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久万町誌

2 結婚式

 式の当日には、新郎は仲人とともに羽織袴で新婦方へ聟入りして酒食のもてなしを受け、ひき返して新婦の出迎をした。
 嫁入りは、たいてい徒歩であり、たんす、ながもち、鏡台など新婦の嫁人り道具はすべて人夫を雇って担いで運んだ。そのため荷物の宰領はたいへんな役であった。
 嫁入りの行列は、先頭に「小丸提燈」を持った人がつき、行列の露払いの役をつとめた。また、この先達は「嫁見よ。嫁見よ」と道々途中の人々に呼びかけ、嫁を自慢にして歩いたものである。行列に妨害はつきもので、途中に材木などで垣をしたりしていた。この垣もいい娘が自分たちの地区から他へ嫁ぐのを惜しむという意味を表していた。だが、娘の両親が嫌われていたりすると、妨害のために下肥を道いっぱいにふりまいていたり、材木を少しくらいのことでは取り除くことができなかったりしたものである。
 花嫁が婚家の玄関につくと、花聟は玄関の内で花嫁を待ちうけ、首実検をした。まちがいがなければ、花聟が手にした末広を少し広げて玄関内へ入ることを合図する。花聟が手にした扇で入室の合図をしてくれなければ、花嫁は入室することができなかった。
 三三九度の杯のことを「かための杯」ともいう。かための杯が済むと披露宴に移る。披露宴の途中で花嫁は高島田を丸髷に結い替えた。また着物もいろいろ着替えた。かための杯の際には白いうちかけを着用した。これは新婦が、新郎の家風に服従することを意味していた。披露宴は夜を徹して飲み明かす家もあった。特殊な例としては、結婚式の日は有名知人や有志を招いて宴を催し、翌日は地区全部の人を招いて酒宴を催し、三日目はごく内輪の親類だけで酒宴を催すというように三日三晩飲み明かした家もあった。
 結婚式の日にその家の庭へ幾十も石塔を運び入れたりもしていた。これは新郎新婦がともに墓場までも添いとげるようにとの意を表したものであった。だから婚家では大いに歓迎し、運び込んで来た人を酒さかなでもてなしたりもした。
 婚家が隣近所で嫌われていると、日ごろの悪評を外庭で声高に唱えて、嫁方の両親や人足どもに知らせるいやがらせをしたりもした。また披露宴の行われている部屋の障子に穴をあけてのぞき、悪口を言ったりしたこともあった。
 新郎はこの日をもって若衆組から脱退することとなる。このため新郎方から若衆組へ脱会のあいさつとして酒一本を送ったりしていた。また下直瀬では若衆組からお祝いとして酒をおくり、新郎方から「マスヌケ」といって酒さかなや餅を若衆組へおくっていた。
 こうした風習も昭和に入るとしだいにうすれ、特に第二次大戦後は全くなくなった。公民館結婚といって公民館を使っての結婚式や自由結婚などは終戦後のことである。新婦がお歯黒にしたのは、明治初年までであった。