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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業14-西予市②-(平成30年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

1 町並みをたどる

(1)町の歴史

 ア 町の成り立ち

 旭町の成り立ちについて、Bさんから話を聞いた。
 「旭町とは、当初、元の学校付近のことを指していました。大正7年(1918年)に、現在の川沿いの道(旧県道35号野村城川線)が整備されるまで、この辺りは畑だったと聞いています。道路が整備されたことにより、多くの人が移り住んで来たそうです。人家がなく、畑だった所に新道が整備されて商店街へと発展していったということです。
 この道路が整備されたときに、『大正の御世が旭日のごとく栄えますように』との思いで『旭町』と名付けられたそうです。その後、徐々に西側へと住宅が伸びてきて、『新町』ができました。茶堂の所に北谷という川がありますが、ここが交差点となっていて、これより西側を、『旭町の日がここにも当たりますように』との願いから、『日の谷』と名付けられたそうです。それまでは、農耕地で、『ムクノキ』という地名でした。今でも、お年寄りの中には、この通りのことを『新道』と呼び、『新道のムクノキに行ってくるけん。』という言い方をする人がいて、当時の地名が受け継がれていることが分かります(図表2-1-2参照)。」

 イ 栄えていた旭町

 「私(Bさん)は、田穂(たお)で生まれ、昭和18年(1943年)に魚成国民学校に入学して旭町に来るようになりましたが、そのときは、小さな店が数多くあり、戦前の方が賑(にぎ)わっていたと思います。
 茶堂がある交差点は、南に行くと、宇和島(うわじま)街道につながり、北へ山を越えて行くと大洲(おおず)方面、西へ行くと野村方面、東へ行くと魚成橋方面へ行く道路で、交通の要所となっています。人々の往来が多かったことが考えられ、それはこの交差点付近に旅館があったことが物語っていると思います。また、旅館の向かい側には塩屋(塩の販売店)があって、役場が小学校の横に建設されるまでは、ここに仮の役場庁舎が置かれていました。旅館の隣には衆楽館という劇場が終戦のころまであって、よく芝居一座が来ていたことを憶えています(図表2-1-2参照)。人が集まる場所だからこそ、商店も数多くあって栄えていたのだと思います。それが、昭和30年代、40年代になると少しずつ寂しくなっていくのです。」

 ウ 「町」の復元地図

 元町の様子や旭町の成り立ちについて、大正7年(1918年)ころに村長を務めた岡田久一郎氏のお孫さんにあたるFさんから話を聞いた。
 「私の本家に残っていた総2階の古い家を取り壊したときに、棟や梁(はり)のほぞの部分を見てみると、『明治43年(1910年)11月新築』と、棟梁(とうりょう)の名前とともに書かれていました。恐らく、棟上げがその日だったのだと思います。私の祖父は明治の終わりから大正にかけて20年ほど村長を務めていましたが(明治38年〔1905年〕から大正15年〔1926年〕まで在職)、村長としての仕事を始めたころに、旭町に移って来たのだと思います。それまでは、『元町』に住んでいて、かつては『町』という名でしたが、こちらに商店等が移ってしまったことから、『元町』と呼ばれるようになったのだと思います。かつての『町』は、台地状で山を控えておらず、水の便が良くありませんでした。山を控える所へ移ることで谷水を利用することができ、飲料水を容易に確保することができるようになったのです。
 祖父は村長を務めていたので、道が整備されるという情報も最初に知っていたと思われます。図面は、郷土史を研究されていた河野忠義氏からいただいたものです。岡田久一郎と図の中央付近に記されていて、これが私の本家です。まだ本家がここにあるので、明治43年以前の図面だと思います。  
 当時、この辺りは街道で、江戸時代には、広見(ひろみ)(現鬼北(きほく)町)の方から山を越えて来た方が、船で移動するために肱川へと向かって行くときに通っていたそうで、代官所跡なども見られます。また、駐在所やお医者さん、酒屋さん、小学校、役場もあることが分かります。この図によると、明治期には隆森(りゅうがもり)小学校がありました。この地域には竜森城というお城があり、それに因(ちな)んで名付けられたと考えられます。江戸時代から明治の初めにかけては、当時は、皆歩きですから、このような細い道でも街道だったのです。」

