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久万町誌

四 享保の飢饉と久万山

 享保一七年(一七三二)の稲作の大被害は前代未聞のもので、伊勢・近江をさかいとして関西全域に及んだ。この夏、幾内・中国・四国・九州方面には数十日にわたる長雨が続いた後が大ひでりとなり、おびただしい蝗が発生して稲という稲を食いつくし、そのため米の収穫皆無という地方も多く、いわゆる享保の大飢饉となったのである。
 英主として聞こえた八代将軍古宗は主な社寺に命じて祈祷を行わせる一方、百方手をつくして貯え米を出させ、被害の甚だしい地方に輸送して飢える民を救うことにつとめたが、何しろ広い範囲であるのと、人数が多いために十分に行き届かず、多くの餓死者を出したのであった。この時、西国の餓民二六六万人、死者は、一万二一七二人といわれている。
 幕府はこのことかあってから、貯米をすすめるとともに、南国の薩摩が甘藷を栽培していたため餓死者が少なかったのを見て、青木昆陽に命じ、享保一九年(一七三四)に小石川薬園及び吹上の庭に甘藷を試作させた。そして栽培法を記して、種子を各国に配った。
 伊予においては青木昆陽の試作より二年余り前、既に越智大三島の下見吉十郎によって移入され作られていたのである。正徳元年(一七一一)吉十郎は六部行者として回国中、薩摩の国で甘藷の種子を得て、天災飢饉の時の応急食物としてよいことを知り、禁をおかしてひそかに持ち帰って試作し、次第に附近の島々におよぼしたという。そのため享保の大飢饉に今治藩が餓死者を出さなかったのは、その余徳によるといわれている。大三島には今に「いも地蔵」として祭られている。
 享保の飢饉の被害が最もひどかったのは、実に我が松山藩であった。なかでも松山を中心とする道後平野の災害が甚だしく、今日高井に残る供養塚は当時の惨状を伝えているし、伊予郡筒井村の義農作兵衛が麦種の袋を枕に餓死したという美談も、この時のことである。
 この地方では五月二〇日ごろから七月上旬まで雨が降りつづき、中旬になると稲は枯れくさり、そのうえ虫害が加わって、重大事に立ちいたったのである。その模様を当時の記録は次のように記している。
   七月朔日、諸郡とも稲虫害これあり候につき道後八幡宮にて御祈祷仰せつけられ、諸郡にておいおい存じより祈祷いたし毎夜太鼓かねにて虫送りをなす。
   同月九日 水すぎ候につき虫付候ように申触れ、之によって未だ虫付なき稲は干つけ候よう御触れこれあり、
   同月一二日 早稲・太糖・晩稲大いたみに付、みのり申さずと見え候分は粟・大根・そば等植え付け百姓勝手に致し候よう相触れらる。
   同月一三日 追々稲かれ御領分皆無と相見え、これによって町方など騒動いたし、よろしく生立ちおり候稲も一両日のうちに残らず枯れくさる模様に聞こゆ、今日より味酒社に於て御祈祷仰せ出ださる。
   同日 水野佶左衛門宅へ諸郡代官招かれ、このたび虫さし大痛みにつき諸郡改め方申し渡され、同十四日まかり出る。郡奉行も出郷郡々へまかり越す。
   同十四日 当年畠へうんかという虫つき勘定奉行木戸仙右衛門勘定中谷孫八東、武へ注進のため、まかり越す。云々。
 このため、当然食糧不足、物価高となり人民の困窮がひどく、餓死する者も出て来たのである。
  「御先祖由来記」には、
   春よりの長雨、田方植付けはよく候へ共、六月以来うんかという虫つき、一面に田方痛み一粒も収穫これなきに付、家中人数扶持に仰せつけられ飢人数多くして死者辻々町々にこれあり其の数はかり難く、町郡方へは救米、麦少々ずつ人別見分の上くださる。米・麦・大豆・小豆ねだん高値になり、米銀札一匁に一合一勺までに相成り、その外右に準じ諸色値上り銀札通用あしく一匁に一〇枚がえの内外にて諸人難儀これあり、また「味酒社日記」には、享保一七年六月中頃より、うんかという虫わき候て郡々村々昼夜大勢寄合い候て追い候え共なかなか止み申さず、それより雑穀切二俵につき値段左の通り
    米   一六〇匁     白 麦  一二五匁
   小 麦  一二五匁     荒 麦  一〇〇匁 
   大 豆  一〇九匁     其の他給物之に準ず
   諸品高値にこれあり、もっとも町方郷中とも二分・三分・五分の穀物は売り申さざる位にて家中二〇日・二一日に人数扶持に仰せつけられ候由、もっとも近国大洲並びに宇和島・今治なども右同様の由、又八月朔日頃、値段一匁に付米二合八勺・白麦四号・荒麦五合・大豆四合・小豆四合・もっとも米は右値段にても町方に一切商売いたさず候て難儀いたし候。もっとも町方へは公儀よりその町組々へ家門高にて一人前に八勺ずつ御割渡しこれある位なり。
