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久万町誌

11 育英事業

  ア 上浮穴郡教育義会
 石鉄寮経営 久万町に農林学校が創設される以前は、本郡に生まれて中等教育を受けようとする者は、小学校を卒業すると、郷関を去り、あたたかい父母の膝下を離れて、松山あるいはその他の都会に出かけ、親族、知人を頼り、またそれも不可能なものは、年若い身で下宿屋のさびしい生活をしなければならなかった。
 これは本人もさることながら、愛する子女を遠く手放さねばならない父母の心配は並大抵ではなかった。
 そのためによほど条件に恵まれている家庭でない限り、中等学校に進学することはできなかった。そこで、教育に関心の深い父母の願いとして、子女を安心して委ねることのできる寄宿舎を建設してほしいという声がほうはいとして起こった。
 郷土の先覚者たちの間にも、教育・文化向上のために上級学校進学の問題が取り上げられ、子弟の収容施設である学生の寄宿舎開設こそ、最も急務である、との議論が漸進的に盛んになった。同時に、郡出身者の有志で組織している松山在住同郷会の中にも志を同じくする者が、次第に増加していった。
 明治四二年四月一一日、松山亀の井で、有志の懇談会を催し郷土出身の学生保護指導を同郷会の一事業とすることを決議した。準備委員として、時の松山教育界の重鎮露口悦次郎及び、影浦未知満と、後に県議会議員となった温厚な人柄の大野助直が郷土を代表して加わり努力した。
 しかし実現はなかなかであったが、一〇月に趣意書を作成し、郡長以下町村長に同調を求めた。同四三年三月、北京町の民家を借り受けて、大野助直が舎監として就任し、準備を整えた。四月一七日、最初の入寮生を一室に集め、同郷会役員列席のもとに露口悦次郎が代表して訓示を与え、幹事を任命して上浮穴学生寄宿舎を設置した。その後入寮希望者が増加するにつれ、二、三転々と舎屋は替わったが、大正四年一二月、御大典事業として、上浮穴郡会は郡立寄宿舎の設立を可決した。私設の苦労も解消され、ついに公立となった。
 同五年度より郡の経営に移り、三月、上一万にあった元武徳殿の千坪に近い敷地を買収し、同六年三月、寄宿舎が落成した。
 同八年四月に、当時の倉橋舎監の発案で、石鉄寮という名称になった。
 同一一年三月末に、申請中の財団法人上浮穴教育義会が認可され、当時の郡長古川栄一が理事長として石鉄寮の経営にあたることとなり、郡立時代に終わりを告げた。
 同一二年一二月、食堂・図書室・父兄室を新築し、更に舎監室を増築して、一二月二日、落成式を挙行した。当時約五〇名の意気旺盛な寮生は、勉学にスポーツに努力し、石鉄寮の黄金時代を現出した。当時の寮生で現在社会的に指導的立場に立っている人は少なくない。その裏に終始一貫、寮の発展に尽瘁した石鉄寮の父、大野助直の功績のあることを忘れてはならない。
 同一三年一二月、寮生室が増築竣工した。
 同一三年より県費の補助を受け、経営費として使用したが、昭和一〇年ころより漸減した。同一六年、上浮穴農林学校が開校され、教育義会への県費補助は打ち切られ、各町村負担となった。
 同二○年七月二六日午後一〇時、松山空襲により惨禍を受け、寮は全部焼失した。寮生の大部分は幸い避難したが、防空壕入口へ焼い弾が落下しため壕内へ避難した六名の寮生は無惨にも焼死した。このために寮生は解散し、寮は一時閉鎖するやむなきに至った。