(2)町並みと各店舗

 ア 町並みの様子

 魚成の町並みについて、Bさんから話を聞いた。
 「田穂側の最も西側には、食堂がありました。昭和30年(1955年)ころから5年ほど営業していたと思います。その東側には、商店が1、2軒あり、その向かいの山際は、麹(こうじ)店、その裏側は、大工さんでした。1軒おいて私の家、松本畳店です。昭和38年(1963年)、結婚を機にこの場所へ店を構えました。店の東隣は田んぼと倉庫でしたが、茶堂近くで料亭と運送業を経営されていた、城川運送さんが昭和50年(1975年)ころに私の店(松本畳店)の東隣に移転してきて、広い場所に車庫を構えました。料理屋の営業はやめられましたが、運送業は続けられています。その東側には金物店がありました。元は大工の仕事をされていたようで、主に大工道具を売っていたと思います。茶堂から小道を挟んで西隣には塩屋がありました。かつては塩の専売制度が厳しく、個人で売買することが難しかったこともあり、塩専業でも商売になっていたようです。茶堂の筋向かいは元旅館の一部で、私が昭和30年(1955年)から昭和38年(1963年)までいた所です。理髪店が入っていましたが、数年後にクリーニング店となりました。その西側には、森林組合の製材工場がありました。
 元旅館の東側には、兵頭自転車店がありました。この店は電器店でもあり、自転車と電気器具の両方を取り扱っていて、とても繁盛していたと思います。特に、テレビが発売されたころには大勢のお客さんで賑わっていたようです。さらに東へ行くと新聞販売店や鮮魚店がありました。鮮魚店は、料亭も営んでいて、建物を2階建てに改装して、宴会を行うことができるようにしていました。理髪店、傘屋、農協と続き、その東側の元銀行は、昭和30年(1955年)には銀行業務が行われていましたが、翌年にはなくなっていたと思います。店長さんと女性行員が1人いただけの小さな銀行だったことを憶えています。道路沿いを東へ行くと、魚成郵便局、同局長さん宅、文具店と続きます。道路を挟んで角にみどりやストアーがあり、お酒も販売されていました。その南側の川に面した所に公民館があり、電器店、菓子店、学校の西門と続いていました。学校敷地は、西側から中学校の校舎、その東隣が小学校1年生から3年生までが入る校舎で、その東隣りに、2階建ての本館があり、2階には5年生の教室が、1階には4年生の教室と職員室がありました。6年生は一番東側の校舎を使っていて、その南側の校舎は、かつての国民学校高等科の生徒が入る校舎でした。講堂は現在も残っていて、ボブソンの縫製工場が入っていた時期がありますが、現在も会社は変わりましたが縫製会社が入っています。東側の数軒の集落には、背広を扱っている紳士服店や戦前には鍛冶屋があり、昭和23年(1948年)ころまで営業していました(図表2-1-4参照)。」

 イ 魚成郵便局の様子

 昭和55年(1980年)から平成4年(1992年)まで魚成郵便局長を務められたAさんから、郵便局の様子や仕事について話を聞いた。

 (ア)郵便局への就職

 「魚成郵便局は、大正7年(1918年)に開業しました。昭和4年(1929年)からは集配業務も取り扱い、昭和62年(1987年)まで集配局でした。集配局は、各市町村に1局と定められたことから、旧城川町内では明治7年(1874年)から集配業務を取り扱っている土居郵便局が集配局として残ったのです。
 私は、昭和24年(1949年)に郵便局に入局しました。それより前は農事組合の技師として働いていましたが、父が高齢で『百姓がこたわん(できない)、もんてやれ(帰って〔農業を〕せよ)。』ということで、魚成へ帰りました。農業を営んでいたので食べるものには困りませんでしたが、現金収入がなく、何とかしなければと思っていたところ、昭和24年(1949年)に郵便局長さんから、『明日から郵便局に出てくるか。』と誘われて勤めるようになりました。
 郵便局に就職できたので農業の仕事は弟に任せて、私は郵便局の給料で生活していこうと決めました。そして、昭和55年(1980年)に魚成郵便局長を拝命しました。局長は一般職員よりも定年が5年長く65歳だったので、大正15年(1926年)生まれの私は、平成4年(1992年)まで郵便局の仕事を続けることができました。」

