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久万町誌

一 町村合併

 昭和三四年三月三一日、旧久万町・川瀬村・父二峰村が合併して新久万町の発足をみたが、前途は必ずしも楽観を許すものではなかった。条例の制定、合併の条件整備、新町建設計画とその実践など、大きな課題が山積みされた中でスタートしたのである。
 合併前に川瀬村村長を二期勤めた日野泰が、新久万町長として就任し、助役には父二峰地区の横田重市、久万地区の尾形旧四郎のふたりが選ばれて就任した。まず、このようにして理事者の体制を確立していった。一方、町議会には、久万地区一三名、川瀬地区八名、父二峰地区五名の計二六名の議員が選出された。町理事者、町議会議員が一体となって、新久万町の方向づけや町政を行うことになったのである。
 合併前に三町村は、それぞれ他の町村の実態を詳細に調査し、把握した上で納得し合って合併に踏み切ったのであるが、町・村政の基盤となっていた三町村の条例は必ずしも一律ではなかった。そこで、第一の仕事として別々にあった三町村の条例を研究し、それらを統一して新しい条例の制定にとりかかった。
 新条例の制定によって久万町の方向づけができると、次に、合併の条件であった種々の事業を計画し、実行に移さねばならなかった。この合併の条件整備については、年次計画にしたがって行うものと、急を要するものとの二種類に分けることができたが、綿密な計画のもとに新久万町では、できる限り早急に整備するよう努めた。このような積極的な政策が効を奏して、現在では合併条件のほとんどの事業が完成をみた。
 このように条件整備をする一方では、「新久万町建設計画」をたてる必要に迫られていた。新町建設計画をたてるにしても、まず町全体の実態を把握しなければならなかった。その実状にそった計画でなければ、空理空論に終わってしまうおそれがあったため、町当局では実態調査のための専従職員を配置して、町全体の実態調査に乗り出した。課長以下町職員全員がこれに協力し、産業・経済・交通・文化・教育・保健・財政等の面からはじまって自然的な条件に至るまで一七項目にも及んで綿密な調査を実施した。
 調査の結果を基礎資料として、今後の町政の基本方針を打ち出したのである。すなわち、『健康にして文化的生活を営む町』の建設を基本目標として、新町建設計画が打ち立てられたわけである。新町建設計画の概要は次の通りである。
 一、各種産業部門における所得の増大を図るため、基本条件と経済条件の改善。
 二、各種産業の基盤の拡大を図るため、道路・水路・交通・通信施設の整備。
 三、教育、文化の向上と衣・食・住の改善による生活の安定。
 四、過剰人口問題の解消と所得の増強。
 五、地域経済団体の整備強化と一本化の確立。
 六、行政機構の改善と事務能率の向上を図り、投資的経費の増大に努める。
 七、その他。
以上のような基本的構想(基本的計画)のもとに諸計画をたて、それらを総合的・有機的に結合させてその効果の発揮に努めてきた。つまり、この新町建設計画に基づいて今日まで町政を行ってきたのである。
 その後、二度の町長改選が行われたが、現職の日野泰が連続して当選し、新久万町建設計画の基本方針は変更されることなく、これに沿って新久万町の町政を担当してきた。その間に二人制の助役を一人制にしたり、町議会議員の定数に変更があったりはしたが、基本方針には全く変更はなかったわけである。議員数は第二期(昭和三八年改選)には明神地区四名・久万地区九名・川瀬地区八名・父二峰地区五名の四区制となり、さらに、第三期(昭和四二年改選)には明神地区四名・久万地区八名・川瀬地区六名・父二峰地区四名とその定数を減じるなど若干の変更をみたが、町長は、議会の協力と全町民の支援を得てますますその政治的手腕を発揮していった。
 現在では、各省庁や県と密接な連絡をとり、国・県から多額の補助を受けて事業を起こしたり、農林省・建設省・林野庁などの直営事業を受けたり、各種事業の指定地域として指定を受けたりするなど、久万町の発展は実にめざましいものである。久万町の事業量と、事業費として中央よりはいる金額は膨大で、県下でも有名になっている。
 事業内容は別表に示す通りであるが、産業経済部門についてみると、合併と同時に「農山村振興計画村」の指定を受け、一一〇〇万円の事業が行われている。これを手はじめとして、昭和三七年には農業構造改善事業が、県下一四か町村で行われるようになり、その中の一つに加えられてこれを推し進めることができるようになった。
