データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

宇和島市

清家吉次郎(1866〜1934)

 慶応2年~昭和9年(1866~1934)政治家。吉田町長、県会議員に20年勤続して、その弁舌は名物的存在であり、のち衆議院議員になった。慶応2年9月14日、宇和郡喜佐方村(現北宇和郡吉田町)に生まれた。無逸と号した。吉田郷校に学んで愛媛県尋常師範学校に入学、明治22年卒業した。大洲尋常小学校を振り出しに、喜佐方尋常小学校の訓導などを勤め、28年南宇和郡立高等小学校校長となり、33年南宇和郡視学を拝命、以後44年まで各郡視学を歴任した。 44年9月県会議員に当選、昭和5年2月辞職するまで県会に議席を占めた。政友会の闘将として博識と鋭い論鉾で長広舌を展開、県会の名物的存在であった。〝吉田のあんやん〟と親しまれ、反対派の村上紋四郎・武知勇記との論戦は県会の活況を呈した。その間、大正8年12月~10年12月、12年10月~12月、昭和2年10月~12月の三度議長に選ばれた。県会議員の傍ら大正9年以来昭和9年死去するまで郷里吉田町の町長を務め、同郷乳兄弟の山下亀三郎や村井保固の援助を受けて吉田中学・山下高等女学校設立、吉田病院の開設など他町村に見られない教育・福祉施設の町営を実行、吉田町と清家町長の名声を高めた。昭和3年2月初の普通選挙である第16回衆議院議員選挙に政友会公認で第3区から出馬したが、落選した。次の5年2月の第17回衆議院議員選挙に再出馬して当選、念願の国会に進出した。7年5・15事件直後の議会で荒木貞夫陸相に論争を挑み一躍有名になった。7年2月の第18回衆議院議員選挙に再選され、9年1月がんに犯された病をおして国会の開院式に臨み、翌日入院手術したが効なく、郷里で死にたいという希望を容れて護送された。神戸港で見送りの山下に、「徹頭徹尾貴君の御世話になった。これで御別れする。」の永別の言葉を残し、昭和9年2月23日、67歳で吉田町の自宅で没した。町役場の前庭に銅像が建てられている。(『愛媛県史 人物』より)



①清家吉次郎翁像

①清家吉次郎翁像

宇和島市吉田町東小路甲71-1付近

②清家吉次郎翁像前の碑

②清家吉次郎翁像前の碑

宇和島市吉田町東小路甲71-1付近