 同二一年一月一五日、石鉄寮復興促進の議が教育義会臨時総会に上程され、再建することを決定した。その資金として焼け跡を処分することになった。用地は各方面と交渉の結果、石手川の堤防を借用することとなった。特に当時の理事長八木菊次郎の献身的努力で、同二二年三月一八日、寄宿舎新築起工式を挙げ、同二三年四月一二日、落成式が挙行された。舎監として影浦未知満が就任した。戦後の複雑な物質的、精神的諸問題と取り組み、献身的に努力し、八〇歳の高齢で二八年六月二四日に病没するまで誠心誠意、寮生の指導に尽瘁した。
 同三〇年三月一日、倉橋舎監は寮生の精神指導のよりどころとして、寮生活十訓を定め、また、同年四月一七日、石鉄寮創立記念日を復活して寮歌を制定した。
 同三四年一〇月四日、石鉄寮五○周年記念式典を石鉄寮で挙行した。式典は、戒田副知事、竹葉教育委員長、大西教育長、郡町村長等の来賓及び寮生出身者で構成する寮友会員約一〇〇名も出席し厳粛にしてしかも盛大に行われた。
 同四〇年三月一〇日、本郡と松山間の交通も便利になり、学生の宿舎としての必要度も減少したため、教育義会寄付行為第三条第一項(石鉄寮の経営)を削除し、石鉄寮を廃止した。
 奨学金貸与事業 上浮穴郡出身の者で、優秀な人材が、学資の支出困難のために、大学教育を受けることができないということは、本郡の人材開発、文化の向上のために遺憾なことである。
 この観点に立って、教育義会では、昭和二六年四月一日「上浮穴教育義会奨学規程」を制定した。そして、郡出身の教育者不足にかんがみて、上浮穴郡出身者で新制大学教育学部進学希望者中、品行方正、学力優秀、身体強健で、学資の支出が困難と認められる者に、学費を月三〇〇〇円貸与することにした。その後経済成長に伴って、貸与金は同四一年度より五〇〇〇円に増額された。同二六年度より、今日までの貸与該当者は七五名になった。この事業が郡教育進展のために尽くした役割は実に大なるものがある。
 上浮穴郡教育義会理事長は、初期は上浮穴郡長が兼務し、初代は時の郡長古川栄一であった。大正一五年より、露口悦次郎・井部栄治・青木末広・日野泰の諸氏が理事長を務めた。なお昭和三九年以降の理事長は次のとおりである。
 昭和三九年一一月~昭和四一年一一月 面河村村長 青 木 末 広
 昭和四一年一一月~昭和四四年 五月 美川村村長 新 谷   優
 昭和四四年 六月~昭和四七年 五月 柳谷村村長 近 澤 房 男
 昭和四七年 六月~昭和四九年一一月 面河村村長 中 川鬼子太郎
 昭和四九年一一月~昭和五一年一一月 柳谷村村長 近 澤 房 男
 昭和五一年一一月~昭和五四年 六月 面河村村長 中 川鬼子太郎
 昭和五四年 七月~昭和五七年一一月 久万町町長 河 野   修
 昭和五七年一一月~昭和五九年一一月 美川村村長 天 野   登 
 昭和五九年一一月~昭和六一年一一月 小田町町長 林   與一郎
 昭和六一年一一月~昭和六三年一一月 柳谷村村長 近 澤 房 男
  イ 久万凶荒予備組合による育英事業
 久万凶荒予備組合 久万凶荒予備組合の資金は藩侯の下賜米を中心として、祖先が乏しい生活の中から営々と米を積み立て、時として救助に役立たせつつ利殖してつくったものである。本郡地方産業の発展に多大の恩恵をもたらせたが、明治の文運興隆に際し、郷土の人材養成を目的として、向学心ある有為の青年に学資金を貸与するために、「久万山学資金貸与規定」を制定した。
 貸与額は戸主の資産の状況により、一人一か年につき一〇〇円以下となっていたが、明治三三年に高等学校は一三〇円以下、大学は二〇〇円以下と改正され、一月、五月、九月に分けて交付する定めであった。
 貸与第一号は西明神村梅木正衛であり、東京農林学校の入学に際して貸与されることとなった。
 「久万山学資金書類綴」に明治一九年七月二四日付の次の文書がある。
