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中山町誌

二、 盛景寺

  山 寺 号  積翠山盛景寺
  所 在 地  中山町出渕二番耕地一七九番地
  宗   派  臨済宗妙心寺派
  開   創  天平一三年(七四一)行基大僧正
  創   建  弘長二年(一二六二)
  開   山  法燈圓明国師心地覚心大和尚
  開   基  河野周防守通治
  後 開 基  仙波出雲守盛景
  本   尊  十一面観世音菩薩

 由   緒
 聖武天皇天平一三年(七四一)和泉国菅原寺開祖行基大僧正、南海道を巡教の時、この地に錫を留め一草庵を結び、出渕の地を開発、大衆を教化したのが当寺開創のはじめである。
 寺伝によると、ある時行基が川の深渕に柏の大木が沈んでいるのを見つけ、村民の手を借りて引上げ、柏木を彫刻十一面観世音の尊像を奉納、堂宇を建立開眼安座したのが、当寺本尊の縁起とされる。
 その後、行基の弟子慧海によって坊舎を建立尊像を供奉された。深渕から柏を引き出し大悲霊像を彫刻した縁起により、村名を「出渕」と称するようになった。また坊舎を改め寺となし玉泉山柏林寺と号した。その当時、出淵の地は山深い巨樹繁茂で人家も少なかった。
 降って、弘長二年(一二六二)紀州由良西方寺(現興国寺)開祖法燈圓明国師心地覚心大和尚が入寺、荒れ果てた行基の址跡を再興、山号を玉屏山と改め初開山する。
 ~法燈国師はもと真言宗の僧で高野山金剛三昧院で修行、後に人宋建長元年(一二四九)禅仏心宗を伝え法燈派の祖となる。法燈国師当寺入寺までの約五〇〇年余は本山宗派の定めなく法相宗・真言宗の僧が住していた。~
 正中二年(一三二五)、相州鎌倉崇寿寺開祖竺亭心智和尚(聖一国師下南山士雲禅師の法嗣)が予州領主河野周防守通治(大祝院殿故防州刺史日照善恵大禅定門の位牌あり)の招きに応じ入寺董住開堂演法した。
 この時より、河野氏の帰依篤く、伊予郡の内衆八倉村・神崎村、久米郡の内志津川村・久米村等を合せ高五〇〇石を賜わり法山官寺に列せられる。塔頭一二院、黄龍院・震奥院・聖宗院・法林院・神聖院・鳳沢院・天寧院・建元院・麟図院・神護院・檀林院・教乗院甍を並べて寺務を執行したとある。この頃より仏心宗に属し本山鎌倉建長寺末となる。
 観応元年(一三五〇)、七代仙波越後守盛綱(聖宗院殿顕英桓功大居士)は九州蜂起に勲功あり、足利将軍家より越後守に任ぜられ、予州内伊予郡・浮穴郡を賜わり、出渕庄に居城するにあたり、当寺を仙波氏の菩提所として尊崇護持の方法を設け興隆する。
 天文二〇年(一五五一)一二代仙波出雲守盛景、出渕垣生城に城郭を構え、七万八、〇〇〇石の地を管領するにあたり、河野氏と当寺との由緒を重んじ、領内五〇貫の地を寄進、堂塔伽藍を再建、奉仏崇祖仙波氏先祖累代菩提の道場として安堵する。よって、盛景公当寺中興開基と尊称、盛景寺殿前雲州大守見即是性大居士と諡号、元亀二年(一五七一)三月八日出渕垣生に没す(墓碑当寺にあり)。
 天文年間に、一一世学室道明和尚代本山を紀州由良興国寺に転属、後、盛景公の功績を讃え尊称し玉屏山盛景興国禅寺と改号する。
 盛景嫡男一三代筑前守盛政、嫡孫一四代修理亮盛賢、三代出渕に居城、天正一三年(一五八五)土佐の長曽我部が伊予に侵攻し出渕垣生城、伊福城すべて落城一族郎党菩提寺に入り応戦したが、伽藍、僧坊ともに焼失し、一族と住僧も討死、または他国に逃れ四散した。
 慶長一七年(一六一二)一五世諦堂慈光和尚代、時節をまって伽藍を再建旧に復した。一五代右衛門太夫盛忠再建に尽力、祖先の勲功を讃えるとともに出渕村民先祖供養のため、出渕村内六〇〇余戸の村民に報じ当寺を出渕村全体の菩提寺として檀家の縁を結んだ。一六代加右衛門盛益代下野して出渕村初代の庄屋となり、垣生(現豊岡区)に庄屋屋敷を置く(屋敷図あり)、後、文久元年(一八六一)盛俊代庄屋役を大森氏に譲り明治維新に至る。
