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美川村二十年誌

合併前後の思い出    初代村長 土居 通栄

 私は弘形村最後の村長として昭和二二年一一月に就任し、新村美川村の初代村長として昭和三四年四月まで、通算一二年六ヶ月勤めたことになる。
 昭和も五〇年を迎えると終戦前後の混乱期を経験した人たちも五〇歳以上となっている。村民の四分の三は、ほとんど戦争を知らないので、村誌の本文に語られてない私の経験を少し述べてみたい。
 太平洋戦争は昭和一六年一二月八日に、日本軍のハワイ真珠湾攻撃にはじまった。弘形村からも次々と応召者が出て留守家庭が多くなっていくので、組々で共同耕作をして食糧供出の完遂を期して、銃後のつとめにはげんだ。また軍馬の乾草飼料、飛行機用潤滑油搾取のためヒマワリ・ヒマ等の強制栽培、軍用材の伐採、楮、藤かずら皮、野生ラミー剥皮、松根油、生松液採取、火薬製造、犬の脳下垂体を飛行士の特殊な用に供するため撲殺供出などをした。公務員も出勤までの早朝に乾草刈取り、松根掘りをし、休日にも戦力増強のため働いたし、国民学校も四年生以上は松根掘り、乾草、ラミー採取に働くいじらしい姿が見られた。こうした銃後の努力も空しく、戦局はしだいに不利となり、遂に昭和二〇年八月一五日に天皇の終戦の詔の放送で戦争は終結し、日本は連合軍の前に無条件降伏をした。日本国の敗戦の痛手は大きかった。「国破れて山河あり」の嘆き、精神的虚脱、実に疲労困憊の極に達した。
 私はそんな昭和二二年一一月一二日に村長として初登庁してみて驚いた。その年の産米の農家への供出割当指示が出してない。当然県への割当報告がされてない。期限は一一月一五日である。農民には虚脱もゆるされていない、食管法による供出行政は全国民の生命に関するきびしい事務である。さっそく割当作業に取組み、農業会の職員と基礎資料にしたがって二夜三日というもの不眠不休で、やっと作り上げて、村内各部落へは特使を走らせ、地方事務所へ割当報告を持参し、まず一安心した。
 ところが翌一六日に登庁してみると、なんと玄関に地下足袋が二〇足ばかり脱ぎ揃えてある。「何事だろう」と入って見ると、村民の供出割当の苦情である。やれ家には病人がいる、老人だけだ、妊婦がいる、乳飲み児を抱えている、とても応じられぬという。私はいちいちその申し出を聴き、ごもっともと同情中し上げるが、供出割当は各戸の認印を受けた反別による無理のないもので、地力調査もしてあり、収穫見積高標準の上に立っておる。と前置きして、見聞に基づいて全国的食糧窮乏の実例から相互扶助、共存共栄の精神で難局を打開すべきであると白隠・道元・盤珪禅師の法話まで持ち出して協力を懇請した。しだいに村民の態度も軟化して、少し配当をへらしてもらいたいと言い出した。しかし村供出四〇〇〇俵をどう割替えても、村内の他の人に無理を押しつけるだけである。もし供出して保有米がなくなった時は、転落農家として食管法によって大人米麦一合七勺を即日配給しましょうと言い、やっと納得して帰ってもらったのが午後八時であった。
 その翌一七日も、また地下足袋が一五足ほど脱ぎ揃えてある。はいってみると別の部落の人たちで昨日同様に、供出割当の苦情である。今日は少し馴れて来て、昨日の要領で話し合い、少しは笑い声も出るようになり、午後七時までに話がついた。
 翌一八日は供出米搬入状況を視察に出かける。米検倉庫は上黒岩と日野浦とに二庫あった。上黒岩に立寄ってみると有枝、大川、上黒岩からトラックで搬入しており、食糧検査員が名柄を定め、農協職員が量目検定、人夫が積込み、戦場のような忙しさである。今日は苦情もないようで楽観していたら午後一時ごろ一人見えたので今まで通りに懇談した。非農家の人だったが、翌日リヤカーで自ら二俵を運んで完遂してもらった。感激であった。
 こんどは実状視察のため供出割当の最も多い部落に入って見た。じゅうぶん顔を知られてないのを幸い水戸黄門式に行脚した。粗末な衣類に地下足袋、脚絆という支度である。海岸地方から婦人、老人が塩魚や干物などを背負って来る。都会からは古着を運んでくる。こうして食糧と交換して帰るのである。まず部落入口で老女が、この人たちに「今日は何を持って来たかナ?」と問う所から、実状を見せてもらった。この光景は昭和二六年ごろまで四・五年つづいた全国的現象でもあった。当時としては無理もない物資不足で、これで双方が生き抜いたのだった。
 しかし供出は確保せねばならない。米麦のみならず、とうもろこし、大豆、小豆、馬鈴薯、甘藷まで供出は厳しく、村長の命取りとまで言われていた。特に米麦について拒否した者は強権を発動され刑法上の処分を受けるのであった。
 二二年産米は順調に搬入されて供出完了報告を待っていた所、雪の降るころになってわずか四、五俵供出不能と申出る部落が出たため夜間に出張して事情を聴き懇談した。収納して見ると案外の不作でどうにもならぬという。集まった委員も同情する始末。明晩組内全員で協議することで散会したのが午前二時、今のように車もないので暗い気持で自宅に帰ったら午前四時だった。しかし翌晩は組内全員協力して五俵供出することに決定した。午前一時までかかったが帰りはうれしかった。
