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久万町誌

1 日清戦争

 日清戦争の直接原因は朝鮮における政治的指導権争いであり、朝鮮の内政改革を要求する日本と、これに反対して朝鮮に進出して来た清国とが武力衝突した事に始まる。
 明治二七年八月一日、宣戦布告により戦争に入る。(実際には、七月二五日、豊島沖での日本艦隊と清国艦隊の海戦で戦いは始まっていた)この戦いの主なものは、九月一五、一六日の平壌の戦闘、続く一七日の黄海々戦=原田重吉の平壌の門破りや、日本艦隊、黄海々戦で大勝利、が伝わり村民大いによろこぶ。一二月二一、二二日に攻略した旅順の激戦、翌明治二八年二月二日から一二日にわたる威海衛の攻防などがその主なものであり、近代的装備、軍備をもつ日本の一方的勝利に終わり、四月一七日下関講和条約調印によって日清戦争は終結した。
 イ 戦争と銃後の生活
 日清戦争は徴兵令施行後(明治六年一月より徴兵令施行)初めての外国との戦いであり、開戦に当たっての国民感情は勝利を望めないという悲壮感があった。支那は世界最強国であり、軍艦は日本の四隻に対して一一隻(注、実際には日本が一二隻総トン数三万二〇〇〇㌧、清国が一四隻総トン数三万四○OO㌧)あり、更に日本は玄界灘を渡らなくてはならず、とても勝つことはできない。出征者は死を覚悟し、送る者は二度と逢えないと思って別れた。
 したがってある出征者は妻との別れがつらく、出かけては帰り、帰っては出ることを幾度もくりかえしその間妻の名を呼び続け、とうとう村人たちが手を引いて別れをさせたと言う伝えもあり、いかにも当時のことをよく語っている。また日清戦争では初めての「日参」が行われ、二人一組で戦勝祈願をした。
 あるいは、出征留守家族に対しては、近隣がよく手伝いをして扶け合い銃後の生活を送ったため、日清戦争による生活苦はほとんどなかったようである。勝利は望めないといったこの戦いも、連戦連勝の内に八か月余りで終結した。この戦いの出征者はおおよそ八〇名余り、戦没者は六名といわれるが、これらの記録は大部分が焼却され詳細を知ることができない。
 松山二二連隊の戦死者は三一名、負傷者は一三二名が物語るように尊い犠牲者を残したこの戦いも明治二八年七月二七日で凱旋を完了し、それぞれ松山まで出迎えられる者、村界で村民の迎えを受ける者等、戦勝凱旋軍人は盛大な歓迎を受け、ほとんどが部落の神社で戦勝凱旋祝賀会を受け久しぶりなつかしの家庭に落ち着いたのである。