 (イ)外勤の様子

 「魚成郵便局では、内勤と外勤を分けず、外勤で地区内の事情をよく理解させ、事務仕事に向いている人を内勤として勤務させるようにしていました。私は外勤の仕事に1年ほど従事しました。外勤では、初任の局員は下相(おりあい)の担当を任されていました。下相へは自転車ではなく、歩いて行かなければならなかったのです。朝7時に出勤して、それから道順組み立て(郵便物を配達順に並べること)をして、7時半過ぎには、局を出発していました。配達する郵便物が少なく、道順組み立てが8時まで掛かってしまうことはありませんでした。今田(いまで)を通って下惣川(しもそうがわ)へ出て、ここから山を越えて、安家谷(やすけだに)へ行っていました。安家谷では、6番耕地と呼ばれる、川の向こう側に2軒から3軒の家がありましたが、当時は一番下(しも)にしか橋がなかったので、そこまで行って橋を渡り、上がって配達をし、又逆戻りしなくてはならなかったことを憶えています。道路を下りて広田、社神子(しゃみこ)、坂本での配達を済ませて、今度は、川沿いに奈良の木、杉之瀬(すぎのせ)を通って、今田へと帰っていました。今田の配達物は半分を残していたので、その配達を済ませて午後3時ころには、郵便局へ帰っていました。
 田穂や男河内(おんがわち)の方へ配達に行くには、自転車が使えました。田穂や中津川、蔭之地、古市が2区、男河内と成穂(なるほ)が3区と区割りされていて、3区の配達を午前中で終えて、午後からは市内(町中)の2号便の配達を行わなければなりませんでした。1区の下相だけ自転車が使えなかったのですが、1区自体が山道を越えるような所だったので、歩いて配達する方が適切だったのかもしれません。」

 (ウ)内勤事務の様子

 「私が郵便局で勤務を始めて1年経(た)ったころから内勤となりました。現在は、事務がコンピュータ化されていますが、当時は計算機といえば手回し計算機が使われていたくらいで、普段の計算はソロバンで行っていました。私はソロバンが上手だったかというと、自信はありませんが、仕事だったので慣れなければならないと思い、一生懸命に頑張りました。貯金証書を作るときには、チェックライターという機械が使われていたことを憶えています。」

 (エ)昇進

 「内勤で勤務しているうちに、京都の研修所に3か月、東京の中央研修所にも3か月行かせてもらいました。そのような研修を積み、昭和49年(1974年)には城川郵便局の局長代理となり、ここで職員ではなく、管理者となりました。昭和53年(1978年)に野村郵便局に配属となり、昭和55年に地元に帰って魚成郵便局の局長に就任しました。」

 ウ 畳店の様子

 畳店の仕事について、Bさんから話を聞いた。

 (ア)修行と出店

 「私は中学校を卒業した昭和27年(1952年)に、魚成地区にない商売は何か、ということを親に相談しました。魚成には古い畳屋さんがありましたが、代替わりの時期になっていることや、どこの家も戦前から戦後にかけて物資が不足していて、どの家も畳がボロボロになっているということで、畳店を営むことにしました。
 開店するに当たって泉(いずみ)村出目(いずめ)(現鬼北町)へ3年間の修業に行きました。同級生で同じく修業をしていた人が3名いましたが、親方さんから、『1日でも早く修行を終えて帰ったら、その地区を牛耳ることができるから。』と言われ、他(ほか)の人よりも1か月半くらい早く修行を終わらせてくれました。そのお陰もあって、親方が話された通りに城川では一番になることができたのです。他の人が修行を終えて城川町内で商売を始めても、私の方に先に注文が入るようになっていたので、今でも親方には恩を感じています。
 修行を終えた私は、当時休業していた旅館の一部を借り受けて、昭和30年(1955年)の正月から畳店の営業を開始しました。昭和38年(1963年)、結婚した時に、現在地に移りました。このとき、前の魚成郵便局の局舎を移築して作業所として使い始めました。この建物は、現在の建物に建て直すため、昭和53年(1978年)に取り壊されました。」