 ところが数日たって上黒岩倉庫に搬入する筈の一部落が、わずか二俵半供出不可能というのでまた夜間に話し合いに出かけたが、自暴自棄的な態度、言動で話が進展しない。その考え方では将来日本は自滅するとまで烈しく説得したかだめ、けっきょく隣接部落に代納してもらうことで午前二時に解散したが、私は帰りの凍結した坂道ですべって転び、しばらく起き上ることが出来なかった。これ程にせんと駄目なら村長をやめようか、と思ったが古人がにあたって「限りある身の力ためさん」と言ったことを思い出し、勇を鼓して午前三時に家に帰り着いた。
 その年、供出完遂で県から表彰をうけた。その賞金に村費若干を加えて中学校の演習林を購入した。いま中央中学校の下にある植林地は僅かではあるが、その年の供出完了の記念林である。
 村長就任のころの公共施設の荒廃振りは、長い戦争中放任されていて、全くひどいものであった。村民から伝染病舎の裏山が崩壊して奥半分が埋没している。平井橋が老朽化していて馬が脚を落した。駐在所からは、「村長、一晩宿直に来て見てくれ」という。「それはまた、どうした事か」と聞くと、昨夜寝ていたら、イタチが出て来てふとんの上でダンスをした、という。さっそく翌日廻って見ると三ヶ所とも申し出に間違いない。長い間、よくも辛棒したものだ。急いで復旧しなくてはならぬが、さて困った。物統令により制限配給で物資がない。財源はない。緊急に村議会を開いて審議してもらったら、非常時だ、非常手段を取れということになり、各種団体にはかって、木材は村民の寄附、伐出しも搬出も村民の勤労奉仕で、突貫工事を進めることになった。
 駐在所は位置が適当でないので隣接地を買入れた。土地造成は消防団員、石積みは日野浦の中山乙逸氏が担当、献身的に働いてくれたことを思い出す。木材は部落に配当し、伐木から国道まで搬出し、農協のトラックが平岡英男氏、安宅福松氏の製材所まで運び、両氏の奉仕で製材してもらった。セメント、ガラス、釘も村民のチケットを借用して整えることが出来て、三ヵ月で完成させた。当時のようすを思い出すと、まことに有難いことであった。こうした村民各位の誠意に満ちたご協力は新制弘形中学校の建築のとき、もっともよく発揮されたのであったが、これは学校の章で述べておいたので重複を避ける。
 私の村長としての最大の思い出は、やはり町村合併の過程と新村発足当時の種々の問題であるが、これもすべて本文にゆずって二、三のエピソードを記すにとどめる。
 県の指導で弘形村、柳谷村、中津村、仕七川村を一ブロックとして協議会を組織し、会の都度、その動向を村民に伝達して村民の意見を謙虚に聞いて、次の協議会に持寄るという方法を取っていた。
 そのころのこと、村の有力な青年が或る日、村長室の前の廊下を、「村を分断する合併は断じて反対!」と叫んで行ったり来たりする、聞き捨てならんと、翌日青年の部落に出かけて調査すると、弘形村の下は柳谷村へ、上は仕七川村へ合併する方針だと二、三の者が流言を飛ばしたものとわかった。弘形村ははじめから村民感情を尊重して合併形式は「対等合併」の方針で出発している。神奈川県の蘆の湯村は人口一○○人足らずで合併不可村として一村を守っている。選り食い的な分割による合併は断固阻止する決意を、益々強くした。
 いよいよ合併の村がきまり、最後の調印の段階に、「庁舎を弘形村御三戸に設置するのだ。地元村は一五〇万円寄附せよ」などという風説が流れた。そんな不合理な話はない。お湯も沸騰点に達したら誰かが蓋を取る、庁舎の位置については弘形村は白紙、作為的なことは一切しない、機の熟するまで発言を差控える申し合せをしていた。
 ところが仕七川村役場の二階で協議会が行われた時のことだった。面河村からも代表者が出席していた。元老新谷善三郎氏が西の隅に着席し、私もその隣りに着席していた。懇談の途中で、新谷氏は、「どうぞ、もうまあ庁舎の位置を極めんといくまいがー。なんじゃかじゃ言うても、御三戸は国道三三号線沿いで面河川、久万川の合流点じゃ。下から来ても上から来ても、仕七川から行ってもほぼ中央ぞ、御三戸にしてはどうぞ。異議があるか?」
 と、私の背中をポンとたたいた。まことに鶴の一声だった。古武士の慨があった。場内だれ言うともなく、「まア、そうですなア」の声が各所で起った。
 議長は、「異議がなければ、庁舎の位置は御三戸と決定しますが?」と発言すると、満場一致の強い拍手。これで決定。まことに快い印象として、いつまでも私の心に残っている。
 村名については、各村で村民の意見を参考にして検討することになっていたが、余り関心はなかった。食事の休憩の時、二、三の人の間で、「三和村はどうぞ」「四ヶ村の時は四和村かナ」「離縁したら二和村かーそれはいかんナ」などと語り合ったりしたが、けっきょく「美川村」という自然環境にふさわしい新村名が生れたのだった。