データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

伊予市誌

二、工業の現況

 工業団地
 伊予市の工業は伊予港を中心に発展し、特に地理的・歴史的要因もあり水産加工業や製材業が盛んであった。しかし、近年の道路網の整備、主要国道五六号の拡幅及び四国縦貫自動車道の開通などにより、伊予市を取り巻く工場立地の環境は急速に変化している。
 特に農村地域である下三谷・八倉両地区に、農業と工業が融和した工業団地を整備し、優良企業の誘致を積極的に行った。現在、市内四か所の工業団地に優良企業が立地している。
 《下三谷工業団地》
 一九八八(昭和六三)年完成。現在の立地企業は、ヤマキ株式会社、セキ株式会社の二社。
 《北西原工業団地》
 一九九二(平成四)年完成。現在の立地企業は、明星印刷工業株式会社の一社。
 《臨海埋立造成事業企業用地》
 一九九二(平成四)年完成。現在の立地企業は、マルトモ株式会社、株式会社伊予ブルドーザー建設、株式会社オカベの三社。
 《八倉工業団地》
 一九九四(平成六)年完成。現在の立地企業は、日本通運株式会社、四国リョーショク株式会社、株式会社東洋印刷の三社。

 花鰹製造業
 伊予市における削り節は、その生産量において全国第一位を占め、名実ともに特産品として賞味されている。その起源については、従来調味料として鰹節・ちりめんいりこ・小羽煮干などが用いられていたが、次第に需要が増加してきたとき、栄町の株式会社彌満仁の創始者である岡部仁左衛門が名古屋で削り節を見つけ導入を思い付き、一九一六(大正五)年に削節機を購入し製造を始めた。その後、続いて城戸・明関が同事業を始めるようになり、中羽・大羽鰯を薄片状に削って消費者の好みに合うように考案して作り出したのが、「花かつお」の起こりである。
 初めのうちは、手削り・足踏みなどの原始的なやり方であったが、徐々に機械化された。一九三二(昭和七)年には、岡部・城戸・明関の三社で年生産額一〇〇万円であったが、次々と改良進歩して現在の盛況を見るようになった。

 〈ヤマキ株式会社〉
 一九一七(大正六)年四月、城戸豊吉が栄町で創業。削り機械三台を購入・設置して、花かつおの製造を開始した。一九二一(大正一〇)年に工場を建設し、削り機械を二〇台設置して量産体制を整えた。一九三一(昭和六)年一〇月には、「東京を制する者は日本を制する」の信念で東京支店を開設し、販路拡張を図った。一九三七(昭和一二)年にも設備の拡充を図り工場を建設したが、戦時中の一九四四(昭和一九)年に海軍に工場を接収され全面廃業となった。一九四五(昭和二〇)年九月、終戦により工場が返還され、一九四七(昭和二二)年から生産を再開し、一九五〇(昭和二五)年一一月には株式会社城戸商店を設立して、東京、大阪をはじめ北は札幌、西は福岡に支店や出張所を設置するなど発展していった。一九六五(昭和四〇)年七月、城戸豊吉逝去に伴い、城戸恒が社長に就任した。「信は萬時の本を為す」を社是として伝統の精神を受け継ぎ、革新的・積極的に前進を目指して、一九六九(昭和四四)年一〇月、天然の風味豊かな「だしの素」を開発した。一九七一(昭和四六)年一一月一日には、社名をヤマキ株式会社に改めた。一九七二(昭和四七)年一一月、農林大臣賞を受賞した。一九七三(昭和四八)年二月に新しく本社工場が完成し、カツオパック・削り節自動包装機などが設置され、一九七六(昭和五一)年六月には子会社であるヤマキ産業株式会社を設立し、同新川工場(セットアップ工場)が落成した。一九八〇(昭和五五)年一月に「めんつゆ」の発売に伴う全自動製造ラインが完成。一九八二(昭和五七)年六月に第五期工事が完成し、一〇年計画の施設・設備の完了をみた。その後も、一九八七(昭和六二)年一二月に本社工場にだしの素工場を増設、一九九〇(平成二)年一一月に本社物流センターが完成、一九九四(平成六)年一〇月にめんつゆ新工場が完成、一九九八(平成一〇)年一月に第二工場西プラントが完成と、設備の拡充・充実を図ってきた。その間もストレートめんつゆ、いりこだし、液体天然だし、わかめスープ、浅漬の素、割烹白だしなどを次々と発売し、製品ラインナップを増やしていった。また、品質・衛生管理のレベルアップを図り、国際的な基準に適合した品質保証システムを構築するため、本社工場・第二工場ともに、衛生・品質管理手法の国際基準であるHACCP認定、国際品質保証規格であるISO九〇〇二認証を取得している。
 資本金八、五六〇万円、従業員数六三五人(平成一六年四月現在)、平成一五年度の売上高は三七三億円となっている。製造品を挙げると、花かつお、削りぶし、カツオパック、煮干、めんつゆ、だしの素、だしパック、わかめスープ、進物セットなどである。全国に一支社・七支店一一営業所を持ち、販売先は全国一円に及んでおり、着実に業績を伸ばしている。

