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伊予の遍路道(平成13年度)

(2)泰山寺から栄福寺へ

 ア 泰山寺から蒼社川へ

 今治市小泉にある泰山寺には弘法大師ゆかりの松といわれる不坊松があった。昭和53年(1978年)の松くい虫被害で枯れたものだが、目通り2.2m、枝張り15mの大樹で4代目であったという<52>。泰山寺入り口の石段下には、平成2年までは奥の院への道標があり、さらに境内左側には先記の道標(57)と徳右衛門道標(58)が並んで立っていたという<53>。平成13年現在、寺は改装中のため、奥の院への道標は不明、徳右衛門道標は新しい駐車場のほうへ移され、刻字を下に寝かされている。この徳右衛門道標は亡き子6人の戒名が彫られた供養碑でもあり、徳右衛門が道標を建立する機縁を示す貴重な道標でもある。
 泰山寺から奥の院までは200m余である。寺の正面の石段を下りて右折し家並みの中を進む。途中、道の左側の塀沿いに道標(59)がある。さらに30mほど進むと「泰山寺奥之院龍泉寺」の案内標石もある。
 栄福寺への遍路道は、泰山寺下の駐車場から100mほど南西へ向かい、奥の院から下りてきた道と交差する。その交差する所にある**邸(小泉7-36)北角の四つ辻に天保15年(1844年)建立の道標(60)がある。道標に従って左折し、まっすぐに南東へ向かう。まもなく田畑の中の狭い田んぼ道を行く。400m余り進むと、**邸(小泉4-10-8)横の四つ辻に出る。その道に面した古い酒蔵の隅を切り込んだ所に、2mを越す静道道標(61)が立ち、手印が刻まれた地蔵道標(62)が安置されている。さらに南東に進む道は、家並みの中に入って舗装はされていても、昔ながらの細い道であり、国道317号も横切ってそのまま蒼社川(そうじゃがわ)へと向かう。
 蒼社川の土手沿いに老人ホーム日高荘があり、同じ敷地内の遍路道沿いに遍路墓が15基ほど整理されて並び、「四国遍路無縁墓地」の立て札が添えられている(写真3-1-7)。歩き遍路がふと手を合わせながら通り過ぎると聞く。泰山寺からこの堤までおよそ1kmである。
 日高荘前の土手を上がると、幅100m余の蒼社川である。土手沿いに走る道のガードレールの川側に、道標などの石造物を整理して並べている。1基は嘉永3年(1850年)のもので、「遠山に眼のとどきけり秋の月」の俳句も刻まれた静道道標(63)である。道標の手印は川を渡る方向を指している。その脇に4基の舟形地蔵、左端の地蔵は6角形の台石の上にある。少し離れて左にもう1基道標(64)がある。
 『四国遍礼名所図会』には「惣虵川常に河原をとぶる。大水の節ハ渡船す、<54>」とある。古老の話では、この辺り戦前は、水枯れのころ、川の流れが幾筋かになって中洲ができて、流れの両側に石を組み、その上に3枚ほどの板を置いて仮の板橋として渡っていた。ところが大雨になると大河となり板橋も流れ、板とともに流れた遍路もいたという。昭和12年(1937年)撮影という村上節太郎氏の写真には置いただけの板橋を渡っている遍路姿が写っている。昭和5年(1930年)刊の『札所と名所 四国遍路』には「折柄天気つゞきの秋の半ば、ほんのちょろちょろ水が一筋、河原を流れ、板橋がそれを渡ってゐる。春夏の豪雨には一たまりもあるまい。いや、そのときは十四、五町上流になってゐる熊橋と言ふのを越すのださうな。<55>」と記されている。
 対岸に回ると徳重と中寺の境、そこにも道標(65)が川を挟んで道標(63)・(64)と向き合うように立っている。栄福寺への道と泰山寺への道をそれぞれ示した大正11年(1922年)建立のものである。1.5m四方に2段のぐり石で囲い、その中に道標と舟形石仏や遍路墓が7基まとめられている。

 イ 四村・五十嵐経由の道と玉川回りの道

 蒼社川を渡ってから栄福寺への道は二通りある。一つは四村(よむら)、五十嵐(いかなし)を通って、石清水八幡へ北東側から上り南西側の中腹にある栄福寺へ下る道、もう一つは谷山川沿いに玉川町に入り、石清水八幡の南西側に回って栄福寺へ上る道である。
 先ず四村、五十嵐を通る道だが、天保7年(1836年)の記録『四国遍路道中雑誌』には「惣蛇川越而よ村少し行きていがなし村二致〔到〕る。<56>」とあり、今も四村、五十嵐に道標が残っている。四村については、遍路にかかわる次のような伝説が残っている。

