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伊予市誌

一、明治時代の工業

 沿革
 当時この地には、工場と言われる施設はひとつもなかった。一九〇九(明治四二)年に伊予水力電気株式会社の供給によって精米業が盛んになり、三島・灘町・湊町にその数八を数えた。蝋においては数か所の晒し場を持ち、絣木綿織はたいてい家内工業または賃織業で、この織元が一五戸あった。賃織業での一反の賃銭は平均二七、二八銭であった。
 一八七九(明治一二)年ころから三島陶磁器業が盛んになり、一九一〇(明治四三)年ころから大正の初年までは隆盛を極めた。
 これらのことは、歴史編「近代」で詳述しているので、ここでは省略する。

 醸造業
 酒造りは、江戸時代後期から明治時代初期には、主として富裕な地主層が行っていた。伊予市域においても、かなり古くから酒造りをしていたと思われる。
 一八七八(明治一一)年五月、酒造家中で取り決めた条約書には、この度から切り升に相改める、万一違反者がある時は臨時集会を開いてその費用を償わせること、今から改めて切り升をもって酒樽に記載しておくこと、ただし貸し樽は適宜とするとあり、その次に酒造家の名と判が押されている。その中に伊予市域の人として、藤谷豊城・宮内治三郎・宮内直吉・宮内小三郎・宮内保吉・宮内多喜造・林惣五郎・亀城辰蔵・松岡清蔵・友沢甚五郎の名が記載されている(灘町宮内悠四郎蔵)。
 大正年代における酒造家並びに醤油・酢醸造家を示すと第132表のとおりである。

第132表 酒造家、醤油・酢醸造家一覧表

第132表 酒造家、醤油・酢醸造家一覧表