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双海町誌

第九節 青年教育

一 農業補習学校、水産農業補習学校
 本県で青年教育が奨励されたのは一九〇二(明治三十五)年ごろからであるが、職業教育はそれ以前の日清戦争後から小学校の卒業生を対象として施されていた。その教育は、職業教育とともに青年男女の教養を深めようとするもので、昼間と夜間の両制があった。地方によっては農業・商業・水産などの一科目を主体として教育を行った。また、明治三十四年には、小学校の義務教育が延長され、高等小学校にも実業教育を奨励するための実業科が設置されるようになった。
 明治三十九年一月十五日、愛媛県知事安藤謙介は郡市長に対して、これまで任意であった青年団体を廃止・統合し、新たに小学校を卒業した青年男女の組織をつくって教育の効果を完全なものにするよう訓示を行った。
 こうして明治四十三年ごろから、小学校を卒業した青年男子を対象とした実業教育の目的をもった補習学校が設置されることとなった。本町にも次のような補習学校が設置され、農繁期及び盛夏を除いて夜間授業が実施された。

上灘地区
・高野川水産農業補習学校
・小網水産農業補習学校
・灘水産農業補習学校
・奥大栄農業補習学校
・柆野農業補習学校
・三島農業補習学校
下灘地区
・池之窪夜学校
・豊田浜夜学校
・大久保夜学校
・豊田奥農業補習学校
・富岡農業補習学校
・満野青年夜学校

当時の水産農業補習学校の学則は次のとおり。

水産農業補習学校学則(原文)
第一条 本校は上灘村立何水産農業学校と称し大字何に置く(何学校に附設する)
第二条 本校の漁業農業に従事し又は従事せんとする者のために簡易なる方法を以って必要の知識及び技能を授くると同時に小学校教育の補習を為すを以って目的とする
第三条 生徒の定員四五名
第四条 教科目は修身、国語、算術、水産、農業とす。但し修身は国語に附帯して授く
 修身、国語、算術は随意科とする
第五条 水産に関する科目は理科、漁撈科、養殖科、製造科とす
 農業に関する科目は土壌、肥料、作物、耕耘、病虫害、畜産、養蚕とす但し生徒は一科目若しくは教科目を限り専修することを得
第六条 各教科目の修了期間を三ヶ年とし毎週教授時数並に課程は別表による
第七条 毎週の教授時数は凡そ一六時間とし夜問教授す。教授始終の時刻は時期により適宜之を定む
第八条 休業日を定むること左の如し
 一、祝日、大祭日、氏神祭日
 二、日曜日
 三、六月、八月、一一月の三ヶ月
 四、二一月二八日より翌年一月三日に至る一週間
 五、其他特に漁業農業繁忙の時期及び地方の慣行又は学校の都合により必要なる場合に於いて臨時休業を為すことあるべし
第九条 本校は随時入学を許す
第十条 本校に入学し得べきものは満一二才以上の男子にして尋常小学校を卒業したるもの就学義務なきものとす
第十一条 本校へ入学せんとする者は甲号書式の入学願書を本校に差出すものとする
第十二条 退学せんと欲するものは保証人連署を以って届書を差出すものとする
第十三条 左記の者は退学を命ず
 一、品行不良のもの
 二、正当な理由なくして引きつづき三ヶ月以上出席せざるもの
第十四条 授業料は徴収せず
第十五条 各教科目の修了は其の修業期間内の出席数及び学業成績に依り之を認定し、乙号書式の修業証書を附与する
第十六条 学力優等品行善良精勤のものには褒状を授与す

 なお、一九一八(大正七)年にはこれらの補習学校に女子部が設置された。また、大正十年にはすべてが農業補習学校となった。


二 青年訓練所
 一九二六(大正十五)年七月一日、第一次世界大戦後の世界情勢に合わせて、青年訓練所が設置されることとなった。これは、ヱハ歳から二〇歳未満までの四か年の男子生徒に対して教育訓練を実施するものであった。なお、訓練修了者は、兵役陸軍二か年の現役期間を半か年短縮されることとなった。
 その後我が国は、一九三一 (昭和六)年の満州事変を契機として富国強兵の国策に拍車をかけ、軍国主義の道を突き進んでいった。昭和七年には五・一五事件が、昭和十一年に二・二六事件が発生し、ついには昭和十二年に日中戦争が勃発した。
 教育もまた、軍事優先の国是に沿って行われていった。昭和初期に実業補習学校が青年訓練所に充当された。


