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瀬戸内の島々の生活文化(平成3年度)

2 アカマツ林の変遷

(1)縄文時代末期から中世までの照葉樹林の破壊とアカマツ林の拡大

 このような環境の中で、縄文時代は発展期を迎えた。一般的には、森林の破壊の主たる原因は、燃料や建設用材のための伐採および農耕地拡大のための山焼きが考えられる。照葉樹林は、萌芽力がつよく、伐採後直ちに萌芽再生するので、軽度の伐採ではアカマツ二次林には移行しない。しかし、頻繁(ひんぱん)な伐採や皆伐(かいばつ)して火を入れるなどをすると、土壌が乾燥しさらに土壌が流失して、照葉樹林の回復は非常に困難となる。このような立地にはアカマツ二次林が成立することになる。瀬戸内海の多くの島々のように、花こう岩地帯では土壌の流失は著しく、アカマツ二次林が成立しやすい。アカマツ林は、さらに伐採や落葉落枝、表土の搾取(さくしゅ)、山火事などを受けると、アカマツの低木の疎林となり、さらにはススキなどの草地やはげ山となる。瀬戸内沿岸部において、アカマツ林の分類や形成については森林生態学から多くの報告がある。また山野が荒廃する過程については、千葉徳爾の名著『はげ山の研究』がある(⑦)。
 西日本では、縄文時代前期(6,500年前~5,000年前)以降、農耕を示す花粉分析の結果が得られている。縄文時代後期(4,000年前~3,000年前)・晩期(3,000年前~2,300年前)の幾つかの遺跡の資料から、二葉マツ亜属の出現が増加し、またカナムグラ属・アカメガシワ属・クワ科・ブドウ属などの畑雑草が多く出現することにより、遺跡周辺の照葉樹林がさかんに焼き払われて雑穀焼畑農耕をおこなっていたことがうかがえる(③)。香川県坂出市与島の塩浜遺跡では、二葉マツ亜属が30%近い出現率を示し、人間のインパクトによって森林が破壊されたことを示唆(しさ)している(⑧)。
 大陸から伝えられた稲作は、縄文時代の末期に九州をへて瀬戸内に伝わり、弥生時代になると各地で盛んに行われている。また農耕にしても燃料や建設用材の使用にしても、人口の増加とともに大規模になる。遺跡数をもとにした全国の古人口の推定では、【縄文早期:21,900人】、【縄文前期:10,600人】、【縄文中期:262,500人】、【縄文後期:161,000人】、【弥生時代:601,500人】、【古墳時代:5,399,800人】、【江戸時代:25,633,100人】となっている(⑨)。つまり、弥生時代になって人口が急増し、古墳時代になって飛躍的に増加している。これらの点から、原生の照葉樹林は、古くから遺跡周辺において虫食い的に破壊されていたが、縄文時代の末期から弥生時代にかけて破壊の面積は急増したと考えられる。弥生時代前期(2,300年前~2,100年前)には、集落の位置する平野は大部分が人々の生活の場となっていたであろうし、弥生時代中期~後期には生活の場は山裾から平野を取り巻く山地の上部まで及んでいたであろう。
 しかしこれは比較的規模の大きい集落の周辺のことで、それ以外の部分、とくに急斜面の沿岸部や奥山の谷沿いでは、まったく手つかずとはいえなくとも照葉樹林が残存していたであろう。当時の様子を知る手掛かりは少ないが、『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』には次のような記載がある。『……倭の地には温暖、冬夏生菜を食す。……其の木には、枏、杼、豫樟、楺、櫪、投、橿、鳥號、楓香有り。……』。この史料は、古代中国の文書で、中国人が見た3世紀ころの日本の事情について書かれたものである。ここに登場する植物名について、枏はタブノキ、杼はコナラ属、豫樟はクスノキ、楺はクサボケ、櫪はクメギ、投はカヤ、橿はイチイガシ、鳥號はカカツガユ、楓香はカエデ属という解釈がある。この記録が西日本のどの部分かは別にして、マツが含まれていないことが注目される。樹種から推量すれば、魏から派遣された使者が見聞した風景は照葉樹林であり、マツは目立つものではなかったという解釈がある(⑩)。
