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瀬戸内の島々の生活文化(平成3年度)

(1)門前町としての歴史と現在①

 大三島は芸予諸島の中心に位置し、島の西半を大三島町が占める。大三島町の中央部にある宮浦は、昭和30年の町村合併まで宮浦村であり、大三島の中心集落として栄えてきた。特に大山祇神社が奈良時代に宮浦に鎮座して後(①)、越智・河野氏の氏神として、また戦勝・海上安全・鉱山・農耕等の神として、広く瀬戸内海全域の信仰を集め、宮浦の繁栄に直接結び付いてきた。この項では、特に大山祇神社前に形成された宮浦新地(しんち)の人々の生活を、門前町商人の生活史としてとらえていきたい(なお旧宮浦村は明治18年までは宮浦村と台(うてな)村に分かれており、台村を除く狭義の「宮浦」は上条(かみじょう)、下条(しもじょう)、新地の3地区より成り立っている。)。

 ア 門前町の成立

 門前町としての宮浦新地の成立については、昭和15年に同町出身の菅菊太郎氏が「大三島市及び大三島新地町開発沿革(②)」をまとめられ、昭和38年には田中歳雄氏が「大山祇神社と三島市(③)」の研究を著されている。また「愛媛県史資料編近世下(④)」に大山祇神社文書の一つとして「三島市」に関する諸資料が収録してある。これらの資料に基づいて、江戸時代における宮浦門前町成立の沿革について、下記にまとめてみた。ここでは基本的には菅氏の論文に、内容を依拠している。
 鎌倉・室町・戦国時代(13世紀~16世紀)には、大山祇神社は伊予国守護河野氏の尊崇を受け、また神社神官大祝(おおはふり)氏自身が有力な内海豪族でもあり、大いに繁栄していた(①④)。しかしこの時期の神社前における、市あるいは商業活動については、はっきりしたことがわからない。瀬戸内の中での特に目立つ繁栄ぶりというようなことは、うかがうことができない。
 しかし近世に入って、豊臣秀吉による太閤検地は大三島にも及び、天正15年(1587年)に神社社田を没収し、大祝氏の権力は神主としての地位に局限された。江戸時代の寛永12年(1635年)以降明治時代まで、大三島は松山藩領として松平氏の支配下に置かれるようになった。松山藩は「御国潤(おくにうるおい)」政策として、大山祇神社四月大祭を大市日と定め、神社前における大三島市の積極的振興を進め、人市税・運上金・場床賃等の貨幣利潤の増収を計っていった。また後には定期市としての露店・小屋がけだけでなく、恒久的な町家建設(②④)を行った。これが宮浦新地の起源となるわけである。年代順に新地町成立までの経過をまとめると表3-3-1のようになる。
 菅菊太郎氏等によれば、上記の安永5年以降の工事により、宮浦は、新地町が形成された。
 成立当初の入居者は38軒であった。しかし松平定信の寛政の改革(1787~1793年)の余波により、毎月1回にまで増加していた富くじが禁止されるとともに不景気に陥り、一時は町家居住者が17軒にまで激減した。その後再び富くじ等の入札興行許可を得て回復し、家数46軒にまで回復した。その後の文化年間(1804~1817年)の屋号には、竹原屋・池田屋・若松屋・古野屋・風早屋・阿波屋・長門屋・今治屋・尾道屋等の名称が見え、瀬戸内海各地出身の商人が集まってきた様子がうかがわれる(①②)。しかし、天保の改革(1841~1843年)で再び富くじが禁止され、安政2年(1855年)にさらに、それまでの藩の御目付(おめつけ)支配(三島役所)が廃止されて郡代官所の間接支配になるとともに、それまでの新地町に対する種々の保護も消滅し、松山藩の商業中心地としての地位を失うことになる(①②④)。
 写真3-3-1・2は現在廃屋となっている宮浦新地参道の家屋である。この家屋には写真に見るように「おだれ銀(①②)」のあることなどから、江戸時代にさかのぼる建築物と思われる。この家屋を含めた何軒かに写真3-3-2のような「卯達(うだち)」が見られ、その凝った装飾などから江戸~明治期の繁栄がしのばれる。

表3-3-1 松山藩の宮浦における商業振興政策の沿革

表3-3-1 松山藩の宮浦における商業振興政策の沿革

「大三島市及び大三島新地開発沿革(②)」をもとに作成。

写真3-3-1 「おだれ銀」の残る古い家屋

写真3-3-1 「おだれ銀」の残る古い家屋

おだれ銀とは、現在のアーケード状のもので祭日に露店を出すためにも使う。平成3年11月撮影

写真3-3-2 左家屋の「卯達」

写真3-3-2 左家屋の「卯達」

卯達とは隣家との防火壁である。平成3年11月撮影