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瀬戸内の島々の生活文化(平成3年度)

(2)移り変わりの激しい農業への取り組み

 ア 食糧生産最優先の時代

 戦前から戦後にかけてのしばらくの間、我が国の農業施策はひっ迫した国民食糧の確保が第一義であり、それを目指した緊急措置が次々と打ち出されていった。とくに戦時体制が一段と強化された昭和16年には、国の総合的な食糧増産計画に基づき「愛媛県農作物作付制限規則」を制定して、農地に果樹・クワ・竹類・庭木を新植することを禁止した。また、水田の夏作には、イネ以外の作物、畑にはスイカ・メロン・花き・イチゴの栽培を禁止するなど、国の割り当てによる作物か自家用を除いて、田の作付けはコメ・ムギ、畑はサツマイモ・ムギ・タマネギ等の食糧作物に限定された。
 終戦を迎えた昭和20年は、全国的にコメの不作年で、戦前の50%を割る結果となり、海外からの輸入も思うにまかせず、食糧需給は最悪の状態にあった。
 農業県と言われていた本県にあっても、大都市ほどではなかったにしろ、かなり深刻な状態に置かれ、国が定めている食糧管理制度の大人1日当たりの配給基準2合1勺(291g)の需給が間に合わず、食糧の配給は遅配・欠配が続く状況であった。
 しかも、この食糧はコメ半分、あとの半分はムギ・サツマイモ・雑穀が支給されていただけなので、他に食べる物のない消費者の空腹感はつのる一方であった。敗戦による国民意識の変化や政府指導力の低下、厳しかった統制への反発なども重なり合って、食糧の集荷実績は上がらず、食糧と衣類との物々交換、闇米の横行など、食糧不足がもたらす悲喜劇は日常茶飯時の出来事であった。
 このような食糧事情に対処するため、農家の食糧生産には「供出割当制度」がとられており、戦後の一時期の食糧管理には、占領軍指令部の指示監督によって、かなり厳しい供出が強行されていた。食糧確保のためのいわゆる「強権発動措置」が取られたのも、そのころのことである。幸いにして、昭和21年産の米作は豊作で、食糧の配給量もこれまでよりいくらか上乗せでき、終戦直後の危機を、ひとまず脱出することができた。
 昭和23~24年に至ると、戦地からの復員による農業労働力も充実し、農業生産も次第に落ち着きを取り戻してきた。供出制度も当初の事前割り当てから、事後割り当てに変わるなど、食糧の配給にも遅配・欠配がみられなくなった。昭和24年度の愛媛県における主要食糧作物の生産・供出割り当てとその実績をみると、米についてはおよそ125,000tの生産実績に対し、ほぼ割り当て量に近い45,000tを供出し、その他の作物も目標に近い線で供出が行われている。また全国的にも、需給がかなり安定してきたので、配給基準量も昭和23年11月からは、大人一人当たり385gに引き上げられるなど、好転の兆しが強まってきた(⑥)。

 イ 祖父から贈られたミカン園

 **さんが農業を継いだのは、危機状態の食糧事情に、ほのかに明かりが見え始めたころである。当時彼の家では、水田20a、畑90aのほか、およそ20aのミカン園があり、コメをはじめ除虫菊・葉タバコ・サツマイモ・雑穀・ミカンなど島で作られているほとんどの作物を栽培する多角経営農家であった。
 各島の村々においても、食糧増産当時の供出割り当ては当然であり、県・市町村を経て割り当てられた供出量は、当時の集落ごとに組織されていた農事組合に指示され、各集落役員の協議によって農家ごとの割り当て量が決定されたのである。供出割り当ては、各農家の所有する耕地面積から、自分の家で消費する、一定基準量の食糧を差し引いて割り当てるという方法がとられていたので、主食以外の作物を作っている農家には、かなり厳しい措置であった。
 彼の家には前述のように、およそ20aあまりのミカン園があった。昭和19年に公布された「果樹統制令」で、ミカンは「不急作物」と認定され、地方長官命令によって、現在農家が作っているミカン園の2割伐採を指示されたのである。食糧が足りない増産時代に、ミカン畑をもっている農家は、白い眼で見られることあった。しかし彼の父も彼も、指示された2割のミカンの木は切っても、それ以上の木には、手を触れなかった。というのは、このミカンの木は、孫たちに対する祖父からの贈り物であったからである。
 彼の家のミカンは、昭和5年に植え付けられたが、当時のミカンは、盛口村(現上浦町)ではまだ珍しい作物であった。当時、祖父は「いいだ」と呼ばれる、桶のタガ(竹輪)掛け職人をしていた。この「いいだ」という職人は、大正期から昭和の戦前にかけて、井口集落で30人くらいはいたと言われ、農閑期になると数人が組を作って、中四国一帯の村々を渡り歩き、古くなった桶のタガを新しいタガと取り替える竹細工の仕事を内職とした。しかし「いいだ」と呼ばれる職人も、木桶に変わってポリ容器が出現し始めてから、ほとんど姿を消し、いまでは地元にあってもその存在を知る人は少ない。
 祖父が、タガ掛け職人をしていた渡り先は、岡山県が中心である。その出稼ぎ先で出会ったみかんの苗木を大切に持ち帰り、「孫が喜ぶから」と植え付けたのが**さんの家におけるミカン栽培の始まりであった。そして父も、祖父の心を受け継いでこの木を大切に育てきた。いくら時代の要請であっても、この木を全部切ってしまうことは、祖父から孫への、温かい思いやりを消してしまうことになる。家を受け継いだ父も、そして彼も、経済面からだけでなく、この祖父のぬくもりを切るに忍びなかった。
 したがって、ミカン園まで含めた面積割りの食糧供出量をこなすために、麦・サツマイモの食用作物と、除虫菊・葉タバコなどの工芸作物を、うまく組み合わせて輪作を行い、土地の利用度を高めた。一方では、当時、家で農耕用に飼育していた馬のきゅう肥を大量に施して畑を耕し、増収を図るなどして、食糧の生産には穴が空かないように努めた。
 この果樹統制も、昭和22年10月からは解除され、彼が経営を担当した昭和23~24年ころになると、食糧生産も次第に戦前の水準にまで回復して、ひところまでの供出の強化は見られなくなってきた。また、そのころから再び、換金作物作りへの掛け声が次第に高まってきて、戦後の農業の新しい芽吹きがあらわになってきた。
 昭和26年に迎えた、新婦**さんとの結婚も、**家や彼に訪れた春の喜びである。学校を卒業してから、ずっと家庭で家事や農作業を手伝っていた彼女には、農業や農家生活が何であるかを十分心得ていた。それに同じ地元同士で、子供のころからよく知りあっていた安心感も手伝って、すんなり新しい家族の一員に溶け込むことができた。農家生活にあっては、夫婦そろって農業に携わることは、栽培作物の構成からみても大切な要件であり、**さんもまた、良き伴侶を得て農業に生きる自身を深めたのである。