   七月二八日米値段銭札二八〇目、その後三六〇目に相なり麦穀物之に準じ実に前代未聞の価なり。もっとも値段極まると申すことなし。
   一一月五日社中の者風早より帰宅す。米値段七五〇目その外雑穀物高値、所々餓死人等多くこれあり候由、
 また別の記録には、食糧が極度に欠乏したため、村方から食を乞う者が列をなして町へ現れたことを伝えている。
   七月一六日 郷方の者共、町方へおいおいおびただしく袖乞いにまかり出て、今日などは多人数、袖乞いと申し町家へ押しかけ候に付、町中しとみを打ち奉行手附・郡奉行手附・諸郡月番等召連れ諸郡打まわり、目附・手代・同心など押えにまかり出で、それ故十七日頃より多人数打つれ袖乞の儀相止む、右袖乞は伊予郡の者最も多き由。
   八月一一日 諸郡難渋者多く米不自由につき左の通り売米仰せつけられる。もっとも久米郡は久米村より下方村々へ売拂候よう仰せ出さる。
   三〇俵  伊予郡    二〇俵  和気郡
   二〇俵  浮穴郡    二〇俵  久米郡
     銀札一匁に五合宛
 九月二三日 伊予郡筒井村百姓作兵衛、餓死・餓死者については、享保一七年一一月一九日右の通り、藩主より幕府へ届け出ている。
   私在所予州松山先達てお届申上候通り当作毛虫つき皆無に付、飢人日を追いおびただしく御座候、随分相救い候様に申し付け候え共大勢の事に御座候故。手当相届き簾ね段々餓死人これあり候、並びに牛馬等も斃れ候につき御届け中上候
   十月まで
    餓 死 人   男  二、二一三人
            女  一、二七六人
            〆  三、四八九人
    牛馬斃死    馬  一、四〇三匹
            牛  一、六九四匹
            〆  三、〇九七匹
   右の通り御座候 以上
   一一月             松平隠岐守
 一二月七日に御用米改めとして上使井戸平左衛門が松山に来ている。
 その結果、一二月一九日付で藩主久松定英は、領分餓死人の数多く裁許行届かずとして老中松平右近将監乗邑より、差控えを命ぜられた。
 松山藩の救助にはすこぶる手ぬかりがあり、その上藩士に一人の餓死者もなかったというのは、農民に対して取扱いか酷であるという結論がでたものと思われる。
 藩主が差控えを命ぜられたことについて、「却睡草」に次のような見解が記されている。
   享保一七年秋、西国大飢饉いねに虫つき一向にみのらず、松山死者四七八〇余人とぞ記したり。御上お叱り仰せ蒙られ、御差控え、寺社勤業の鐘鼓も音たえ、町人は蔀を打ち誠にものの哀れを止めしよし家祖母の話されし。かかる死人の多きに士中一人餓死の事も聞かず、如何なる故ぞや、君の御恩沢にあらざるべきや、先祖の功名働きあればこそ知行頂戴いたし、子孫はさまざまで苦労もせずしてむまくくらい、あたたかにきたる者多し。
   かかる御恩沢をば、むげにおもはば天罰を蒙るべし、我こそ士なりとて治世の富貴にそだち、さむらい顔して日を暮らすは素餐(註、その職をつとめずして徒らに官禄を食むこと)の罪おそるべし。
   我等この飢饉の話を聞き、知らぬ昔にあわれを催うせり。
   衆民何の罪ありて四〇〇〇余人死傷に及ぶや、その節の土中如何の功名勤労ありて、むまくくろうて生き延しや、おもえばおもえばもったいなく恐れ多き事ならずや。
   時の執政の遠き慮りなき故に殿様迄へ汚名をかけ奉ること、ひとえに役人の罪なり。
   何故平生あまた米殼を貯えおかざるや、たとい今日にも万一左様の変生せば万民のなげき如何ぞや。
 ここに飢饉に対処するために、貯米の必要が説かれていることが注目に価する。そして役人らが今更のように現地を見廻って前後策につくした様子が、享保一八年に入ってからの記録によく表われている。
 正月三日から家老久松庄右衛門、奉行稲川八右衛門はじめ諸役人が道前道後の諸郡を巡廻して被害調査をする一方、痛みに応じて救米や衣類を支給している。浮穴郡へは中老遠山権左衛門が出向き、各村々に滞留して日々検分したという。
 また年貢御免の処置をとったり、塩・味噌・薪・あらめ等を給し、二月に入っては種籾を給し、更に米・麦・大豆等の値段引下げの処置を講じており、江戸で差控え中の藩主は四月一九日に赦免となった。
