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瀬戸内の島々の生活文化(平成3年度)

2 瀬戸内海の形成

 瀬戸内海は、平均水深30m、面積17,107km²の浅くて広大な内海で、前述のとおり灘と瀬戸に分けられる。この瀬戸内海の形成については、構造の異なる二つの山系の衝突境界が中央構造線にほぼ平行する断層や、直交または斜交する断層により細長く階段状に沈水した地溝帯とする説と、侵食作用により開析(かいせき)(*1)された山塊が沈水して島を形成しているとする説とがある。
 瀬戸内海を眺めたとき、北岸の中国側は出入りに富んだ海岸線と多くの島があり、その大きさは四国側より大きい。伊予灘を見ると屋代(やしろ)島、沖家室(おきかむろ)島、大水無瀬(おおみなせ)島、青島と四国に近づくにつれて小さくなる。四国側の海岸線は、単純な直線である。燧灘も同じ傾向がみられる。このことは、瀬戸内海の陥没が北側では少なく、南の四国側で大きい傾動地塊(けいどうちかい)(*2)となっていると考えられる。
 瀬戸内海の形成時期は、3つの時期が考えられている。新第三紀中新世(約2,200万年前)のころ、淡路島北部から小豆島、豊島を結ぶ線より北部が陥没し細長い海域となったが、中新世末に再び陸化した。この時期を第一瀬戸内期という。続いて、新第三紀鮮新世(約180万年前)~第四紀更新世前期(約170万年前)に、現在の瀬戸内海の海域より広い範囲が陥没した。
 その後、何回かの氷期と間氷期がおとずれ、海水域の増減が繰り返された。この時期を第二瀬戸内期という。第四紀更新世前期(約70万年前)~更新世後期のウルム氷期(約7~1万年前)には、広大な陸地の広がりに伴い、現在の児島半島付近を分水嶺として、東に古大阪(こおおさか)川、西に古豊予(こほうよ)川系統の川ができ、流域には平野や湖沼が形成されていたと推定されている。
 ウルム氷期が終わり、完新世(約1万年前以降)になると、気温も上昇し、氷も融けて海進(*3)が進み、今まで陸域であったところが海面下に没し、現在の瀬戸内海が完成したと考えられている。この時期を第三瀬戸内期という。瀬戸内海の水深は、前述のとおり燧灘(10~30m)、安芸灘・斎灘(30~40m)、伊予灘(40~60m)と、東から西へ深くなっている。また、海底堆積物は燧灘や播磨灘は粘土質シルト(泥)などの細粒堆積物、伊予灘・斎灘には砂が広く分布している。
 瀬戸の部分の海底には、海釜(かいふ)(*4)と呼ばれる凹地がある。これは、来島海峡の最大時の潮流約9~10ノットからも分かるように、激しい潮流によって侵食されたものである。愛媛県内の海域に見られる主な海釜は、来島海峡中央部、怒和島水道、クダコ水道(部屋ノ瀬戸)、釣島水道などに分布している。
 本四連絡橋の建設、音波探査による研究が進むにつれて、海底地質も次第に明らかにされ、全海域に約20mの厚さで完新世の地層が堆積していること、さらに更新世~鮮新世の地層がその下に堆積し、基盤岩の花こう岩類を覆っていることが判明した。
 また、防予諸島・芸予諸島の海域から、淡水~海生の貝類化石、ナウマンゾウ、ステゴドン、オオツノシカなどの大型獣の化石が採集されている。


*1 開析:地形原形が侵食によって破壊されること。
*2 傾動地塊:地塊運動の際、断層に沿う回転運動により一方に傾いた地塊。
*3 海進:海岸線が陸側に入り込んでくること。
*4 海釜:円形、だ円形、または三日月型をした海底の小さな凹地。