 その後、江戸時代にいたるまで、島々の林は荒廃する一方で、照葉樹林は少なくなりアカマツ林が拡大し、アカマツ林がさらに荒廃して疎林やはげ山が目立つようになったと考えられるが、それを記したものはすくない。『中島町誌(⑪)』によれば、「三代実録」に貞観18年(876年)に忽那島(中島)では、放牧した牛馬が増え過ぎて、水や草が不足して農作物に被害が出ていることを訴えている。この事は、中島では奈良時代以来、放牧地の開発がされたことを物語っている。
 ところで、クスノキの自生については、「本州(関東以南)・九州に自生し、かつ広く栽植される。(⑫)」という考えと、「日本では本州・四国・九州の暖地に見られるが、野生かどうかわからない。中国江南地方の原産ともいわれるがこれもはっきりしない(⑬)」・「日本の洪積世・鮮新世から遺体は報告されていないが、沖積層から報告されている。現世に近く中国から分布したと考えられている。琉球には徳之島の野生らしいものがあるほかは野生しないという。京都では、栽培されたものから、ヒヨドリなどの小鳥によって種子が散布されて野生状態となっている。京都府以南のものは野生かもしれない(⑭)」という考えがある。古照(こでら)遺跡などでクスノキの遺体が出土しており、また、「魏志倭人伝」のクスノキの記載や「神代巻」「古事記」などに見られるように、クスノキは古代の重要な船材たったことから、明らかに、古くから西日本に自生(自生状態)していたものである(⑮⑯)。ただ、多くの照葉樹林が南方から分布を拡大したのとは異なり、中国大陸から渡来したものであろう。
 さて、現存の社叢林の資料から、照葉樹林の樹木の種組成を考えると、ヤブツバキ・ネズミモチ・ヒサカキ・ヤブニッケイ・シロダモ・ソヨゴ・クロガネモチ・カクレミノ・サカキ・アラカシ・モチノキ・モッコク・ヤマモモ・ミミズバイ・タイミンタチバナ・ヤマモガシ・カゴノキ・イズセンリョウ・イヌマキなどの現存の照葉樹林の常在種に加えて、現在では東・中予の社叢林にまれに分布しているミサオノキ・バクチノキ・イチイガシ・クスドイゲ・コバンモチ・ルリミノキ・トキワガキ・タブノキ・カンザブロウノキ・イスノキ・ヤマビワ・カカツガユ・ツルコウジ・イワガネ・オガタマノキ・ナギ・(ケナシ)アオギリ・オオバグミなどが出現していたであろう。さらに一時期、気温が2℃ほど高かったことから、現在では県内の分布が南予方面に限定されているアコウ・サザンカ・ハドノキ・モクタチバナ・ハマビワなどや、県内に各1ヵ所しか分布していないハナカガシ・オオカナメモチ・ナタオレノキが点在していた可能性もある。
 しかし、島しょ部の広くは花こう岩地であり、尾根筋や頂上部には露岩が見られる。その一部は巨石遺跡や磐座跡(いわくらあと)と考えられているが、これら稜線部の露岩地帯は、後の人為的な森林破壊でできたものではなく、太古から自然の侵食で形成されたものであろう。すると、そこには照葉樹林ではなく、アカマツの自然林が発達していたと考えられる。このアカマツ自然林は、山の上部斜面にも広がっていたと思われる。

