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久万町誌

三 講(第一〇章「民間信仰」参照)

   頼母子講
 組単位が主で、掛け金をかけていって一番必要な者が先にとっていくしくみである。明治・大正に多かった。
 馬頼母子というのもあって、これは全戸強制加入であった。これに入らなかったら組ままこになるほどのものであり、馬が死んだ時に備える講である。明治・大正以前は、馬が各戸にいて、馬は農家経営をしていく上に欠くことのできないもので、生活に直結していた関係からできたものであろう。
   米講(米頼母子ともいう)
 農家の内で、病人があったり、不幸があったりして、その年の生活に困るか、あるいは、田畑・山林などの不動産購入・家屋の改築などで、一時に多額の費用が必要とされたときに、親族・組内・友人などのグループで、一定の掛米を出し合って援助し合う仕組みである。援助を受けた家は、長年でこの負債を返していく。翌年から同量の米を、グループの内でその年に最も必要とするものが取る。全員が取り終わるまで、毎年一回年末にかけていく。これを米頼母子といい、この頼母子をつくった人を頼母子親という。
 親の名をとって「何某始め頼母子」という名称で呼び、親以外のものを子として、頼母手帳を作成する。
 帳面には、
  一、親名及びその他の連名・捺印
  一、規約
   1、掛け米
   2、利息及び利息分配法
   3、取り番氏名・及び年月日・並びに保証人等
   4、その他必要事項
 が記されており、総代一名をきめて、総代が保管している。
 米頼母子には全員が二〇俵、五〇俵を年々掛ける大きなものもあったが、これらは特別で、普通一般では二俵掛けから五俵掛けが多かった。負債者(既取者)の支払い利息も安く、取った翌年から、自己の掛け米の二、三割を納める程度であった。
 利息の分配方法には、年々利息を加算して受け取るものと、取り番を除いた未取者に利息を割りもどし、未取者の掛け米を年々少なくする方法の二種類があった。
 年一回頼母子講を開き、掛け米と利息米を持ち寄り、酒・さかな・すしなどで祝った後、くじなどで取り番を定めた。負債者は支払い利息が安くて助かるし、また、未取者もかなりの利殖となる意味で、親も子も頼りになるというところから「頼母子」という名が生まれたものである。頼母子講の人数には制限があり、一一名か一三名で行うのが常であった。この人数でいくと、親も子も無理が当たらないからである。
 現在も、米頼母子は、経済的にみても現物持ち寄りであるためあまり変化がない。現物のかわりに、「三等米政府売り渡し価格」というような規定を設けて、(実際には金納である)米頼母子を続けている地区がある。