 正保二年(一六四五)一七世千庵心勝和尚代、京都花園臨済宗妙心寺派に所属した。
 寛延二年(一七四九)二一世中興月半玄明和尚、妙心寺に登り第一座を禀承、予州周布郡長福寺五世天叟慧眞和尚より分法転位、当寺永世維持の法を設け、伝法中興の祖となった。月半和尚代、山号を「積翠山」と改号した(山門額積翠山の書は当時の妙心寺住持實酸大和尚揮毫)。以後、約一〇〇年明治時代まで江戸幕府の寺檀制度のもと檀家六〇〇戸の寺門護持により法燈国師の古刹は法燈連綿として繁興した。
 明治七年(一八七四)二五世震嶺宜楷和尚代、檀家の助力により草葺の庫裡を改築し、木造瓦葺一部二階建四五坪を新築落慶した。明治一九年(一八八六)震嶺代西国三三番観音霊場を勧請し、本堂横に建立開眼した。
 明治三〇年(一八九七)二六世渕岩全恵和尚代、総代太森只衛他檀家総結集、草葺きの本堂改築を発願し、野中・影之浦地区より欅、檜材原木を搬出し、総欅、檜造瓦葺寄棟五八坪を新築した。棟梁は宮大工山口県大島郡西方村の住人、門井宗吉・門井友祐の両人にして明治二七年(一八九四)より出渕に滞在、建築棟梁としての大任を果した。特に本堂内外を荘厳する鳳凰・竜・鳥獣・松竹梅等の彫刻は欅材を素材とした緻密でかつ豪壮な芸術的な作品で後世に残る見事な彫刻技術である。
 大正八年(一九一九)、山門に通ずる参道に赤門(二坪)を建立し併せて参道の一部を石段に改修、同一〇年境内に鐘楼堂の新築と梵鐘鋳造が完成した。
 同一三年(一九二四)、境内地を埋立拡張すると共に練塀を新設落成した。同一四年檀信徒の助力により、四国八十八ヶ所霊場を設立、寺を中心にして門前区各所に安置開眼供養をした。
 昭和五年(一九三〇)二七世松岩文翁和尚代、まず地方青年の教化に努め中山仏教青年会を結成、戦後の社会教育の基を作った。
 昭和一二年(一九三七)日中戦争が起り、急激に戦時体制に入り檀家の青年は戦争の犠牲となり数多くの戦死者を出し終戦になった。
 戦争激化し武器弾薬増産のため梵鐘等仏具全て供出、文翁和尚総代と共に戦後、四阪島や香川県直島などに放置されている梵鐘をたずねたが発見出来ず昭和二三年(一九四八)梵鐘再鋳を発願、香川県立工芸高校の校長小倉祐一郎の指導鋳造により完成、同年七月梵鐘落慶し、人心不安定の中山町に戦後初めて平和の鐘が鳴り響いた。
 昭和三〇年(一九五五)多年の念願であった位牌堂(五六坪)が檀家棟梁岡田常蔵・武田猶信・井手窪弥三郎によって新築落慶した。さらに同年、総檀家出身戦没者英霊堂が設立され、永代に慰霊供養することになった。また、浴室、練塀の改修、参道の舗装を行った。
 昭和四一年(一九六六)二八世積巌道淳和尚代、本山妙心寺派管長古川大航老大師を迎え、御親化授戒会啓建、近年珍らしい盛儀で、宮田町長はじめ町をあげての行事として三日間厳修した。
 昭和五一年台風で山門下六地蔵堂倒壊し、檀家有志、婦人部の助力で子育地蔵尊とともに新築落慶した。
 同年、坪井出身長崎市在住の実業家泉年夫の寄進で赤門移築、本堂前へ舗装車道新設完成をみた。
 昭和五四年(一九七九)開山法燈国師手植えの菩提樹が愛媛県指定天然記念樹に認定された。
 同五五年第二位牌堂建立の議が興り、松本茂明委員長の下で、檀信徒の助力により近代建築の粋を集め鉄筋コンクリート造瓦葺四五坪白亜の法堂が新築落慶した。
 平成三年(一九九一)四月、明治七年建立の旧庫裡が老朽化し、積厳和尚改築を発願した。総代世話人相計り松本吉兼委員長の下、総檀家六〇〇戸を総結集、設計を松山市西龍寺児島永周師、棟梁は檀家の井上幸蔵・久保数満、此下等三棟梁で着工し、延建坪一四〇坪の庫裡書院、九坪余の鐘楼堂新築、附帯事業に境内地切取拡張、裏参道六〇米新設、枯山水庭「龍渕庭」等の諸事業を完成し面目一新、平成五年二月落慶式を盛大に挙行した。

