が立っている。星が森峠には、約1.5mの高さの鉄の鳥居が石鎚の峰を望むように建てられ(写真3-3-7)、石積みの小堂には大師石像が祀られている。この鳥居について、澄禅の『四国遍路日記』は、「社壇ノ後薗ヲ通リテ未申ノ方ノ峰二上ル事五町、爰二鉄ノ鳥居在リ、爰ニテ石槌山ヲ拝シテ札ヲ納テ読経念誦ス。<13>」と記している。また、寂本も『四国徧礼霊場記』で、「独股(とこ)石といふ石尺余もありと、天より降りたるよし所以を聞ず。此石より二町程のぽりて鉄の鳥居あり、弥山の拝所といへり。是より弥山へは路程九里なり。<14>」と記している。この「星が森」という名は、弘法大師42歳の時再度入山の折りに、当所で厄除けのための星祭りの行を修したことにちなんで、この名がつけられたといわれている<15>。

 ウ 打戻り、大頭から香園寺へ

 横峰寺から香園寺への打戻りの遍路道は、貞享4年(1687年)刊の『四国邊路道指南』によると、「○しんでん村○大戸村、此所に荷物おきでよこミねまで二里。○ゆなミ村、地蔵堂有。○ふるほう村、地蔵堂。大戸より山路、谷合。(中略)是よりかうおんじまで三里、右の大戸村へもどる。<16>」と記されている。また『四国遍礼名所図会』は、(是より大頭町迄下り支度いたし、香苑寺へ廿五丁也。明口村、香苑寺村。<17>」と記し、それぞれ大頭へ打ち戻ることを案内している。また、明治16年(1883年)刊の『四国霊場略縁起 道中記大成』では、「大戸村、此(の)所に荷物おき行(く)。是よりよこみねへ二里。ゆなみ村・ぶりほう村。(中略)横みね寺より香苑寺へ筋向(かい)道発(おく)る人多し、益なし。右の大戸へもどるをよしとす。(中略)是より香苑寺迄三里。右の大戸村へもどり、みゃうぐち村、周布郡かうおんじ村。<18>」と記して、横峰寺から香園寺への直通路は益がないとして、大戸(大頭)に戻ることを勧めている。
 遍路道は横峰寺から下り、湯浪を経て妙口の石上神社前まで戻って右折し、石上神社橋を渡って北東に進むと、妙口薬師堂に至る。薬師堂前で左折して、北西方向に進み、讃岐街道(金毘羅街道)に合流する。このほかに、石土神社前を通って大頭の交差点まで戻り、讃岐街道に合流する場合もあったと思われる。なお、この大頭の交差点付近から、南川の西端に位置する小松中学校前までの讃岐街道は、国道11号と重なっている<19>。合流地点から、讃岐街道を北東に2kmあまり進み、小松中学校前の交差点手前で国道から分岐し、国道の北側を北東方向に500mほど進んで、国道と交差する。国道・讃岐街道・遍路道の交差する地点には、大正10年(1921年)に建てられた、「子安弘法大師入口」と刻まれた高さ2.5mの石柱があったというが、現在は香園寺参道の左側へ移設されている。なお、讃岐街道は合流地点から、国道を横切り南東へ進む。遍路道は、国道を横切って南に進み、高鴨神社の参道途中より左折して、香園寺境内に入ったようである<20>。

写真3-3-4 横峰寺への山道の登り口付近

写真3-3-4 横峰寺への山道の登り口付近

小松町石鎚横峰。平成13年6月撮影

写真3-3-5 横峰寺への山道途中の遍路墓群

写真3-3-5 横峰寺への山道途中の遍路墓群

平成13年5月撮影

写真3-3-6 横峰寺山門手前の登り道

写真3-3-6 横峰寺山門手前の登り道

平成13年12月撮影

写真3-3-7 星が森峠の鉄の鳥居 

写真3-3-7 星が森峠の鉄の鳥居 

平成13年11月撮影