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美川村二十年誌

過去一六年を顧みて   村  長 新谷  優

 昭和三〇年の合併に際し、仕七川村の議会議長を四年間勤めていた私は、当時の事情にも通じていたので村長選に立候補したが、先輩の土居通栄氏に惜敗した。確か五二票の差だったと思う。
 しかし三四年の二回の選挙には村民の皆様の御理解を得て、土居氏の後任に坐る事になった。前村長とは合併問題で共に苦労をした間柄でもあり、種々御指導をいただき、精神的にはらくなすべり出しであった。
 今は亡き黒川未千夫君が合併の部落常会で「村が広くなるが、足と目と耳をどう解決するか」という質問をした。これはまことに当を得た質問で、私はこれを村つくりの基本の一つと考え、座右の銘としている。
 さて村長四期一六年、さまざまの思い出に満ちているが、この間に行なった事業を箇条書きに列記して見よう。
 一、着任の五月から狼ヶ城の国有林の払下げ問題に着手した。これは合併後五ヶ年以内の条件つきで、以後は時効にかかるのである。すでに四年は過ぎており、まだ何の見通しも立っていないので、早急に事を運ばねばならなかった。高知営林局から東京へとあちこち走りまわって、どうやら九月には見通しがついた。
 二、新村も五年目、まず村民の融和を図ることが大切と考え、村民の意見を聞く村政として村政懇談会をはじめた。これはずっと今日まで継統されている。また体育の向上と親睦・理解を深める目的で村民体育祭・食生活の改善・農林業の推進を併せた地区輪番の農民祭を盛大に挙行することにした。
 三、公平な行政をめざして、合併の条件である新村基本計画の完成と、前村長時代の布石を忠実に実行する事を考えた。しかし昭和三五年の国勢調査が示すように過疎現象がこのころから明確に現れてきた。因みに本村の人口の推移を見ると、昭和三〇年合併当時の九、九三一人が四九年九月末住民票で四、八〇九人となり、五、一二二人の減少を示している。現在の人口は明治二〇年頃の人口と等しいのである。つまり明治二〇年から昭和三〇年までの七〇年間の集積が、その後のわずか二〇年の間に崩れ去ったので、まことに驚嘆の外はない。この過疎現象の原因は、夢のような月旅行をはじめ宇宙開発競争時代を実現するまでの急速な科学の進歩、豊富な原油がもたらす加工技術開発と産業構造の改革による高度経済成長、その歪みとして農林漁業など一次産業と他産業との所得格差の増大、教育の向上・生活向上の意欲等々、多種多様である。国も県も村も過疎対策は重要となってきた。まして山村のわが村としては、これこそ最も緊急重要課題となった。
 四、政府は農林業振興と農林家の生活安定のため、昭和三六年農業基本法、三九年林業基本法、四〇年山村振興法、四五年過疎地域対策緊急措置法など、矢つぎ早に法律の制定をみた。また県も独自の低開発地域振興政策を、村も三九年六月に「美川村産業振興の構想」という小冊子を作って、葉たばこ・養蚕・茶・畜産・椎茸・優良材生産など基幹作物の選定と増産計画を示した。また国道・県道は勿論、道路網の整備(生活道路として村道及び農道・林道など足の解決策)地すべり・砂防・護岸・水路・開田など基盤整備事業の促進により生産の能率化、すなわち農林業の近代化と同時に農業外収入源の確保を図り、いっぽうでは農業協同組合・森林組合などの合併による強化策を推進し、過疎現象に対処することになった。
 五、過疎対策の第二は文化生活の推進ー特に目と耳の問題ーすなわち「文化の里」づくりである。まず電話普及率の向上・自動化の促進・通話区域の整理統合であったが、四九年一一月二〇日柳谷局区域を最後として初期の目的を達成することができた。当局の御理解に感謝の外はない。
 次はテレビ局の新設である。四二年一二月にNHKの開局以来、愛媛・南海の民放も誘致運動の結果、四八年九月完了、また難視聴区域もほとんど解消して、山村としては恵まれた状態となったが、ここまで漕ぎつけるには仲々の苦労もあった。
 また水清く空青く山は緑につつまれた美川の里とはうらはらに、飲料水については汚染の里である。上水道の施設こそ文化生活の急務であると考え、三六年以来漸次給水施設を整えつつある。
 文化的遺産の開発とその保存・保護もまた大切である。
 上黒岩遺跡はその一つで、幸い四六年に国の重要文化財の指定を受け、四六年に愛媛県知事から「文化の里」として指定を受けて施設の充実を図ることができた。しかし繩文文化遺跡のみでは文化の里としてはいささか物さびしさが感ぜられるので、現在四国最古の民家として国指定の重要文化財となっている宇摩郡別子山村の山中家の移築と、郷土館の新築を計画中である。
 また足の問題として二箆部落への国鉄バスの誘致運動が目的を達成した。過疎化の中でこれも仲々困難であったが地元の熱心な協力、関谷代議士の援助、道路課の道路整備等々で四二年一〇月一三日に営業開始式が挙行された。当日バスを迎えた子供達の日の丸の小旗に涙を流したことだった。美川スキー場へのバス開通の時の感激もまた忘れられない。
 六、人の幸福の第一義は健康である。過疎地最大の悩みは医療機関の不足であるが、さいわい本村は開業医師にも、また美川方式の内科・歯科の医療機関にも恵まれており、さらに母子健康セソターでは助産・母子検診も行われている。また各種予防接種も年々盛んとなっている。昭和四九年四月九日財団法人結核予防会総裁秩父宮妃勢津子殿下より表彰状を授与せられ、つづいて皇居で皇后陛下に拝謁の栄に浴したことは特筆すべき感激であった。
 国民年金制度が昭和三四年四月一六日に制定されて二〇歳以上で被用者年金制度に加入していない人が保険料を納付し、老齢・廃疾の時に生活の安定を保証せられることになっている。本村ではこの制度の発足と共に広報や文書・説明会を開いてその趣旨の徹底をはかった。その時になってこのような制度のあった事を知らず、特典に洩れて悔やむ村民のないことを期したものであった。その甲斐あって他町村に比して多くの加入者を得ることができた。
 七、過疎対策第五は天与の大自然を保護し活用することを考えた。美川スキー場は愛媛スキー連盟・愛媛山岳会・愛媛新聞社会部・愛媛大学山内浩教授(本村出身)らの推奨で昭和三五年に開発した。その外、四国カルスト地域県立自然公園林業構造改善の「いこいの森」開発、岩屋寺の集塊岩奇峰群・赤誠ケ池周辺の風光美、あるいは岩屋寺栃群生林・二箆の矢竹等の植物、長崎の淡水魚アメノウオの養殖も四四年の着手で本県最初のもので、いずれも本村の観る・動く・行なうという観光の一翼をになうものとして大いに将来が期待される。
 八、過疎対策第六は教育問題である。特に小・中学校の在り方で、合併当時の児童生徒数は二、〇〇〇余人、それが現在八〇〇余人に激減している。この現状はいたずらに過去の母校に対する甘い感傷や思い出にひたることを許さない。目先の便宜に左右されてもならない。真に子供達の幸福のため大乗的な立場から早急に統廃合の実現を願って止まない。
 九、最後に、国土調査を機会に長い間、私設登記所として処理して来た難問の大字東川二番耕地内の五二人共有名儀の広大な地籍が入会林野近代化整備法の適用によって単有化の方向に着手出来た一事は、地域の長い悩みであっただけに喜びに堪えない。