(2)近世におけるアカマツ林の拡大

 近世になると、島しょ部の山野の様子をうかがい知る記載が多くなるが、いずれも山野が甚だしく荒廃していることを記している。
 『上浦町誌(⑰)』によれば、「一生記」に、一帯では薪が不足したためにシダや松葉を買い付けたことが記されている。燃料を船で買い付けることは、よほど燃料に困窮したことであり、近在に薪を採取するための林すらなくなったことを示唆している。また同誌によれば、「旧記」に、上浦町内での藩林の様子が記されている。藩政時代の藩林が各村毎に計15か所設定されているが、その樹種は松林が14か所、松・雑木林が8か所、その他不明となっている。一般に、藩林は比較的奥山で良材がとれる山林が設定され、藩林以外の山野は入会地としてかなり荒れ果てている場合が多い。したがって、当時の高木のまとまって生育している林としては、照葉樹林やスギ・ヒノキ植林ではなくて、マツ林かマツの混生した雑木林であると推定される。また同誌には、北面はほとんどはげ山だったので、元禄2年(1689年)に、藩が17か村の山々に植林をしたことが記されており、さらに文化年間(1804~1817年)には、甘崎の庄屋が、他の村々の庄屋と書簡を交わし、植林の情報を得ていることも記されている。
 『中島町(⑪)』によれば、由利島は惣(そう)山・草山と呼ばれ、昔から二神島の住民にとって肥料を採取する肥(こえ)草山だった。その他、二子島などの無人の小島は、いずれも入会(いりあい)地として存在しており、島の大部分では林は存在せず草地だったと考えられる。
 以上からうかがえることは、藩政時代の島しょ部の山野は、かなりの部分がはげ山など荒廃地や草地であり、林は部分的に発達していたことが想定できる。また、その林は主としてアカマツ・クロマツ林であり、一部にはマツの混生する雑木林が見られ、照葉樹林は存在したとしても、取るに足らない程度しかなかったと考えられる。しかし、荒廃地とアカマツ林の割合は、島によって多少は異なっていたであろう。例えば、弓削島では、中世から東寺の荘園として盛んに製塩が行われていたが、その燃料として大量のマツを確保するため、島の山林は塩木山(しおきやま)として厳重に保護されていた(⑱)。
 ところで、林の多くを占めるマツ林について、その質的な状態については、直接記されたものはない。質的な状態とは、(裸地→)マツ陽生(典型)林→マツ陰生林→マツ・照葉樹混生林(→照葉樹林)という遷移段階のことで、遷移が進行するにつれて林内の種組成が変化する。さて、マツ林の質的な状態を判断するためには、マツタケの産量が有効な手掛かりとなる(⑲)。マツタケは、樹齢約20年生から60年生のマツ林で発生をし、最盛期は樹齢30年生から50年生の期間で、林内に腐葉(ふよう)層が堆積したり、潅(かん)木が茂ってくると発生を停止する。つまり、マツタケの発生時期は、マツ林の陽生(典型)林の状態のみである。
 『岩城村誌(⑳)』によれば、享保20年(1735年)の「従御公儀御尋物品々」において、〝越智嶋(おちじま)〟の諸産物を詳細に列挙している。その中に、「材には、アカマツ・クロマツ・エノキ・ムクノキ・クスノキなどがあり」と記載されているが、菌類には、ハツタケ・ベニタケ・ムクタケ・イクチタケのみが記載されておりマツタケは記されていない。マツタケは古来よりもっとも珍重されているキノコであり、ある程度生育しておれば当然、産物として書かれたであろう。
 また、『中島町誌(⑪)』によれば、安永5年(1776年)の「懐中万年鏡(かいちゅうまんねんきょう)」に、同地域に植松山が数多く存在すると記されているが、「大洲秘録(おおずひろく)」の中島町の産物にはマツタケは書かれていない。また弘化3年(1846年)の「二神村諸産物人別約帳」にもマツタケは見当たらない。これらの点から、藩政時代には、島しょ部にはマツ林が発達していたものの、多くのマツ林は、マツの低木林か、かなり荒廃したマツ林だったと考えられる。
 このように荒廃した山野は、保水力は低く、大雨が降れば河川はたちまち洪水となって下流の田畑や民家を襲い、また剥(む)き出しの斜面の土壌を流して、下流の河川の川床を高くする。するとますます洪水が生じやすくなる。山野の保水力が低いため、日照りになると河川は干上がり干ばつとなる。『藝豫叢島史(げいよそうとうし)(⑮)』には、大三島での山野の荒廃による被害発生について次のように記している。「(以下抜粋し要約)元禄元年(1688年)に松山藩奉行林源太兵衛が植林のために来島した。それほどに島の山々は禿(は)げてしまっていた。……宝永2年(1705年)には、江戸楓(かえで)山の藩邸普請(ふしん)のために、伯方島・弓削島・岩城島などでは御用銀のため御林が残らず伐採されたが、大三島には御用銀に立てかえるほどの林がなかった。……享保2年(1717年)には、大雨が降り、たちまち洪水となって各村々のほとんどの川が決壊した。……享保7年にもまた洪水があり、大山祇神社の境内にも土砂が流入し諸木が枯死に瀕した。……一般の河川では瀬掘りという河床掘りの作業が進められた。これは年々のおびただしい流砂と洪水に備えるためであるが、大量の土砂が年々流れ出た。そのために山は年々痩(や)せていくが、河川の堤防は年々高くなって、ついには巨大な天井川を形成した。島民はたびたびの洪水におびえながら、しかも一方では、わずかな日照りにも水不足になやまされた。享保9年にはまれにみる大干ばつで、島内だけで11町歩の水田が植え付けを放棄した。……享保14年には、干ばつと強風が同時に襲ったため農作物は枯死した。享保17年には史上有名な享保の大飢饉となった。」
 年貢(ねんぐ)収入にたよる藩にとっては、治水のための治山は重要な施策となる。そのため瀬戸内の島しょ部を持つ今治藩や松山藩では、厳重な林野管理を行っている。『続伊予岩城島の歴史(⑯)』によれば、御山奉行の管理する御林山はもとより、農民の私有林(自分山)にさえも細かな規制がなされており、文化11年(1814年)の「徳五郎庄屋日記」では、自分の山でも伐採・下伐(したぎり)・落枝の拾いも届け出がいると書かれてあり、安永5年(1776年)の「覚控書」では屋敷内の枯れたエノキ1本の伐採願いが記されている。
 以上で述べたように、藩政時代の瀬戸内島しょ部の景観は、はげ山と荒廃したマツ林で特徴づけられる。シーボルトの『江戸参府紀行』には、瀬戸内の島々の様子を「雨が降ったように白く見える」とはげ山の多い事を書いている(⑲)。

