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美川村二十年誌

五、藤田 信次郎(一八七六~一九五四)

 明治九年四月一一日、現松山市東方町の丹生谷久吉の二男に生れた。叔父の藤田百八に子がなかったので小学校入学のころから大川で育ち、久万尋常高等小学校を卒業した。養父百八が村長のころ、これからの人間は読み書きが出来なければ一人前とは言えない、と口にしていたので父に協力して宗泉寺の本堂を借り受けて未就学児はもとより、大人たちにも読み書きを教えて村人に感謝された。
 明治四一年村議となり、その才を認められて同年村長に選ばれ、二期勤めた。特に学校教育に力を入れ、各学校の入学式・卒業式等の行事には日時をずらしてもらって必ず列席して児童を励まし、無欠席者に賞を与えていた。児童たちも村長の祝辞を聞くことを楽しみにしていた。
 村人は互いに協力して暮さねばならない、相互扶助の精神が大切であると説き、病人が出れば組全体で世話するようにした。また暮しに困る人があれば頼母子講を作って協力するように呼びかけた。彼の関係している頼母子講は一〇件を下らず、収入のほとんどがその掛金にあてられた。
 第二次大戦中にからだを害し、宇部興産の重役である長男の亮に家督を譲り隠居し、晴耕雨読の生活を送っていたが、昭和二九年一二月六日、七八歳で死去した。