 〈マルトモ株式会社〉
 一九一八(大正七)年に明関友一が創業したもので、一九二九(昭和四)年に個人営業を明関合名会社に改組し会社は順調に伸展していったが、一九四一(昭和一六)年に太平洋戦争が勃発したため削りぶしは統制品となり、生産は一時減少することになった。一九四九(昭和二四)年の統制品解除とともに需要も次第に増加し、仕入れのための出張所を長崎に、東京に支店を開設した。一九五六(昭和三一)年、明関友一逝去に伴い明関和雄が社長となり、経営においても父親以上の敏腕を振るった。社是を「和をもって誠心を示す」とし、社訓に「実践」「調和」「啓発」の三つを挙げ、その徹底と家内業から企業への脱皮に力を傾け、発展の基盤を固めた。一九六二(昭和三七)年一一月に東京工場を完成させ、一九六四(昭和三九)年にマルトモ花かつを株式会社と改め、資本金も三、〇〇〇万円に増資した。そして、大阪・福岡・札幌・仙台・広島・沖縄・横浜に各営業所を開設し、販路を広げていった。一九六六(昭和四一)年三月に水産庁長官賞を、一九七一(昭和四六)年二月に農林大臣賞を、同年一一月に日本農林漁業振興会会長賞を、一九七六(昭和五一)年一〇月に労働大臣賞を、一九八三(昭和五八)年二月に六五周年を迎え、同年一〇月には通商産業大臣賞を受賞した。工場も次第に拡張され、一九七四(昭和四九)年九月に市内下吾川に浜田工場が落成しギフト部門として発足。同年一〇月には協力工場としてトモフジ株式会社を設立し、主としてかつお節を製造。一九七六(昭和五一)年四月、市内下吾川馬塚に第二工場が落成し、かつおパックを専門とした。一九七九(昭和五四)年一月に冷蔵倉庫が落成、めんつゆを新発売。一九八一(昭和五六)年一一月に松山市に今出工場を新設、くらげ製品を新発売。一九八二(昭和五七)年四月には、マルトモ株式会社に社名変更した。同年一一月に本社工場が落成し、また八倉工場を新設した。一九八五(昭和六〇)年五月には市内尾崎にチルド食品工場を設立し、一九八七(昭和六二)年一一月に第二期工事が完成。一九九〇(平成二)年一二月にだしの素工場を新設。一九九五(平成七)年九月に仙台工場が落成。一九九七(平成九)年四月、市内下吾川南西原に第三工場が落成し、二〇〇一(平成一三)年六月には同所に新だしの素工場が落成した。
 「衛生安全なくして食品にあらず」を経営理念に、六工場で衛生・品質管理手法の国際基準であるHACCPや適正製造基準のGMPを取得、更に品質管理システムの再構築を目指して国際品質保証規格であるISO九〇〇一の認証を取得している。
 資本金五億四、九八六万円、従業員数五二〇人「平成一六年三月現在)、平成一四年度の売上高は三〇四億一〇〇万円となっている。製造品は、花かつお、カツオパック、削りぶし、ワカメパック、だしの素、めんつゆ、かつおだし、煮干、チルド製品(魚介類ほか)、冷凍食品、レトルト食品、乾珍味、進物セットなどである。全国に四支店・一三営業所・四出張所・一三駐在所のほかロサンゼルス・ソウルにも海外事務所を持ち、販売先は全国一円に及んでおり、着実に業績を伸ばしている。