   与州越智郡今治の内、余村といふ所に治右衛門といふものあり。遍礼も数度して、遍礼の事を殊勝におもひ、遍礼人に宿
  をかしいたはれり。我家の前に数畝の畠あり、土地あしくして、なにをうへてもそだたず、打捨置しが、遍礼にあたへんと
  て、芋をうへて見しに、事々敷肥さかえ、よろこび遍礼人に心まかせにすヽめけり。これを遍礼人にあらざる人くへるにあ
  じなくしてくはれず、ミな人ふしぎといひあへり<57>。

 この四村を抜けて五十嵐へ続くかつての遍路道を明確にすることはできない。そこで現在の道で道標をたどることにする。
 蒼社川を渡った徳重から谷山川沿いに500mほど進む。そこで山手橋を渡ってきた県道今治丹原線に合流する。左折して300mほど南東に進み、県道から分岐して八幡山に向かって右折する。田んぼの中を100mほど進むと、**邸(四村173)北隅の四つ辻に、頭部が折損した道標(66)が立っている。そのまま集落の中を100mほど直進すると三差路があり、左折して佛城寺前を過ぎ、次の四つ角を右折して八幡山に向かって直進すると山の麓を回る道に突き当たる。**邸(五十嵐444)前に道標(67)があり、左に150m足らず行くと石清水八幡神社参道表口である。
 石橋を渡ると、すぐ右に「伊豫一社五十七番石清水八幡宮表口」と彫られた万延元年(1860年)銘のある碑が立ち、左側の草叢(むら)の中には道標(68)・(69)がわずかに頭を出している。また、『四国遍礼名所図会』に「石鳥井有り。是より弐町坂也<58>」。とあるが、正面には延享2年(1745年)建立の古びた石の鳥居があり、道はそこから左右にくねりながら勾配のきつい石段が200m余り続いて山頂の八幡神社に至る。樹々に囲まれた深閑とした上り道である。八幡山の山頂からの眺めを『四国遍路日記』では、「此山ヨリ見バ今治三万石ヲ目ノ下二見ナリ。誠二碁盤ノ面ノ様ニテ田地斗也。真中二河在、北ハ海手向ヒハ芸州ナリ。<59>」と記している。今でも今治市内から瀬戸内まで一望下にすることができる風光の地であるが、今は茂った木々が眺めをさえぎっている。山頂からは滑り降りるような道や石段が南西に下り、150mほどで栄福寺に至る。
 次に玉川回りの道は、蒼社川を渡って徳重から谷山川沿いに進み、今度は県道今治丹原線を横切って、さらに谷山川沿いを上流に向かう。左前方に八幡山がみえ、川の両側には田んぼが広がっている。八幡山の尾根筋が今治市と玉川町の境界である。600mほど進むと左に八幡山の山裾(すそ)を回る細道があり、右側には谷山川に架かった「お旅所橋」がある。その細道の入り口に3基の道標がある。百度目の茂兵衛道標(70)と小形の道標(71)、それに上部折損の添句もある静道道標(72)である。静道道標は折損のため句の全容も不明である。ただ「□□い廿丁」とあるのは「されい廿丁」が考えられ、ここから20丁余離れだ「作礼山(佐礼山) 仙遊寺」への道標と思われる。
 この山裾(すそ)を回る遍路道は山沿いの幅1mほどの小川に沿い、右側は田畑が広がる細い道である(写真3-1-9)。400mほどで八幡(やわた)集落に入り、左折する細道との三差路に道標(73)がある。右側の道をさらに50mほど行くと八幡神社参道裏口に至る。左側に表口と同じ万延元年(1860年)の銘が彫られている「伊豫一国一社石清水八幡宮江三丁/四国五十七番霊場」の碑が立っている。右側には仙遊寺と栄福寺を指示した茂兵衛道標(74)もある。参道を100mほど上ると右側に栄福寺がある。途中の左脇道に高さ40cmほどの自然石の道標(75)がある。この脇道は道標(73)の三差路からの細い近道である。栄福寺入り口には「是よ里佐禮山まで二十丁」の徳右衛門道標(76)があり、その後に下部が折損した道標(77)が石垣に持たせかけてある。

写真3-1-7 日高荘下の遍路墓

写真3-1-7 日高荘下の遍路墓

今治市小泉5丁目日高荘下。平成13年5月撮影

写真3-1-9 栄福寺への遍路道

写真3-1-9 栄福寺への遍路道

越智郡玉川町八幡。平成13年10月撮影