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久万町誌

五 同族関係

 同族はもともと血縁関係を表すものであり、本家、分家が中心で形造られ、相互扶助の精神がその根幹であった。
 この本家、分家を含めた血族関係にあるものを「一まき」とか「まき」とかいった。が、なかには幼少のころ子守りとして養育を受け、長じて作男となり、その家から「しわけ」(商家でいうのれんわけ)をしてもらった者や、風俗儀礼の中に述べる名つけ親に名をつけてもらった子どもなども含めて一まきと称するところもある。
 また、姻戚関係は同族とはいわなかったが、養子縁組による養子は同族とした。つまり、嫁の里方・養子の里力は同族としなかったわけである。
 相互扶助は以下述べるような状態で行われた。
 本家は分家と異なり、資産も相応に多いのが普通であった。この本家を中心にしてつき合いがなされていたわけであるが、一族にことあるときはすべて手伝いあった。冠婚葬祭はもとより、農事、山林の作業などの手伝いもすべて無報酬であった。なかでも本家の主人は絶対の権力をもっており、その命令に服従しないものは一族から「のけもの扱い」にされた。そのため、本家からの招集命令が出ると、なにをおいても本家のお手伝いをしなければならなかった。それを利用して私財の蓄積につとめる本家も多かった。
 その反面、本家は、分家に対していろいろな援助も行った。たとえば、薪炭、竹材、金銭の貸与、米麦の供与などがある。金銭は無利子で元金のみを返済させたが、他はすべて無償提供であった。
 また、一族の中でのもめごともすべて本家がその裁量をした。したがって、本家は一族の代表であり、本家が衰微すれば、分家の生活にも直接響くので、本家の隆盛に分家は意を注いだ。
 本家が一族の代表者であるところから、社会的にも本家は丁重に扱われた。本家が他の一族からてい重な扱いを受けるためには、本家の主人や家族が立派であると同時に、資産も相応になければならなかった。本家が社会的に尊重されることはその一族の名誉であると同時に、同族全体の社会的地位が向上することでもあった。そのため同族間で社会的地位を低下させる行為は、お互いに戒め合ったものである。もしそのようなものが出ると、それは一族の恥じとして同族間から見放される結果となり、他の一族からも相手にされなくなることが多かった。そのため家の生活が支えられなくなる場合さえあった。だから、同族から見放されることは、その地域での生活権がすべてくずれ去ることでもあった。
 親が六〇歳ごろになると、「隠居」と称してその実権を長男に譲り、余世を送る者が多かった。隠居をしていてもよほどの難問がもちあがると再びその裁量に乗り出すことがあった。
 実権を譲られて、家督を引き継いだ家を「おもや」といった。これは隠居に対していった呼び名である。