 (イ)畳屋の商売の様子

 「昭和30年代には、城川町内に畳屋がなかったので、城川一円が商圏となっていました。仕事で各家庭に行くと、食事は出してもらうし、遠い所ではその家の方から『泊まっていけや。』とまで言われていました。最初は自転車しかなかったので、新しい畳を配達することができず店先渡しで、お客さんに運んでもらっていました。お客さんも車を持っていない人が多かったので、農協に頼んで運んでもらっていたようです。表替えのときは、自転車で畳表を持って行き、作業を行っていました。開業して3年くらいでオートバイを購入しました。オートバイは、長いものは積むことができないのですが、リヤカーのような車に畳を縦に積んで、それを牽引(けんいん)して運んでいたことを憶えています。その後、昭和38年(1963年)ころには、運搬用の軽トラックを購入しました。」

 (ウ)愛用の道具、機械

 「畳の端を切り落とすための包丁は、大切に使わなければならない道具の一つです。昭和45年(1970年)ころから使っている包丁は、研いでいくうちに小さくなってしまいました(写真2-1-2参照)。また、昭和30年(1955年)の開店の時から使っていた台も残っています。当時は座って手作業での仕事だったため、台の高さが30cmくらいしかありません。今は、立って作業をするので高さが50cmくらいはあると思います。
 昔ながらの手縫いをするときの当て布を『手皮』と言います。今でも畳の四隅を縫うときに使う場合があります(写真2-1-3参照)。昭和45年(1970年)ころからは、まがり針を使ってかがり縫いをする機械と、真っ直ぐ(まっすぐ)の針で縫うミシン差しという機械が入りましたが、それまでは全て『手皮』が使われていました。」

 (エ)仕事のペース

 「畳を仕上げるのに、宇和島の職人さんで1日に6枚くらいしかできなかったと聞いています。表替えだけであれば古い畳表を外して、新しい畳表を合わせる作業なので、1日に20枚くらいはできると思います。ただ、普通は1日に10枚から12枚くらいのもので、職人は、お昼の弁当も作りかけの畳の上で食べて、食べ終えると休む間もなくすぐに作業に取り掛かるくらい詰めて仕事に取り組んでいました。歩合で給料が決まるので、1日に20枚くらいは仕上げなければならなかったのでしょう。私は、人に雇われて仕事をしていたわけではないため、身体がしんどければ1日に4枚くらい仕上げ、表替えであれば10枚までにしていました。ゆっくりと、それほど忙(せわ)しい時代でもなかったので、それで十分商売になっていました。本当に良い時代だったと思います。」

 エ 自転車店の様子

 自転車店を経営されていたCさんから、店舗の様子について話を聞いた。

 (ア)戦前からの自転車店の始まり

 「私の父は、私が生まれる2、3年前(昭和14年〔1939年〕ころ)に自転車店を開業したと聞いています。私が生まれたときには父は戦争に行って留守だったので、母が子守をしながら店を経営していたそうです。戦争中には、アメリカ軍の爆撃機5、6機が宇和島方面へ飛んで行くのを見て、郵便局の地下にあった防空壕(ごう)へ急いで逃げ込んだことを憶えています。そのとき、一緒に防空壕に入っていた男性が、『もう、これ、負けたのぉ。』と呟(つぶや)いたことが印象に残っています。
 戦争が終わり、私が6歳のときに父が戦地から帰って来ました。それから3年くらい経った昭和25年(1950年)ころに、店舗が現在地に移転しました。」