(3)明治時代の禿(は)げ山の拡大

 明治時代になると、藩の林野管理が消滅し、山野の荒廃はさらにひどくなったようである。『愛媛県史 地誌Ⅱ(㉑)』には、当時の様子が次のように記されている。「越智郡の島しょ部の5万分の1の地形図の初版は明治31年に測図され、同35年に製版されている。この地形図をみると、大三島をはじめ、岩城島・生名島など越智諸島から上島諸島にかけての山地には、流土・崩土の記号や、はいまつ地の記号が至るところに見られる。これらはいわゆるはげ山であり、当時樹木を欠く白い島として瀬戸内海を航行する船の目印になったほどである。はげ山は明治末期に頂点に達していたが、その形成要因は樹木の乱伐と花こう岩からなる地質構造に求められる。(略)明治末年の写真をみると、大三島の宮浦・井口・甘崎・瀬戸などの花こう岩地帯の山地は、その中腹以上のところはほとんど樹木を欠いたはげ山であり、樹木は谷底や中腹以下の山地にしか見られない。明治年間には貧農は朝の暗がりからモッコをかついで、一日分の焚(た)き物を山に取りに行くのが日課であったという。山林を所有しない貧農に許された焚き物の採取は、枯れ木と落ち葉、松かさなどに限られていたので、山地には落ち葉はほとんどなく、極度にやせ地になっていたという。10cmより長いシダは、立木地内には皆無であったという。」
 大三島では山野の荒廃はとくに深刻で、川は多くが天井川となり、大正9年には川底の下にコンクリートの隧(ずい)道を作り生活の便をはかっている。地元の小学生が作文に「川とは屋根より高い所を流れるものである。」と書いて話題になったころである。
 このように明治時代にますます深刻となった林野の荒廃は、全国的な傾向だった。そのため各地で洪水が発生し治水が緊急の課題となった。そこで明治の終わりには、瀬戸内の多くの地域で大規模な植林が開始された。越智諸島では、明治42年にハゲシバリ(ヤシャブシ類)・クロマツの植林が始まった。大三島では、クロマツとヤシャブシ類(オオバヤシャブシ・ヒメヤシャブシ)を1m間隔で交互に植える方法をとった。植林地は保安林に指定され、入山が規制され、伐採・落葉などの採取も禁止された。しかし、後には、各地区毎に取り決めして、毎年、決められた時期に限られた人が、枯れ松や松葉を採取していたようである。植林10年後くらいから山肌が緑で覆われ、洪水も減少した。ところで、年月がたつにつれて、植栽木でないアカマツが目立つようになった。これは、植栽後、2~3年するとアカマツが侵入し、一方、次第にクロマツの生長が止まり、ヤシャブシ類も生育不良となって、やがてアカマツが他の植栽木を凌駕(りようが)するようになるからだ(㉒)。
 ところで、『伯方町誌(㉓)』によれば、同町の伊方地区では、昭和5年に奥山(字亀甲奥)への入山が禁止され、マツタケの採取が入札制になっている。この処置は、おそらくマツタケが多く産するようになったためと考えられる。これは明治末期に植林したマツ林や、当時、低木だったマツ林が、保安林などに指定されたために乱伐からまぬがれ、しだいに成長して、昭和の初期にマツタケの発生に適した20年生前後に達したためと考えられる。図2-2-3に、愛媛県におけるマツタケ産量の変化を示してあるが、これによれば、昭和初期のマツタケ産量の増加は明瞭である。マツタケ産量の増加は全県的な現象であるが、ちょうどこの時期が県内各地においてマツ林の回復期にあたり、また定期的に松葉の採取などの適度の人為的攪乱(かくらん)もあって、マツタケの発生に好都合の環境が持続したのであろう。マツタケの発生するマツ林とは、高木層をアカマツが優占し林内の潅木の出現が少なく見通しがきき、マツ林としてはもっとも美しい状態と思われる。マツタケの産量は、戦時中の数量が不明ながら、おおむね昭和30年ぐらいまで継続した。この期間は、マツ林に対する人為的な圧迫が続いており、照葉樹林への遷移(せんい)はたいして進行しなかったのであろう。

