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宇和島市

今松治郎(1898〜1967)

 明治31年~昭和42年(1898~1967)内務官僚、和歌山・静岡県知事、戦後衆議院議員になり、岸内閣の初代総務長官や自民党全国組織委員長を歴任した。明治31年7月25日、北宇和郡二名村波岡(現三間町)で今松佐一郎の次男に生まれた。宇和島中学校・第一高等学校を経て、大正8年東京帝国大学法科に入学、11年同大学卒業後高等文官行政科試験に合格した。翌年北海道庁警視・保安課長を振り出しに、以後和歌山・宮崎・埼玉・京都の各府県に勤務して昭和9年宮城県学務部長、10年群馬県警察部長、11年警視庁官房主事、12年茨城県総務部長、14年内務省振興課長、15年北海道土木部長を歴任して15年10月和歌山県知事に就任した。16年10月には東条英機内閣の下で内務省讐保局長になり、太平洋戦争下の翼賛選挙を指揮した。ついで18年7月静岡県知事に就任、食糧増産や東海地方の大震災復旧など戦時下の県政に尽力した。20年4月知事を辞して郷里に疎開したが、21年公職追放、追放中東京で弁護士を開業、郷土の上京青年の世話や文化人との交流を深めた。26年追放解除、27年10月の第25回衆議院議員選挙に第3区自民党公認で立候補して最高点で当選した。当選後自由党副幹事長になったが、28年4月の選挙で落選、30年2月の第27回選挙で日本民主党公認で当選、国会に返り咲き少数与党の副国会対策委員長として砂田重政を助け、保守合同後は砂田全国組織委員長の下でその補佐を務めた。32年2月岸信介内閣が誕生すると総理府の初代総務長官に就任した。以後33年5月、35年11月、38年11月の衆議院議員選挙に連続当選し、全国組織委員長・北海道開発特別委員長・愛媛県連会長など自民党の要職を歴任した。実務型で誠実円満な政治家として知られ、国道56号の全面改良、宇和島港の重要港湾指定など郷土のためにも尽くした。42年1月の第31回総選挙で予想に反して落選、このころから健康がすぐれず、昭和42年10月14日69歳で没した。 45年4月、三間町役場の庭に胸像が建てられた。(『愛媛県史 人物』より)


①今松治郎之像

①今松治郎之像

宇和島市三間町宮野下835