 農業構造改善事業の指定については、当初除外されて指定を受けられないといった憂目をみたが、町理事者・町議会議員・地元民の強力な陳情と結束が県理事者、県議会議員を動かし、ついに県の追加予算の計上にまでこぎつけたのである。昭和四〇年度に東明神地区、四二年度に畑野川なべら地区の耕地整理が行われた。
 また、昭和三九年には林業構造改善地区としての指定を受けて大事業を計画し、その完遂をみた。
 この二つの構造改善事業の事業主体は、農業協同組合と森林組合であり、これらの事業を遂行するためにはどうしても二つの組合の強化が必要となってきた。これらの事業が、やがて農業協同組合及び森林組合の合併の機運を高めていったのである。
 町理事者の適切な助言・指導と、農業協同組合自体の自覚とがあいまって、まず農業協同組合を合併する運びとなった。昭和四〇年四月一日、明神・久万・直瀬・畑野川・父二峰の五つの農業共同組合が合併して、久万町農業協同組合となり、より強力な組織のもとに新しく出発した。つづいて、久万・川瀬・父二峰の三つの森林組合も合併し、久万町森林組合を組織した。このようにして一本化され、強力になった農業協同組合・森林組合が主体となって、それぞれの構造改善事業を遂行していったのである。
 そのほか昭和四〇年には肉用牛繁殖地域の指定を受け、直瀬西山地区に繁殖センターを建設したり、昭和四一年には養蚕経営総合対策事業に着手したり、また、県直営の事業を受けたり、災害・復旧の事業にしても災害激甚地の指定を受けて、多額の補助によって事業を行ったりしている。
 一方では、「久万町農林業技術者会議(議長大野福美以下三七名)」を組織して、町内の農林業における指導体制の一本化と強化を図っている。この会議は、農業・畜産・林業の三部会に分かれており、それぞれの分野で活勤し、一般町民の指導に当たっている。
 商工面においても、商工協同組合を組織してその発展に努め、また、商工業振興協議会を結成して、会長正岡豊を先頭に月一回の会合をもって商工業の振興に努力している。
 保健衛生面においては、久万町立病院を新築移転するとともにその充実を図り、直瀬・畑野川・父二峰の三診療所の運営、医師住宅の新築と医師の確保などに力を注いできた。特に、久万町出身者で医師を志望する場合は、月額二万円の奨学金を貸与するなど、その力の入れようも一通りではない。これをみても、いかに久万町か保健衛生に力を入れているかがうかがえる。また、昭和四一年には二名地区全員を対象にして地区診断を行い、全町的な健康状態の傾向を客観的、科学的に把握して今後の方策を打ち出すための基礎資料としている。そのほか水道事業は、各小集落まで行きわたりつつあり、日に日に保健衛生面の施設・設備も充実してきている。
 教育面においては、町内小中学校全部の完全給食の実施をはじめ、体育館・プールの建設を年次計画にもとづいて行い、そのほとんどが完成している。昭和四二年には久万小学校の本館を鉄筋コンクリートにするなど、町内の各小中学校とも完備されてきた。また、町内の一一の公民館活動も次第に盛んになり、社会教育も着々とその教育効果をあげてきている。その一例として、社会道徳の高揚をはかるとともに「体力づくりの町」を宣言し、それぞれの具体的目標をきめ、町民のひとりひとりに徹底させ実践されるように努めている。特に体力づくりについては、早朝ソフトや公民館対抗の諸球技・町内柔剣道大会などを毎年開催してその充実を図っている。
 剣道においては、久万中学校剣道部が全国優勝(昭和四○年)及び三位入賞(昭和四二年)の栄冠を勝ち取り、久万小学校剣道部が全国三位(昭和四三年)の栄誉に浴するなど、実に輝かしい記録を樹立している。
 その他、バイパス線の開通、国道三三号線の改修と完全舗装、テレビの普及などによって、市街地に劣らぬ文化的生活を営むことができるようになってきた。特にテレビの普及には目を見張るものがあり、昭和二八年NHKテレビ本放送が開始されてから一〇年目の昭和四一年には一・六戸に一台であったのが、四三年一月には一・三戸に一台となった。全町に約三、二〇〇台ものテレビが置かれたわけである。昭和四二年三月にNHKのテレビ中継局、四三年八月には南海放送のテレビ中継局が開局され、その映像も極めて鮮明になりカラーテレビも普及し始めている。
 このように、新久万町合併後の一〇年の歩みは大きく、しかも力強く、合併当初の「健康にして文化的生活を営む町」のスローガンに着実に一歩一歩近づいている。

町有林会計決算表

町有林会計決算表


年度別教育事業費

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