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瀬戸内の島々の生活文化(平成3年度)

(1)門前町としての歴史と現在②

 イ 明治時代初期における宮浦の商業

 次に大三島町教育委員会が所蔵している、明治18年(1885年)3月付けの「宮浦村諸営業金高届」を分析することにより、明治時代前半の宮浦新地の状況を推測してみた(なお、上記の届は職種別に記載され、同一人物がいくつか職種を兼ねている場合もあるため、正確な戸数を示すものでない。)。
 当時の宮浦新地の商業営業者等の名前を見ると、菅・藤原・越智・渡辺・浅野等の、現在の大三島町に多い姓が8割近くを占める。島外からの定着者が改姓した場合もあると思われるが、江戸時代と比べ商人の土着化が進んできたことがうかがわれる。また、表3-3-2を見ると、小売業における職種では、豆腐・酒・米・小間物・付け木(炊事用の割木)等の、生活に密着した食料品・日用品が大多数を占めており、その点からも、江戸時代の(富くじ・芝居等の種々の興行・遊女屋などの)藩の貨幣獲得のための一見華やかだが不安定な興行中心のものが、明治以降(藩の政策の廃止とともに)島内及び周辺島しょ部の住民生活に密着した商店街に変化してきたのではなかろうか。
 一方で、菓子・饅頭(まんじゅう)を合わせると17軒、旅籠10軒、飲食店21軒の存在から、(江戸時代から継続する)行楽地・観光地的な性格がうかがわれる。これは昭和以降の聞き取りからも、(昭和30年代までは)「三島参り」と称しての参拝、春秋の大祭、土用の虫送り火を得るための参拝が盛んであったことを確認できることから、(行楽地というより)参拝者中心のものであったと言えよう。図3-3-3の明治18年当時の参道商店復元図からも、神社門前町の商業機能と大三島島内の中心商店街の二つの性格が入り混じった性格を見ることができる。
 表3-3-3、図3-3-4、図3-3-5の売上げ金高を分析したグラフを見ると、宮浦村の商工業者の売上げ(収入)の格差が大きいことがはっきりとわかる。宮浦村全体では年間売上げが20円以下の軒数が74%に達するが、宮浦新地の商業関係においては、57%とやや低い。また年間売上げ100円以上の軒数のほとんどが、新地における商業者であり、(農業収入と比較できないものの)宮浦村の中での新地町への商業と富の集中がうかがえる。しかし新地町商業者においても、20円以下の売上げ軒数は57%、10円以下は33%と、小規模・零細業者が半数以上である点を忘れてはならない。
 当時の商業規模から考えると、宮浦新地は島しょ部の中で商業中心地として大きな役割を果たしていたのではないか。しかし、その地理的位置等から、(江戸期の藩の庇護を失った後は)一部の門前町のような大規模化・特殊化を進めることはできなかったのである。なお工業においては、表3-3-2からも家大工が70%近くを占め、そのうち21%にあたる22人が「本人不在のため代理」との記載があり、特定職種に固まった出稼ぎが行われていた。これは江戸時代の文献に基づく研究(⑤)、及び本項の昭和期に関する聞き取りとも一致する、越智郡島しょ部の特色であろう。

 ウ 明治時代末から昭和初期にかけての宮浦村

 明治44年編纂の「宮浦村郷士誌(⑥)」及び昭和8年編纂の「宮浦村(⑥)基本調査書」から、この時期の宮浦村及び宮浦新地の状況を考えて見たい。なお両書における宮浦村は、明治18年までの旧宮浦村と台村が合併したものを指すが、ここでは台村を除く旧宮浦村の数値を主に示すこととする。
 明治44年(1911年)の旧宮浦村の全戸数は401戸で、その内訳は農業235戸、工業38戸、商業72戸、漁業30戸、その他26戸である。人口は2,685人(男1,371人、女1,314人)で、当時の宮浦新地については「戸数は150戸余、多くは商業に従事す」の記載があり、これは農業を中心とした上条・下条集落のそれぞれ110戸余より多い。なお新地には村役場とともに、今治警察署宮浦分署、今治区裁判所宮浦出張所が置かれ、周辺島しょ部も管轄していた。また交通については、定期航路として、今治-宇品線、三津浜-尾道線、波止浜-尾道線の三線が宮浦に寄港していた。宮浦村郷土誌にも「物資の集散、旅客の従来極めて繁し」とあるが、当時の中四国を結ぶ主要航路の一つであったと思われる。
 次に図3-3-6にまとめた、昭和8年(1933年)の宮浦村(旧台村含む)の職業別の就業・収入状況についてみてみると、旧宮浦村における、新地の商業者及びその他の従業者の従事者数・収入が非常に大きい割合を占めていることが分かる。特に新地においては、(無業者を除いての)労働人口に対し、商業・公務員及び自由業従事者の割合が、50%を超す。農業中心の当時の人口構成から考えると、宮浦村は昭和初期において、島しょ部の商業・行政中心地であっただろう。