 〈株式会社 彌満仁〉
 一九一六(大正五)年に、岡部仁左衛門が創業した。海産物商を営んでいた仁左衛門が行商で名古屋に出掛けて行ったとき、たまたま削り節をやっている様子を見て、これは郡中に帰ってやれると希望に胸を膨らませ、急ぎ帰郷した。そして、さっそく郡中近海で獲れた鰯やうるめ鰯などを材料にして、家内工業として花かつおを作り始めた。当時は、削り機械といっても手動式・足踏式で、大変な重労働であった。それが動力機械化され、時代とともに機械が改良され、設備のオートメーション化によって今日の盛況を見るようになった。現在、伊予市の重要生産物となっている「花かつお」の生みの親である。
 一九五五(昭和三〇)年に岡部花鰹株式会社を設立し、一九六〇(昭和三五)年、仁左衛門の後を岡部義雄が継ぎ、一九六二(昭和三七)年にはヤマニ花鰹株式会社に社名を変更した。一九六五(昭和四〇)年に農林省より日本農林規格の認定工場に指名され、一九六八(昭和四三)年に株式会社彌満仁に改組した。その後も、乾物部門を開設し、乾しいたけ販売を開始、だしの素、カツオパックの製造、寿進物の販売などを開始し、業績を拡大した。また、販売面においても、株式会社西ヤマニ・東ヤマニを設立し、販売体制を整えた。一九八九(平成元)年に木村誠が社長に就任し、一九九一(平成三)年、販売会社の西ヤマニと東ヤマニをベストプラネット株式会社と統合し、販売部門の強化を図った。同年、遠赤外線焼軟処理をした原料を使用したソフトパック花子を発売。一九九二(平成四)年には最新設備を取り入れた本社工場が完成し、一九九七(平成九)年に削り節の新製法である遠赤外線加工が「魚節の加工」として、同年六月に特許を取得した。
 株式会社彌満仁は、ペストプラネットグループの最大の製造部門を担当し、独立・専門化したベストプラネットの各部門の一つとして、八〇余年にも及ぶ経験とノウハウを生かしながら高品質な製品を生産している。現在は、資本金六、〇〇〇万円、従業員数一〇九人、年間売上高は一三億円となっている。製造品を挙げると、花かつお、カツオパック、削りぶし、だしの素、乾しいたけ、煮干、切干大根、カットワカメ、進物製品などである。

 製材業
 明治時代の中期ころ、当地方にはわずか三軒ほどしか製材所がなかったが、大正年代に入って次第に製材所が設立され、丸太材・角材が大阪・下関・門司方面に送られた。戦後の復興はまず家からということで、木材の需要は生産をはるかに上回った。そのため、製材所が年々市内各地に建てられて、すさまじい発展をした。昭和四六年の木材・木製品製造業の事業所は五一、従業者数五一二人、製造品出荷額二二億一、九三一万円で、県下一一市中第三位であった。一〇年後の昭和五五年には、事業所数四四、従業者数四〇九人、製造品出荷額六一億七、四八三万円で、更に一〇年後の平成二年には、事業所数三一、従業者数三七七人、製造品出荷額六八億一七九万円と、出荷額は増加した反面、事業所数は減少していった。平成一二年には、事業所数一七、製造品出荷額も二四億七、七三七万円と激減している。

 JAえひめ中央加工部 伊予工場
 当工場は、市内下吾川(新川)において、一九六〇(昭和三五)年五月に伊予園芸缶詰工場、一九六六(昭和四一)年七月に伊予園芸冷凍食品工場、一九七八(昭和五三)年二月に伊予園芸ジャム工場が建設された。そこでは缶詰(みかん・たけのこ・栗の甘露煮など)、冷凍食品(果実・獣魚肉など)、ジャム(イチゴジャム・オレンジマーマレードなど)が製造・加工され、最盛期には約五〇〇人が従事していた。
 しかし、近年の製造業の空洞化による生産拠点の海外移転と合わせて、事業の実施主体である農業協同組合の合併により工場の態様は大きく変化した。現在、工場で製造・加工されている主要品目は伊予柑ゼリー、ごま大学揚げ(冷凍食品)、冷凍ゼリー、スパウチ(飲むゼリー・青汁)などであり、ジャムの製造は行われていない。
従業員は約一二〇人、年商約一四億円となっている。

 四国森紙業株式会社
 伊予事業所 一九六三(昭和三八)年一月、市内稲荷の主要国道五六号沿線に新設され、現在も、ダンボール及びダンボール箱の製造が行われている。平成一五年度の年間売上額は約四四億円、従業員は九五人である。
 工場においては、製紙会社から供給されるダンボール原紙がコルゲートマシン・印刷機により精度の高いダンボール箱に仕上げられ、四国四県の需要先へ販売されている。

 太陽鉱工株式会社 伊予工場
 本社は神戸市中央区磯辺通にあり、伊予工場は伊予市が工場誘致を行った第二号として、一九六四(昭和三九)年七月、市内灘町の元伊予窯業株式会社跡に建設された。当時は重油燃焼灰を原料としてバナジウムを抽出していたが、政府の再資源化政策によって新装置を導入し、環境整備がなされた工場で操業を行っていた。
 現在では、使用済触媒を原料としたバナジウム・モリブデンなどの有用金属の抽出は他工場へ集約し、伊予工場では、抽出したバナジウムを触媒・顔料用に高純度化成品のバナジウム酸アンモニウム・五酸化バナジウムとして製品化し、化学メーカーに納入している。高純度化成品の需要は増加傾向にあるため、伊予工場では、化成品以外の金属バナジウムなど他用途への製品開発を進めている。

