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久万町誌

三 交通・運輸事業のうつりかわり

 藩政時代は、人はすべて徒歩又は馬により行われ、一部かごも利用された。物資は、人・馬により輸送され道路の進展につれて、馬車による輸送が盛んに行われた。変わった方法では、木材を馬車で小田町突合まで運び、突合より長浜まで肱川をいかだに組んで流す方法があった。この方法は、ずいぶん長くつづき昭和初期までみられた。馬による物資輸送は、当地方において最大最良の方法であったようである。これら牛馬を使用する人々は駄賃持ちと呼ばれていた。当時は、道路の幅員が極めて狭いので荷物を満載した馬と馬とのゆきちがいは非常に困難を極めたものである。そこで、各馬の首に合図の鈴を付けて往来し、鈴の音をきけば手前の広い場所で待って離合するようにしたものである。馬の首の鈴の音は、土佐街道の谷間に高くあるいは低くこだまして情緒豊に歌う馬子唄の余韻は更にゆかしくのどかな風情であった。
  馬よ歩けよ くつ買うてはかそ 二足五文の 安ぐつを
 こうして、何百年も愛され利用された峠越えの街道も、現在ではほとんど通る人もなく草木が茂り、むかしの面影は次第になくなっている。
 朝は、星をいただいて提燈片手に馬背に荷をつんで三坂峠を越え、あるいはサレガ峠(二名と広田村境)を越え、松山城下、郡中等へと、すべての物資を輸送し、帰りは、上荷をつんで日暮れて三坂峠にかかり、家路に着くころはまったくの真夜中であった。その時代の先祖の労苦をしのぶとき、文明のありがたさをつくづく感じるものである。久万地方にうたいつがれた馬子唄にも
   三坂越すりゃ 雪降りかかる
       帰りゃ妻子が 泣きかかる
 真夜中ごろに家に帰り、馬のかいばを終えて履物のわらじと、馬のくつを二・三足作り、床につくのが午前二時、三時であったという。
 明治三一年ごろ久万三坂間を客馬車が走るようになった。大正の始めに、数台の自転車が町内を走るようになり、道路の整備と平行して客馬車の運行も区間が延長され大正一二年ころまでつづいた。このころ、人力車も町内にみられた。
 自動車購入第一号は大正九年の曙町松田茂衛門に始まり、逐次台数も増えていった。
 この自動車の見物人で門前市をなしたときくが、決して単なる笑い話ではない。大正九年、久万索道株式会社が創立され、久万・森松間の貨物輸送が開始された。創立当時の資本金は一〇万円で県補助事業として完工運転された。久万・森松間の運賃は、木材でみると一才当たり七厘であった。その後しだいに自動車輸送に変わり、当時の積載量二㌧程度のものが次第に大型化し、物資の輸送はすべて自動車となり索道事業も閉鎖された。終戦後は、自動車工業が発達し、貨物自動車も積載量七、八㌧のものができ、鉄道のない本郡の物資輸送はすべて自動車となった。新装なった国道三三号線を通過する自動車は一日平均一三○○台(昭四二・四調)を数え、大正一四年一台の自動車が四〇年後の今日では大型二三、普通二六六、軽四一〇一、二輪八四二、計一二三二台(昭和四○年三月末現在)となり牛馬運送や荷馬車は全く姿を消した。ただし、奥地の木炭あるいは木材搬出には若干の牛馬が使用されている。
 一方、旅客輸送機関は、客馬車の時代が極めて短く、大正一一年には、中央自動車株式会社が久万・松山間に定期便を開始している。この乗合自動車はバスとちがって、現在のタクシーを利用したもので定員は六名であった。次いで、愛媛自動車株式会社・伊予鉄道電気株式会社等の社営乗合自動車が乱立して、互いに料金を安くするサービス合戦を演じるなど、盛況であった。
 大正末期から昭和初期にかけて、本県全体の交通機関も急速な発展を遂げ、昭和四年に至っては前記各自動車会社は合併されて三共自動車株式会社となり、昭和一九年一月、三共自動車株式会社は伊予鉄に吸収合併された。
 昭和四年ごろには三共自動車が、ほとんど郡内一円に路線区間を延長した。昭和九年、国鉄自動車が、松山・久万・落出を経由する予土連絡バスの運行を開始した。前記三共自動車も伊予鉄に運行路線を引き継ぎ終戦を境に旅客自動車も大型化し、定員五〇名以上の大型バスが町内すみずみまで一日何往復か運行されるようになった。むかし、往復二日も費やして徒歩で松山に出た時代を思えば、交通の発展には、目をみはるものがある。

久万町内国道県道現況図

久万町内国道県道現況図