三 青年学校
 軍事優先の傾向はますます強まっていった。一九三五(昭和十)年には青年訓練所が青年学校となり、軍事教練が必修科目となった。青年学校の生徒には訓練手帳が交付され、連隊区司令官の監督のもとに在郷軍人が教練の指導員に任せられて、軍事教練が実施されたのである。ちなみに、第一回の査閲・徴兵検査時には、必ず訓練手帳の検閲を受けなければならないと定められていた。
 更に、部会の行事として、郡内青年学校の連合演習も行われた。
 学校長は、町村長とともに徴兵検査場に臨席するのが慣例となるなど、教育界も軍国色に塗り替えられていった。
 下灘青年学校の昭和十年度と昭和二十年度の概要と行事は、次のとおり。

昭和十年(図表参照)

昭和二十年度(終戦の年)(図表参照)

 青年学校は、軍国主義的な教育を受け入れ、軍人の予備校のような歩みを続けたが、昭和二十年、太平洋戦争の終結とともにその一一年の歴史を閉じた。
 一九四六(昭和二十一)年十二月二十七日、六・三・三・四制の学制改革案が採択され、上灘には上灘中学校が下灘に下灘中学校が設立されたため、青年学校の在校生の希望者はそれぞれ該当する学年へ編入した。
 一方、同年七月、公民館の設置運営についての通達によって、各町村に順次公民館が設置された。やがて社会教育の中での青年学級が発足した。


四 満蒙開拓青少年義勇軍内原訓練所
 一九三二(昭和七)年三月の満州国の建国を契機に、日満両国の不可分関係を実質的に強化して民族協和を実現し、王道楽土を建設することが目標として掲げられた。当時の識者や先覚者たちは、日本人の本土からの移住・定住を計画し、着々と実行に移していった。満蒙開拓青少年義勇軍もその一環として組織された。
 満蒙開拓青少年義勇軍の教育目的は、「わが青少年を編成して勤労報国の一大義勇軍たらしめんがために、全満数か所の重要地点に大訓練所を設けてここに入所せしめ、開拓訓練教育、軍事教練即警備なる現地の環境に即せる方法によりて日満を貫く雄大なる皇道精神を練磨せしめ、これを以って他日堅実なる農村建設の指導精進たらしめ、併せて満州農業経営に必要なる知識技能を修練せしむるにあり」とされた。
 本地域からも、数多くの人々が茨城県の内原訓練所に入所し、二か月の訓練を受けて渡満した。
 また、この義勇軍を理解するための指導者訓練も、内原訓練所で一週間~一〇日間実施された。
農業増産報国推進隊訓練講習
・趣旨 戦時下の農業増産の指導者養成
・時期 昭和十五年十二月ニ十日~昭和十六年一月二日
・人員 全国一万人、愛媛県三五〇人、上灘町二人(大栄の岡田佐一、高野川の中川茂雪の二人が参加した)。
・内容 零下一五度Cの寒気のなかで日輪兵舎に起居して、朝は六時に起床、夜九時までの訓練を受けた(運動一時間、開墾三時間、講演五時問、訓練二時間)
 なお、この訓練は昭和十八年で終了した。


五 戦後の青年教育
 戦後の復興は青年活動なしでは地域の活性化は図れなかった。特に、青年学級振興法により教育の一環として地域の活性化や一般教養の習得、組織づくりなどを積極的に行いながら、ふるさと復興に大きな貢献をしてきた。青年学級での学習活動についての動きを紹介する。