 (イ)良く売れたオートバイ

 「昭和40年(1965年)ころにはオートバイを保管しておく倉庫を建てて、20台から30台の新車を在庫として保管していました。
 昭和40年ころになると、オートバイのブームが到来し、一気に売れるようになりました。お客さんが頻繁に店に来て、オートバイを品定めしていくので、少しでも早く現物を倉庫から出して見てもらうことができるように、倉庫には鍵を掛けていませんでした。『隣の人が買うたけん、わしにもくれや。』と言って買いに来る人がいたほどで、1日に3、4台売れることがあり、月平均にすると10台は売っていたと思います。野村で店を経営する方が、年間で200台のオートバイを販売して表彰されたころに、私はその半分、年間で100台くらいは売っていたと思います。面白いように売れていて、高度成長期であることを実感することができていました。しかし、当時は修理の依頼が多くありました。『ミッションが壊れた。』など、多種多様な修理が求められたことを憶えています。修理道具を使ってエンジンなどを分解し、修理に必要な部品がないときには、代用品を使って応急修理をしていたことを憶えています(写真2-1-4参照)。
 また、オートバイは縫製工場で働く女性従業員の通勤用としても売れていました。当時、工場には40人から50人の女性従業員がいて、その多くがオートバイで通勤をしていたので、工場の駐輪スペースには私の店で販売したオートバイが並んでいました。あるとき、工場長が私に、『自転車小屋を作らないけんのぉ。雨が降るけん。』と話し掛けてきたので、『屋根のトタンぐらいは寄付してあげるけんなぁ。』と冗談で返したことを憶えています。」

 (ウ)電器店を兼ねた自転車店

 「私は若いころに宇和島の商業専門学校で学んだり、松山(まつやま)の自転車店で修業をしたりしました。そのころはテレビが発売され始めたころで、世間では、『これからは電器業界が良くなるぞ。』と言われていたので、電気機器について学んでおこうと思い、松山にあった四国電波専門学校(昭和27年〔1952年〕から昭和37年〔1962年〕まで存続)へ入学しました。専門学校を卒業して魚成へ帰って来たころから白黒テレビが売れ始め、皇太子の結婚式やオリンピックなど、大きなイベントが契機となって、私の店ではテレビもたくさん売れるようになりました。しかし、テレビは売れますが、この辺りには電波の中継所や送信所がなく、電波が届いていませんでした。大分県から出されていた電波が山の頂上では受信できたので、向かいの山に受信用のアンテナを立て、そこから集落まで、長いものでは2kmもの線を引っ張ってきて、5戸、10戸と集落単位に共同視聴を行っていたことを憶えています。
 当時はテレビだけではなく、洗濯機や電気釜、掃除機などもよく売れていて、城川町一帯、高野子や野井川にもお客さんがいました。電気機器販売を行っていた当時に使っていたテスターが今でも残っています。電波専門学校のときから使っているもので、60年ほどになる愛用品ですが、当時を思い起こさせてくれる大切な道具です(写真2-1-5参照)。」

図表2-1-2 終戦前後の旭町

図表2-1-2 終戦前後の旭町

Bさんからの聞き取りにより作成。主な建物のみ表示している。

図表2-1-4 魚成旭町の町並み(昭和40年ころ)

図表2-1-4 魚成旭町の町並み(昭和40年ころ)

地域の方々からの聞き取りにより作成。

写真2-1-2 畳用の包丁

写真2-1-2 畳用の包丁

あまり使われていない包丁(右手側)と、昭和45年から使っている包丁(左手側)。平成30年6月撮影

写真2-1-3 手皮を使う時の様子

写真2-1-3 手皮を使う時の様子

平成30年6月撮影

写真2-1-4 オートバイの修理道具

写真2-1-4 オートバイの修理道具

平成30年6月撮影

写真2-1-5 今も残る「テスター」

写真2-1-5 今も残る「テスター」

平成30年6月撮影