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美川村二十年誌

四、森岡 牛五郎(一八五九~一九四○)

 安政六年七月一五日、日野浦本組で与茂九郎の長男として生れた。幼少から体力的にも頭脳的にもすぐれており、計画したことは必ず実行しなければ止まない性格であった。「自から得た利益は人々の協力によるものであるから社会に返すべきである」という信念を持ち、晩年には財産を人々に分け与えた。
 明治一七年に二五歳の若さで戸長となり、やがて弘形村の第一回村議となり、同二七年には助役、ついで村長二回、郡会議員会議長・凶荒予備組合長を歴任。組合長の時に御三戸嶽を買収して永久に残した識見は特筆に価する。二代村長となった三三年には村に合う産業を吏員に調べさせ、自からも先頭に立って研究した。その結果、桑と茶の栽培が傾斜地に適していることを知り、村民にこれを奨励した。同三五年に愛媛県茶業組合を組織して組合長となり、先進地の静岡県より技師青野竹次郎を招いて栽培の指導を受けた。また製茶技師養成所をつくり指導者の育成につとめ、藤社に製茶工場を建てて製茶競技会を開催したりした。また養蚕にも力を入れて蚕業振興に先鞭をつけている。大正一四年に弘形電気株式会社を設立して社長となり、弘形村に文化の灯をともし、長い間の徳用やランプの生活から脱却させた。
 昭和四年に再び村民に推されて第一三代村長となったが病気のため任期なかばで辞任した。若いころから世話好きで人の面倒をよく見たので、村民から「森岡相談所」と呼ばれ尊敬されていた。昭和一五年五月九日、八一歳で松山市で死去した。養子通一は小学校長を退任後、村の民生委員等をして福祉の第一線で活躍している。