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柳谷村誌

第二節 流通的自由社会の構造

統一国家性 

 近代国家像としての「国家権力」は、「立憲主義」と「国民主権主義」の二つの大綱に「権力分配」を行った。その枠内で天皇制が統治行動として自己をあらわす仕組である。日本国という統一体は、すべての行動を日本国憲法に明示する行動準則にしたがって進めている。国民は議会行動において「主権性」を行使し、天皇制下の官僚機構は、国民主権の立法機構が監視する下で「行政権」と「国家防衛権」を行使する。「国民と官僚」の二者共同の社会構造は、権力分配不均衡を生じ易く、そのため社会存続の安定を失する例を史上に多く見る。ここにおいて、近代国家は、トリプルプレーの力バランス安定性に着目して、国家権力の推進を「三権分立機構」の上に求める。

 通産化性

 近代国家としての姿となるには、産業革命の波に乗って、国家体制の通産化(通商産業活動が中軸となる)を実現しなければならない。従来からの農耕も亦、自己生産物を従来のような自給あるいは、生産手段所有者への報酬行動に止めず、広く社会流通面に開放して、その流通交易に供されねばならない。
 産業革命については、創始国イギリスが、一八世紀中期から一九世紀初期に実現、続いて西欧諸国は一九世紀中葉まで、アメリカは一九世紀の後半までに、それぞれ実現した。ひとり我国は、永く鎖国政策をとっていたため、先の国々に較べて近代化の機を遅らせてしまった。そのため我国の通産化は、焦りの歩度をとらねばならなかったのである。

 平等性 

 人類は、あとさきの感じで時間を、立体感で空間を、感覚し感得するものであるのか。すべてのものごとを識別する能力は、比較・差異・優劣の尺度の支配によるものなのか。一ばん親近の存在・関係であるはずの人々相互の認識に、不平等・差異の尺度が作用しあう。この傾向が、「人類から人らしくまでの過程」の人間社会に、数多くの悲劇を重ねた歴史の跡を見る。反面人はまた、社会生活の経験以来、人らしくへの進化の跡をかえりみて、平等観の内省をも積重ねてきている。しかし、政治的に、経済的に、社会的に、過去の人々の歴史の足跡は、あまりに不平等の人間関係に終始していると思われる。特に直前の封建社会期では、四民を竣別した極度の差別社会であった。では、今期の社会に対する人々の期待はなにか。それは、「自由の獲得」「平等人間観」である。この願いは、「四民平等」の叫びを生み、福沢諭吉の「天は人の上に人をつくらず、人の下に人をつくらず。」の人間平等の宣言に結集され、「人間性尊重」の生活信条に開花したのである。 開放性  開放は解放である。あらゆるものを、不当な繋縛から解き放って、主体の自由な成長を願う行動である。わが村の人々は、永い封建大土地所有者の支配拘束から解かれ、土地の占有・移譲・賃貸・活用ができ、生産物・必要品の処理取得が、簡便な貨幣制度の運用によって行われ、居住・移転・教育・選職等々の身上行動が、すべて村民個人の自由意志で行われるのである。

 連帯性 

 自由は、秩序にセットされて血が通い、いのちとなる。「村の秩序」とは、村民の顔色が良識にかがやき、村民の両手が、つながれ合っているすがたのことをいう。この期に入ってここに百十余年、村民は村の主権となり、村長は村民の良識の象徴となり、村役場は村の生命のビデオとなった。三者が織りなす連帯形の重心に、わが村は日々、「村格」のけだかさを色濃くしてゆく。