(4)アカマツ林の減少と照葉樹林の回復およびミカン果樹園の拡大

 ところで、マツタケ産量の減少の原因として、上記でアカマツ林の質的な変化を指摘したが、同時にアカマツ林を開墾してミカン園に転換したことも挙げられる。実は多くの地域で後者の方が大きな要因となっているようである。
 ミカン栽培の歴史は古いが、栽培面積が増加したのは昭和に入ってからであり、とくに昭和30年代から急増している。日々の食料さえ欠乏した時代には、ミカン栽培は植え付けの翌年から収入があるわけではないので山野を開墾してミカン園とした。ミカン園は、しだいに山の山頂に向かって広がり、その後、畑や傾斜地の水田などもミカン園に転換している。中島町のミカン園の分布図によると、明治36年(1903年)には大浦・睦月などの沿岸部に一部みられるのみであるが、昭和47年には各島ともほぼ全域がミカン園となっている(㉔)。ミカン園の拡大は、島しょ部における新たな景観の出現である。
 昭和30年代になると、マツタケの産量は急減し、昭和40年代にはごくわずかとなっており、この時期に、マツ林はマツタケの発生に適しない状態になっている。これは、松葉や薪(たきぎ)にかわって、石油・プロパンガス・電気が使われ始めたことで、マツ林が放置され、遷移が進行して照葉樹が林内に生育したためである。昭和50年ころになると、アカマツ林内の照葉樹林は亜高木層まで成長していたが、昭和40年代半ばから発生した松枯れによって島しょ部のマツの多くが枯れてしまった。そして、高木層を優占していたアカマツが欠けたあとは、亜高木層の照葉樹が樹冠(じゅかん)を構成することになる。こうして、昭和50年から昭和60年初めにかけて、マツ林の一部は照葉樹林に移行した。現在、島しょ部の山裾(すそ)や社叢にツブラジイ・アラカシ・ウバメガシなどの照葉樹林が見られるが、その一部では林内にマツの立ち枯れ木や切り株を見ることがある。このような林は、少なくとも昭和30年代以前までは、相観的にはマツ林だったと思われる。また、アカマツの高木林では、ほとんどの林で陰生の林となっている。
 ただし、露岩地帯や斜面上部では、アカマツ林の遷移の進行が非常に遅く、現在もアカマツ林あるいはアカマツ低木林の部分も多い。しかし、このような林であっても、多くの場合はすでに照葉樹の生育が見られる。
 このように瀬戸内島しょ部の森林は、幾度か変化している。原生の状態では照葉樹林であり、古い時代に照葉樹林はマツ林に変わった。その後も、林の荒廃は続き、藩政時代にははげ山が目立つようになり治水が悪化した。明治時代になってさらに荒廃したが、明治の末期からクロマツ・ヤシャブシなどが植林された結果、アカマツ林がしだいに回復し、昭和の前半までは少なくとも現在よりはマツ林が多く見られた。しかし、昭和の半ば以降、アカマツ林の多くはミカン園となり、また一部は林内に多くの照葉樹が生育を始め照葉樹林への移行を開始している。アカマツ林の時代は終了したのである。

図2-2-3 愛媛県のマツタケ産量の変化

図2-2-3 愛媛県のマツタケ産量の変化

(資料:愛媛県統計書)