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中山町誌

一、 行政の変革

 明治四五年(一九一二)七月三〇日、明治天皇の崩御で「大正」と改元された。
 大正三年に勃発した第一次世界大戦は我が国に空前の大戦景気をもたらし、産業界は活気づき、全国各地で「成金」が出現した。しかし、次第にインフレとなり生活難の声が至る所に起こった。政府はこの対策に苦心をした。生活難の叫びが全国に波及して暴動化したのがいわゆる米騒動で、大正時代に起こった事件の中で最も国民の耳目を集めた。国内では戦争による工業の発展と人口の都市集中で米の消費量が急増し、農村内部の階級分化が促進され、大正初期まで伸長していた農業生産、特に米穀生産が停滞傾向を示すようになった。保有米が少なくなっていたところに、大正六年の気候不順とシベリア出兵の動きがあり、軍用米の政府買入れを見越しての投機的買占めが行われたことが火をつける結果となった。大正七年(一九一八)一月における米の相場一石二三円七三銭だったものが、八月には五〇円という相場まで出て、「米価頻騰停止するところを知らず」という事態になった。
 このような米価の頻騰は労働者の生活を次第に苦境に陥れた。米騒動は七月二三日、富山県魚津町での米価の暴騰に苦しむ漁民の女房たちの県外移出米の積み込み拒否に端を発し、集団となって米商人・町村役場に対し米価引き下げ、困窮者救済を要求した。この米騒動が新聞などで伝えられると、八月一〇日~一五日の間に全国主要都市に、更に八月中旬以降には農村・地方都市に波及し、全国的な暴動と化した。愛媛県下でも非常事態を防ぐために官民挙げて米価調節・細民救済の様々な対策が急いで講じられた。しかし、米騒動を阻止することはできなかった。八月一四日午前八時、県下最初の暴動が伊予郡郡中町で起こった。その後は、一気に広がり、県下各地で勃発し、松山・宇和島などでは大規模な暴動が起きた。また、暴動にはならなかったが、それに近い騒擾は八月中県下各地でみられた。
 当時の中山村でも八月一七日白昼村民二名が、玉井・大島両米商を襲い、精米機械を破壊すると強迫して、白米廉売を強要し、所轄郡中署に検挙された事件があった。
 米騒動そのものは、自然発生的・散発的に暴発した傾向があり、騒動に加わった群衆も「烏合の衆」視された。しかし、細民・薄給生活者の生活をよそに暴利を貪っている成金や商人たちに対する感情的な反発に、米価調節について適切な施策を実施しなかった為政者への不信と怒りが加わって、「社会的矛盾」を突き、「社会的厚生」を要求する大衆運動となって展開したものである。この点で、やがてより高く、より強い政治運動・社会運動にまで発展する萌芽を包んでいたといえよう。
 時の寺内内閣は騒動に対し軍隊を出して鎮圧したが、責任を負って辞職した。後継の内閣は原敬によって組織された。華族でも藩閥出身でもない原は、平民宰相とよばれて民衆から歓迎され、政党内閣を作りあげた。この頃社会はようやくデモクラシー思想の気風が湧き起こり、政治の民主化を求めて普通選挙運動も高まった。
 民権運動の成果は、大正八年(一九一九)の国税三円以上の納税者の選挙権の獲得となり、政党政治の優勢期となって、同一四年には普通選挙法が実施された。
 第一次大戦中に、軍需景気によって驚異的な発展をみせた日本の資本主義であったが、その発展過程の中に内在する諸々の矛盾が激化した。大正七年の米騒動、同八年の異常な商品投機ブーム、同九年の過剰生産恐慌によって日本の資本主義は全般的危機の段階に入った。大正一二年には関東大震災があり、昭和初期の経済恐慌に中小企業の倒産が相ついだ。
 農家も、米価・繭価の暴落と共に、その他の農産物価格も一斉に下落し、農家の経済は赤字の上に赤字を重ねていった。各地に小作争議や労働争議が起こったのもこの頃であった。
 昭和四年(一九二九)の一〇月アメリカに端を発した恐慌は、世界恐慌に発展していったので、日本経済はダブルショックを受けることになった。さらに、中国のナショナリズム運動の進展とともに協調外交がゆらぎ、昭和六年に満州事変、同七年に上海事変がおこり、結局日本は同八年国際連盟から脱退し国際的にも孤立することになった。この行き詰りの中で、次第に政治に対する軍部の影響力は増大していった。
 昭和一一年、一部の陸軍の青年将校が軍部政権の樹立を目的に反乱を起こした二・二六事件が発生、その後ますます軍部の意向が強くなった。翌一二年に蘆溝橋事件が起き、それは日中戦争へと拡大していった。
 戦争が長期化するに伴なって国内体制も急速に戦時体制に切り替えられ、総力戦に向かっていった。産業報国会の結成、産業組合の拡充・統一などによる農民・労働者の再組織化が図られ、国民を時局体制に動員する国民精神総動員が展開された。翌一三年には「国家総動員法」が制定され、経済統制があらゆる分野で強化された。日独伊三国軍事同盟が結ばれた同一五年には政治組織ではなく官製の上意下達機関である大政翼賛会が結成され、国内体制は完全な戦時体制に切り替えられた。そして、翌一六年(一九四一)一二月八日にはハワイの真珠湾を奇襲すると同時に対米宣戦となり、日本は第二次世界大戦に突入した。
 戦局が長期化の一途をたどる中で、生活の切り詰めが強化され、米の配給制、衣料などの切符制で日用品の統制が進んだ。農村では米麦の供出制が実施され、食糧増産と軍需工場への労働動員が強化された。国民の生活と労働は警察の監視下に置かれ、婦人による防空訓練が繰り返されるようになった。
 日本の敗北も色濃くなった昭和一九年七月、サイパン島の陥落を機に東条内閣が倒れ、アメリカ軍の本土爆撃が激化した。国民生活は崩壊寸前となった。同二〇年(一九四五)広島・長崎に原子爆弾が投下され、八月一五日遂に終戦を迎えた。約四年にわたった太平洋戦争は多大な犠牲の末の敗戦に終った。そしてここから新たな日本が誕生することになったのである。

表4-1 愛媛県の物価の動き

表4-1 愛媛県の物価の動き


米騒動防止の訓令

米騒動防止の訓令