 社会教化活動
 盛景寺無相教会 昭和二九年設立 会員  三〇名
 盛景寺龍王講  昭和三三年設立 会員 四二〇名
 盛景寺心経会  昭和三四年設立 会員  八〇名
 〃花園報恩会  昭和四〇年設立 会員 四五〇名
 花園会婦人部  昭和四七年設立 会員 二六〇名
 花園会青年部  昭和五〇年設立 会員  二五名

 建 造 物

 楼山門(六坪木造二層建)
 土佐の長曽我部軍が伊予に侵攻した時、堂塔伽藍全て焼失し、その後、一六世猷輪元鼎和尚代寛永三年(一六二六)出渕庄屋盛胤代に再建された。県文化財専門員の鑑定によると室町時代の建築遺構とされ、釘類を使用せず一層の上に層を組重ねる築法で正面門と脇門を持ち、中世期の砦としての役目を兼ねる堅固な門である。当寺諸伽藍中最古の建造物で町内最古の貴重な文化財的建造物である。

 鎮守堂(四坪木造)
 法燈国師、当寺創建の縁起により当寺鬼門の北方に戒證山があり堂宇を建立し戒證大明神を勧請した。当寺の鎮守神として古来より尊崇、現在の堂宇は昭和三二年檀家の助力で再興された。東町の人たちによって毎年八月二五日緑日が営まれ繁興している。

 その他の堂庵
 出渕村平沢組 目蓮寺 開祖盛景寺二世竺亭心智和尚正中二年(一三二五)創建、喜永四年(一八五一)再建一五坪、田一畝、高一斗
 豊岡組  別峰寺 年代不詳 地面拾歩
 門前組  国城寺 九坪 除地畑高三斗
 野中組  天満寺 地面一畝 除地田二歩
 影之浦組 天祥寺 地面三間四方
 栃谷組  聖法寺 地面一二歩 畑高二升
 日南登組 南隆寺 地面二間半四方
 福岡組  求聞寺 地面五歩
 浮穴郡中田渡 善福寺、以上九ヶ寺中古以来絶寺、現在小堂のみ存在するも地面、除地ともに相改め上申す。時世転じて山林荒地と相成り、また百姓持分と混雑し、御検地にも相分らずその地所も分り難し、出渕各部落に現存又は廃絶のお堂は中世期末まで一寺として存在、各住職これを維持管理する。   明治五年 震嶺 誌

 仏 像
 本尊 十一面観世音菩薩立像(伝行基作)
 脇仏 薬師如来・準提観音・釈迦牟尼如来・地蔵菩薩・不動明王・章駄天尊・大黒天
 開山像 法燈圓明国師心地覚心大和尚木彫坐像、建武四年(一三三七)竺亭和尚安座開眼

 経 典
 大般若経六〇〇巻 二一世月半和尚代、寛延二年(一七四九)納経、臨済録、碧巌録、無門関、般若理趣文

 書 画
 仏涅槃図一軸 月半和尚代、宝暦二年(一七五二)新添(寺宝) 釈迦出山図一軸朱達磨一軸(蘭渓道隆賛) 達磨大師一軸(一休禅師賛)他達磨大師四軸、開祖禅師頂相、歴代和尚頂相、開基盛景公画像軸、水墨山水図画一軸(雪舟作)、孔子極色彩坐像画軸(中国作)南明東湖禅師真筆三軸、延宝二年(一六七四)県主催伊予の禅僧墨蹟展出品高源室毒湛、南天捧鄭州、南針軒霧海、寒松軒文明、太室無文臨済宗各老師墨蹟所蔵

 古記録
 盛景寺檀家過去帳三〇冊、元和元年(一六一五)以降原本、寺由緒巻物一巻、歴住記

 古仏具
 三重塔木造花御堂 二二世かく宗和尚代、安永八年(一七七九)仙波七郎盛朋・長岡九郎左衛門・玉井与五郎・奥島善十郎寄進 棟梁猪重郎作
  福慧荘厳額 京建仁寺竹田黙雷書施無畏額 京南禅寺河野霧海書
  石字経塚 二〇世曳輪和尚代、安永三年(一七七四) 翁南堂書
  三〈(上)由(下)分〉萬霊塔 一八世智岳和尚代 宝永七年(一七一〇)積公書 諸檀那新添