 エ 戦後の宮浦新地の変遷

 大三島町誌等をもとに、昭和20年代より現在にいたる宮浦の状況を、次に考えてみたい。
 表3-3-4は、昭和26年より平成3年までの、宮浦新地の町並みの変化に関わる事項をまとめたものである。
 表3-3-4の中で、宮浦の風景を変え、商店街に大きな影響を及ぼしたものとして、特に二つあげねばならない。一つは宮浦港より旧参道部分まで入り込んでいた小湾部分の埋立て・整備による再開発が進み、町役場他ほとんどの公的機関がこの埋立地前に移転したことである。またその埋立地を「御串通り」と名付け新商店街の形成をはかったことで、顧客の流れは大きく変わった。二つめは、参道横に(参道が自動車道としては狭すぎ、フェリー就航や本四架橋に対応するため)バイパス道路が建設されたことである。このため観光客及び島内の購買客は、車でバイパス沿いの店舗を通じて、買物をすることが多くなった。さらに最近、神社前に広大な駐車場・町立美術館ができたことが、それに追いうちをかけている。
 また、参道商店街の変貌を見てみると、宮浦新地全体における店舗数の合計はさほど変化していないものの、参道沿いの店舗が急速に減少したことがはっきりする。減少した理由として、後継者の流出と高齢化により廃業した店もあるが、かなり多くの店舗が、参道から町役場前の「御串(みくし)通り」及び町立美術館・大駐車場前の新造成地に移転したためでもある。またバイパス沿いには銀行、若者向けの衣料品・小物を扱う店が数店できている。喫茶・クリーニング・酒・菓子等の、島内を中心とした固定客がついている商店が、現在も参道に残っているのではないかと思われる。フェリーや本四架橋に伴うモータリーゼーションの波が、この十数年で参道の旧門前町の姿を大きく変えたのである。

表3-3-2 明治18年宮浦村の商・工業の業種別経営軒数

表3-3-2 明治18年宮浦村の商・工業の業種別経営軒数

「明治18年宮浦村諸営業金高届」より作成。

図3-3-3 明治17年の宮浦新地参道商店復元構成図

図3-3-3 明治17年の宮浦新地参道商店復元構成図

(注)現在の地割図の区画に、明治18年当時の旧地番を現在の地番と比較してあてはめたため、面積や細部は不正確であると思われるが、当時の参道商店のおよその配置をつかむことはできるよう作図した。

表3-3-3 明治18年宮浦村商工業者年間売上げ上位職種(100円以上)

表3-3-3 明治18年宮浦村商工業者年間売上げ上位職種(100円以上)

順位を○で囲んだものは、宮浦新地の営業者。「諸営業金高届」より作成。

図3-3-4 明治17年宮浦村商工業売上げ金高比較

図3-3-4 明治17年宮浦村商工業売上げ金高比較

「諸営業金高届」より作成。

図3-3-5 明治18年宮浦村商工業社収入別割合

図3-3-5 明治18年宮浦村商工業社収入別割合

「諸営業金高届」より作成。

図3-3-6 昭和8年の宮浦村における職業構成

図3-3-6 昭和8年の宮浦村における職業構成

昭和8年「宮浦村基本調査」統計資料に基づき作成。

表3-3-4 戦後の宮浦に関する年譜

表3-3-4 戦後の宮浦に関する年譜

「大三島町誌」より関係事項を抜粋して作成。