 この享保の飢饉が我が郷土久万山にどのような被害を与え、住民がいかに難渋したかは全く不明であるが、前に述べたような地理的、歴史的条件の下で糊口をしのいでいたのであるから、天災が起これば、平坦部以上の深刻な食糧不足に見舞われ、餓死者も多かったことと想像される。
 宝永から享保の初めにかけて、人口二万人を数えたものが、この飢饉以来減少して一万七〇〇〇人に下ったという乏しい資料が、このことを物語っている。
 畑作皆無となった時の食糧として一般に、山野に自生する「かずね」又は「すみら」というものを掘ったことが古書に見える。その説明を聞くと、
   村々在々は、かずねと言いて葛の根を山に入りて掘り食いしが、これも少なくなれば、すみらというものを掘りてその根を食せり。
   この類はその根をくだき水にさらし、それを団子に作り塩煮して食す。すみらというものは水仙に似たる草なり。その根を多く取り集め鍋に入れ、三日三夜程水をかえ煮て食す。久しく煮ざれば、えぐみありて食し難く、三日程煮れば至極やわらかになり、少し甘味もあるようなれど、その中にえぐみ残れり。
   余も食しみるに初め一つはよく、二つめは口中一ぱいになりてのどに下り難く、三つとは食し難きものなり。されど食尽きぬればみな、ようよう之を食して命をつなぐ。哀れなること筆に書きつくすべきにあらず。
                    (橘南蹊著 西遊記読編)
 この文中、かずねというのは極めて掘り難いもので山分では上等の食物とされている。
 この根の澱粉をとったものが「くず粉」である。わらびの地下茎から取った澱粉は「わらび粉」といい、また「うばゆり」の球根からは、「かたくり粉」をとる。いずれも良質のものであって、平素は病人食にもするのである。
 すみらというのは、彼岸花の球根で一名を「ほぜ」という。
 古老の話よると、明治一九年の上浮穴郡の風水害の時は、各村争ってほぜを掘り、少なくなったという。
 ほぜは又昭和一六年に起こった大東亜戦争でも、小学生をはじめ一般の人々も、これを掘って供出したものである。
 享保の大飢饉といえども、山分である久万山地方には平坦部に比べて、木の実、草の根など食用になるものは多かったにちがいない。木の実としては山栗・とちの実・くるみの実・柿など、草の根としては、くず根、ほぜ(まんじゅしゃげ)・山芋などがあげられる。
 又動物も平坦部よりは多いのではなかったかと思われる。
 古老の話として聞くと、便所のつりこもまで、きざんでいって食べたそうなということであるから、想像もつかないような惨めさであったことが想像される。
 このように享保一七年の松山藩の蝗の害は大きく、死者三四八〇余人、牛馬の死三〇〇〇余頭といわれ、藩主定英は仕置よろしからずとして幕府から謹慎を命ぜられ、翌一八年五月に逝去し、一子定喬が後をついだ。
 当時の執政主班は奥平藤左衛門で、下に水野佶左衛門、久松庄右衛門がいた。
 享保一八年九月五日、定喬の松山藩は奥平藤左衛門を蝗の害による飢饉の処置不調法の至りという罪名で、役義を召放ち久万山に蟄居を命じ、家老久松庄右衛門以下六名を役義召放ち閉門、一二月に入ってそのうち四名遠島、山内与右衛門については、前藩主定英と弟定章との不和の原因を作ったとの名目で切腹を命じ、国老水野佶左衛門の家老職をも免じたのであった。
 久万山へ蟄居を命ぜられた奥平藤左衛門はどこにいたのであろうか、山之内家文書で見ていくと、次のように記してある。
   奥平弾正様山分江蟄居仰付られ、享保一八年九月六日朝西明神村梅木源兵衛方江御出、入野村孫右衛門宅を公儀より御買い上げ、同一二月、孫右衛門宅江御移りなられ候。御人数左之通り
  奥平弾正様  御四男御年八つ 同馬之助様
         御妹子御年七つ おてる様
         御 局     おさよどの
         下 女     あし
         御家臣     松本米助殿
         近 習     大村新助殿
         同       西村平蔵殿
         歩 行     新田源左衛門殿
         ぞうり取    友平
         御中間     角助
 右人数の内源左衛門・角助・新助・源兵衛宅より松山江御戻しに相成候とあり、後許されて松山に帰住したのである。
 この飢饉の経験から松山藩としては、救済の失敗にこりて、災害に対する根木的な対策を立てる必要があったようである。
 飢饉後四〇年ばかり後の安永四年(一七七五)の非常御囲籾の制度というのがそれで、今日の久万凶荒予備組合の起源となっているのである。