 記念物
 菩提樹 樹齢七〇〇余年開山法燈国師手植えし樹、県指定天然記念物指定
    中興開基仙波出雲守盛景公四〇〇年忌供養塔
       昭和四六年(一九七一)供養建立

 歴住記
 当寺開山法燈圓明国師心地覚心大和尚
    姓常澄氏 信州神林県人 永仁六年(一二九八)九二才寂
 当寺後開山竺亭心智禅師大和尚
    姓北條氏 相州鎌倉人 暦応三年(興国元年=一三四〇)七九才、平沢目蓮寺寂
 三 世 東庵岱暁和尚大禅師 貞治元年(天平一七年=一三六二)寂 予州北條人 得能氏
 四 世 大嶺祖梅和尚大禅師 嘉慶元年(元中元年=一三八七)寂 讃州金倉郷人真光氏
 五 世 高天心鶚和尚大禅師 応永二三年(一四一六)寂 和州大島郡人 高市氏
 六 世 月舩秀桂和尚大禅師 永享一二年(一四四〇)寂 下野国都賀郡人 壬生氏
 七 世 寂屋義照和尚大禅師 長禄三年(一四五九)寂 作州稲岡郷人 賀陽氏
 八 世 天祐啓通和尚大禅師 文明一二年(一四八〇)寂 肥後国阿蘇郡宮地郷人藤波氏
 九 世 通峰宗信和尚大禅師 明応九年(一五〇〇)寂 河州丹北郡人 藤井氏
 一〇世 戒山文珠和尚大禅師 永正一七年(一五二〇)寂 予州宇和郡山田郷人 三好氏
 一一世 学室道明和尚大禅師 天文一〇年(一五四一)寂 讃州鴉足郡鴉足津里人 佐伯氏
 一二世 鉄翁道船和尚大禅師 永禄八年(一五六五)寂 備後国品治郡人 佐藤氏
 一三世 唯霊心乗和尚大禅師 天正一九年(一五九一)寂 安芸国高宮郡人 和氣氏
 一四世 震巌文梁和尚大禅師 慶長九年(一六〇四)寂 勢州度会郡人 篠原氏
 一五世 諦堂慈光和尚大禅師 天和七年(一六二一)寂 予州周敷郡人 越智氏
 一六世 猷輪元鼎和尚大禅師 寛永八年(一六三一)寂 予州周敷郡人 得能氏
 一七世 千庵心勝和尚大禅師 正保四年(一六四七)寂 予州新居郡人 重見氏
 一八世 智岳心祐和尚大禅師 天和三年(一六八三)寂 予州伊予郡人 今岡氏
 一九世 虚應祖湛和尚大禅師 享保八年(一七二三)寂 幡州姫路郡人 高志氏
 二〇世 曳輪恵海和尚大禅師 享保一八年(一七三三)寂 防州大嶋郡人 青木氏
 二一世 当寺中興月半玄明和尚大禅師 宝暦一一年(一七六一)寂 予州浮穴郡高岸村人武智氏
 二二世 かく宗義柏和尚大禅師 寛政五年(一七九三)寂 予州伊予郡稲荷村人 今岡氏
 二三世 圓宗宜通和尚大禅師 文政七年(一八二四)寂 予州宇摩郡村松村人 石川氏
 二四世 雄岳宜勉和尚大禅師 安政四年(一八五七)寂 予州宇摩郡下柏村人 河端氏
 二五世 震嶺宜楷和尚大禅師 予州宇摩郡下柏村人河端氏、父家徳、母三宅氏 幼年九才、二四世雄岳和尚付出家得度、明治二二年(一八八九)寂七〇才
 二六世 当寺再中興渕岩全恵禅師大和尚 尾州名古屋藤塚人稲葉氏父林太夫三男通政、幼年一〇才 周布郡北條村長福寺伽山和尚付出家得度、名古屋徳源僧堂高源室毒湛老師参禅修行、昭和四年(一九二九)寂六六才
 二七世 再住妙心松巌文翁禅師大和尚、二六世渕岩和尚長男、仙波氏、幼年六才渕岩和尚付出家得度 京都南禅寺南針軒霧海老師参禅修行、昭和五年(一九三〇)住職就任、昭和五一年(一九七六)寂八二才
 二八世 現住 積巌道淳 昭和三八年(一九六三)住職就任

 盛景寺御詠歌 徳をしたいて盛景寺 菩提樹とともにさかえまします
    檀家数五〇〇戸 盛景二八世 道淳 誌