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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業11-鬼北町-(平成28年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

第1節 下鍵山「幸田町」の町並み

 旧日吉村の中心集落であった下鍵山は、鍵山川と日向谷(ひゅうがい)川の合流点に位置し、周りを御在所(ございしょ)山などの山に囲まれた街村形態の集落である。はじめ宇和島藩領に属し、鍵山村という村名であったが、明暦3年(1657年)に吉田(よしだ)藩領に属した時に上鍵山(かみかぎやま)村と下鍵山村に分村した。明治22年(1889年)の市制町村制施行により、翌23年(1890年)に父野川(ちちのかわ)・上大野(かみおおの)・下鍵山・上鍵山・日向谷の5か村が合併して日吉村が誕生してからは、日吉村下鍵山となった。
 この下鍵山を交通の要衝として捉え、道路の開設のみならず市街地の形成を行ったのは、日吉村初代村長井谷正命氏である。市街地が形成される以前の日吉村の状況について、井谷氏自身が『日吉村誌下巻』に次のように記述している。「本村は、古来世間からは大山奥と呼ばれていた。四面、山をもって囲まれ桃源の別天地として幾千年を経過してきたので他郷との交通も少なく、もちろん当時村内の道路は、わずかに人馬の通行がやっとできる程度であった(①)…。」
 しかし、明治35年(1902年)に、須崎-宇和島間の里道日吉線が、日吉村と宇和島町(現宇和島市)の両方から着工されることが決定してから状況は一変した。下鍵山が村の中心地であり、将来、大洲・城川(しろかわ)(現西予市城川町)方面への道路の分岐点となると考えられるようになったのである。井谷氏は、下鍵山に日吉村の中心集落を形成することを決意し、自己の所有地に道路に沿って家屋を建設していった。
 その後、大正2年(1913年)に宇和島-日吉間の道路が開設され、大正3年(1914年)から大洲・城川方面へ、大正4年(1915年)から父野川方面へそれぞれ道路建設が始まると、交通の要衝となった下鍵山は新興市街地としての賑(にぎ)わいを見せはじめた。さらに、昭和4年(1929年)の土佐梼原(とさゆすはら)(現高知県高岡(たかおか)郡梼原町)への県道開通や大正11年(1922年)の和田自動車・四国自動車の乗合バス運行開始、昭和11年(1936年)の国営自動車南予線の運行開始は、下鍵山の道路交通の要衝としての機能をさらに高めさせた。こうして下鍵山は、山間地の物資の集散地・中継地としての機能も有するようになり、いつしか「幸田町」と称せられるようになった。
 このように日吉村の発展に努めながら、井谷氏は教育にも尽力している。私財を投じて日吉実業学校を設立して自ら教鞭をとり、村の子どもたちに教育を施した。また、当時歴史の中に埋もれていた武左衛門(ぶざえもん)について調査研究を行うとともに、武左衛門の供養を自ら行うなど、顕彰事業にも力を入れた。井谷氏は、自らの生き方を武左衛門の生き方に重ね、「吾こそは貧しくなるも吾が郷の栄えゆくこそ楽しかりける」という句を詠んでいる。井谷氏の偉業は人々によって現在まで語り伝えられ、明星ヶ丘には井谷氏の顕彰碑と歌碑が建てられている(写真1-1-2参照)。なお、大正11年(1922年)に四国最初のメーデーを挙行し、下鍵山に「明星ヶ丘我等の村」をつくった社会党衆議院議員井谷正吉氏は、彼の長男である。
 本節では、昭和30年代を中心とする下鍵山の町並みと人々のくらしについて、旧日吉村で教育長や助役等を歴任されたAさん(昭和16年生まれ)から話を聞いた。

写真1-1-2 井谷正命先生頌徳碑と歌碑

写真1-1-2 井谷正命先生頌徳碑と歌碑

鬼北町。平成28年10月撮影