   「山林は国家の財源にして、之が蕃殖を計るの急務たるは弁またざるなり。これをもって官、林務を改革して、特別の管理に属し、山林学科を改正して、科目を高尚にし、益々拡張を事とせらる。伸現職を奉じて、久万山に在り、感動特に深く、其専門家を養成せん事を希望し、之を二、三有志家に詢るに又皆賛成せり。而て養成の道は東京山林学校に入りて、其術を攻究するにありといえども郷中其人を得難く、幸に貴下山林の事業に志あり。斯学の攻究は尤も希望する所ならんと信ずれば、貴下宜しく、此の選に当りて可なり。家事のけいるいも之ある可しといえども旨趣前陳の如くなるを諒し、現勢を罷めて、速に出京入校の手続を履行あれ。学資は左の方法により、久万山共有学資金制の内より貸与すべし。
   七月二四日        郡 長    桧垣  伸
  上浮穴郡御用係
   梅木 正衛殿
  一、修業年間毎年金一百円貨与する事。
    但 無利息
  一、成業後は其芸術により得有する所の金額一〇分の一を月々に返済する事」
 学資貸与の第一期ともいうべき明治年間に、貸与された者は次のとおりである。
 第二期ともいうべき、大正六年から昭和二年までの一一年間は、貸与の範囲を中等学校にまで引き下げた。この間の貸与人員三八名、貸与総額一四二九三円五○銭である。
 貸与者久万九・明神五・川瀬四・杣川三・弘形七・中津二・柳谷八。学校別に見ると大学四・高専三・師範学校一六(男一〇・女六)・工業学校三・商業学校四・農業学校八となっており、この中には、郷土のために今日盛んに活躍している人も少なくない。
 昭和三年からは貸与方法を改めて、関係町村扱いとし、各町村でそれぞれ中等学校以上の進学生を援助して来た。
 同二九年度までの貸与金は合計二三万六五〇二円である。
 三〇年度からは貸与規定を改正し、組合自体で貸付けを行うこととした。
 その後、新制大学教育学部進学生には、上浮穴郡教育義会育英事業として貸与している。教育学部進学生を除き、その他の大学生に対しては次のとおりである。
  ウ 偉世寿育英会(父二峰地区)
 農業の近代化に伴って、農業技術が急速に進んでいる現在、農村の振興には優秀な中堅人物の養成が第一である。しかし、農家の子弟で高等専門の教育を受けたものは、その大部分が町外に出て就職する現状である。
 偉世寿育英会は、好学の青少年に学資金を貸与して、高等専門の教育を容易に受けさせ、農村に踏みとどまり、営農する後継者を養成し、農村の振興に寄与する目的で設立されたものである。
  名称 財団法人、偉世寿育英会。
  事務所 上浮穴郡久万町大字二名甲二九一番地の一
  昭和三三年(一九五八)六月二四日、設立許可申請をし、同年一〇月三日、文部大臣より民法第三四条によって、設立が許可された。
  基本財産 土地一八町六反、基本金一一〇万円。
 初めは一人に対して月額一〇〇〇円を貸与していたが、同四〇年より月額一五〇〇円に、同四九年より二〇〇〇円に、同五○年より五○○○円に増額され現在に至っている。ただし、昭和五九年以後は該当者がいない。
 昭和五九年までに奨学生として採用され、奨学金を貸与された者は、七三名、貸与金額は、四六五万二〇〇〇円に達している。
 歴代の理事長は次のとおりである。
  初代 植田 要 昭和三三年~昭和三六年
  二代 竹内賀寿 昭和三七年~昭和四二年
  三代 竹内友長 昭和四三年~昭和五六年
  四代 岡田元一 昭和五七年~昭和六一年
  五代 橋本 猛 昭和六二年~

石鉄寮歴代舎監在任表

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学費貸与の名簿

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