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伊予の遍路道(平成13年度)

(4)大三島を経て延命寺へ

 円明寺から延命寺まで、『四国邊路道指南』では9里の道である。この間、海路をとって、宮島や大三島参拝を終えた後、延命寺付近へ上陸し、延命寺へ向かった遍路もいたようである。
 『四國遍路中并摂待附萬覚帳』には、堀江から出船し、安芸の宮島参拝後「菊間へ着船仕候、是より五十四番延命寺へ三り余」の記述がある<26>。また『四国遍礼名所図会』では、堀江から「宮じまに出船」し、岩国の錦帯橋、宮島、大三島の「五十五番三島社」を参拝した後、「迷田の浜に着する。此所より上り迷田村、是より延命寺迄弐里。大井村、新町町有<27>」と記している。さらに『四國道之記』には、太山寺を打った後、三津浜から宮島さらに大三島に渡り、その後、延命寺へは「佐嘉浦といふ所にあがりて二里半ありし<28>」とある。「迷田の浜」「佐嘉浦」がどこなのか確定できないが、五十四番延命寺まで2里~2里半の地点は旧菊間村と旧大井村との間、旧亀岡村佐方の辺りが想定される。
 また、『四国日記』には宮島から「大江しま(大三島か)」へ参詣の予定が雨天のため、大三島へは寄らずに「大井ノ新町と申所へ着船す<29>」とある。ちなみに「菊間浜村」、「佐方」、「大井」は江戸時代に松山藩の「旅船の出入りが許された」13浦の中に入っており、共に船番所も置かれていたという<30>。なお船以外の乗り物では、大正期には馬車やバス、昭和2年(1927年)に松山市まで省線鉄道が敷設されると汽車を利用する遍路も出てきた。昭和7年に遍路した宮尾しげをは伊予和気駅から今治駅まで汽車を利用し<31>、昭和16年の橋本徹馬は大井(現大西)駅で汽車を降りて延命寺へ向かっている<32>。
 もう一つ波止浜(今治市)から延命寺への遍路道があった。『四國遍路中并摂待附萬覚帳』によると、実際は大雨のため、予定を変更して「菊間」へ上陸しているが、堀江出船時点の予定として、宮島・錦帯橋・大三島への経路が記され、最終到着地としては「伊豫國橋浜へ着、夫よりそまだ越致し五十四番札所也<33>」と記されている。「橋浜」は波止浜のことであり、「そまだ」は波止浜から延命寺への峠越えの道沿いにある集落「杣田(そまだ)(今治市)」のことである。波止浜も松山藩13浦の一つである。また波止浜には、天和3年(1683年)に完成した県内最古の松山藩の入浜式塩田があり、船の出入りが多く、島方の人々を含め船を利用して波止浜に上がる人々も多かった。港には海上安全と金毘羅大権現の文字を刻んだ高さ6mもある灯明台が嘉永2年(1849年)に建てられている。その波止浜本町の突き当たり龍神社の玉垣の下に、文政13年(1830年)銘のある「延命寺へ壱里」の道標㉓がある。そこから大西町へ向かう道はかつての「波止浜街道」であり、遍路道でもある。大西へ向かう途中、波止浜と隣接する波方町郷の入り口一本松の所にも、延喜観音を案内した道標と並んで「左へんろみち」の道標㉔がある。さらに進むと遍路道(旧街道)は現在の県道今治波方港線(38号)に連なり、やがて旧街道と分かれ、左折する県道38号線と共に杣田を通り延喜店の交差点へ通じている。そこで再び左折して延命寺へ向かっていた。