(1) 再 発 足
 一九四五(昭和二十)年八月十五日、終戦の詔勅によって太平洋戦争は終結した。我が町においても、戦場から復員した兵士や軍事工場の徴用から開放された人々が増加していた。とりわけ、職を失った若い人たちが敗戦の混乱のなかで困惑する姿が目立った。
 しかし、空虚な生活ではあっても、そのなかから何かを求める若い人々の動きが出はじめ、各地域で様々な集いがもたれるようになった。そして、戦争中は影をひそめていた盆踊り・村芝居などが復活しはしめた。これに合わせて県下各町村では、大日本青年団の解散によって青年団の再編成・再組織化か始められた。このように戦後の青年団は、素人演芸会や盆踊りなどから生まれてきたといえよう。
 当時は、焦土と化した国土の復興や民主主義の確立に新たな指標を求めて、青年団活動を盛り上げていこうという気持ちの現れが実戦面にも出ていた。本県においては、昭和二十二年の秋に愛媛県連合青年団が誕生した。
 敗戦の窮乏と混乱、国連軍占領下の民主主義政策とその進路、青年たちは世相の動きのなかに揺られながらも、正しい地域青年団の活動によって国家の再建と地域の振興を図ろうとしていたのである。

(2) 青年学級の確立
 一九五〇(昭和二十五)年に朝鮮動乱が勃発し、警察予備隊が設置されるなど、社会は激しく揺れ動いていたが、青年団活動を活発化させようという動きはますます活発になっていった。なかでも、組織運営の改革と学習活動の胎動は、特筆すべきことであった。
 学習の場としての青年学級は、昭和二十三年ごろから、青年自らの戦後における虚脱と自己の知識の無さの反省のうえに立って開始されたといわれる。自己研修の必要から、夜学会・塾・修養同志会などと称する自主的・相互的な組織が東北・九州の農村に生まれ、青年たちによって自発的な学習活動が行われたことが始まりであった。
 その後この学習活動は、勤労青少年教育の重要性と必要性の世論の高まりとともに、全国各地に広がっていった。
 昭和二十八年には青年学級振興法が誕生して、青年学級は「市町村が開設する事業」と規定され、公教育の一環として公費によって運営されることとなった。
 本町においても、旧小学校区ごとに青年学級が開設され、毎週二回(一回三時問)開講された。公民・時事・政治等の一般教養のほかにも珠算・営農・育児などの専門学習もなされた。時には夜を徹しての実習やディスカッションが行われることもあった。
また、このころから映写機やテープレコーダーを使用した視聴覚教育が開始された。

(3) 活 動 期
 当時の青年団活動は、国庫補助による青年学級振興法に基づいて行われた。教育委員会指導による年間二五〇時間にも及ぶ学習活動は、隆盛を極めた。青年学級生の身分証明書があれば、国鉄運賃が割引になるなどの特典もあった。当時コミュニティの拠点だった小学校の家庭科室を主会場に、毎週一回程度学級が開かれた。その指導の任に当たったのは、青年学級主事といわれた地元出身の熱心な兼務教員で、青年たちの生き方に大きな影響を与えた。ラブレターの書き方・テーブルマナー・社交ダンス・青年期の生活設計など、農村漁村の青年教育らしい夜学プログラムには、常時八〇人を超える学級生か集まった。
 昭和四〇年代になると、高等教育の充実や農漁業に従事する若者の減少、更には、青年団活動のレクリエーション活動への傾注などの要因により、しだいに地域問題や学習会などへは人が集まりにくい状態となっていった。
 昭和三〇年代から四〇年代には隆盛期を迎えた青年教室は、戦後から高度成長期の若者たちに公民意識を芽生えさせ社会性を磨くことに大きな役割を果たしたのである。


甲号書式

甲号書式


乙号書式

乙号書式


青年学校 昭和十年度

青年学校 昭和十年度


青年学校 昭和二十年度(終戦の年) 1

青年学校 昭和二十年度(終戦の年) 1


青年学校 昭和二十年度(終戦の年) 2

青年学校 昭和二十年度(終戦の年) 2


青年学校 昭和二十年度(終戦の年) 3

青年学校 昭和二十年度(終戦の年) 3