 タケチ工業ゴム株式会社
 一九七三(昭和四八)年に市内上吾川に伊予工場、一九七七(昭和五二)年には市内下唐川に唐川工場が新設されたのをはじめ、現在では松山市・砥部町・小田町の五工場が稼動している。
 タケチ工業ゴム株式会社は、創業者で現会長である市内八倉出身の武智義加が、一九五七(昭和三二)年当時の新素材と新技術を用いた独自の工業用ゴムの製造を目指して、神戸に工業ゴム株式会社を設立したものである。その後、松山市の誘致により、農工一体となった工場を目標とし、冷蔵庫のドアーガスケット生産のために、その第一号として松山工場を竣工した。これに引き続き、現在までに順次五工場を建設し、地域産業開発の一端を担ってきた。また、市内上吾川に関連会社である株式会社武智エンジニアリングがあり、各種の金型・治工具をはじめとして全工場の合理化のための機械の企画及び設計など、グループ全体の頭脳としての役割を果たしている。
 これらの工場群で生産される製品は、産業部門で広く使用される工業用ゴム・プラスチック製品など数千種類に及んでいる。特に、唐川工場で生産されている自動車用のディスクブレーキパッキングは重要保安部品としての指定を受け、また、伊予工場で生産されているガス用ゴム管及び建築用ゴムガスケットは、JlS標示許可工場として認定されるなど、高度の技術評価を受けている。そのほか、電波吸収体など特殊なゴム磁石の研究は四国経済産業局の技術改善補助金を受け、また、建築用耐火目地材の研究については、愛媛県地域産業技術改善補助金により完成したものである。生産された製品は、関東・関西をはじめ日本全国に出荷されているが、その一部はマレーシア工場での生産を開始し、需要先を世界に広げている。
 全従業員は四〇〇人であり、そのうち市内の伊予工場・唐川工場及び武智エンジニアリングの従業員は一五〇人である。

 寿東産業株式会社
 一九六九(昭和四四)年四月、松下寿電子工業株式会社の共栄会社として市内下吾川に創業して以来、三五年にわたり電子機器組立加工事業を継続している。現在、資本金四、〇二〇万円、従業員一六〇人で、本社工場のほかに大平工場・粟井工場・大阪営業所を設置し、都市ガス・プロパンガス用警報器、通信機器、タイマーカウンター、エレベーター用受電盤、監視盤などを主に生産している。また、主な取引先は、新コスモス電機株式会社、株式会社アレクソン、オムロン株式会社、日本オーチス・エレベーター株式会社などである。なお、ISO九〇〇二、ISO一四〇〇一の認定工場となっている。

 株式会社オカベ
 一九七四(昭和四九)年二月、岡部悦雄が水産物の加工品である珍味の製造・販売を行う岡部商店として、市内森に創業した。順調に業績を伸ばし、一九八五(昭和六〇)年に、株式会社岡部商会に組織を変更し、一九九〇(平成二)年には、本社を市内市場に移転した。また、一九九八(平成一〇)年に社名変更により、現在の株式会社オカベとなった。
 現在、市内には、主力工場である五色浜工場のほか市場工場が稼動しており、優れた生産システムにより、安全な農水産物などの加工品の製造が行われている。また、東京営業所・九州連絡所を設置し、強力な営業活動により全国への販路拡大にも努力している。グループ企業としては、株式会社宇和海、株式会社伊予乃国、株式会社セトクィーンのほか、東南アジアを重点とする開発拠点であるタイ・オカベ・プロモーション株式会社の四社があり、特にタイ・オカベ・プロモーション株式会社は、海外での生産シフトの整備及び海外における販売ルートの拡充を目的としたものである。
 資本金四、〇〇〇万円、従業員は約三〇〇人で、主要商品には、小魚製品(ごまいりこ、五色煮など)、ロール製品(ハギロール、穴子ロールなど)、浜焼・ミリン製品(アジ、ハギなど)、骨せんべい製品(アジ骨、ハギ骨など)、佃煮製品(海老佃煮、明太子ちりめんなど)、こだわり商品(磯の花びら、揚げちりめん)、その他(ホワイトストロベリー、巨峰チョコなど)がある。商品開発においては、企画開発のみならず、菓子・ペットフードメーカーなどとの共同開発により新分野における商品開発を進めている。同時に、新たな販路として、アンテナショップ、通信販売などへの展開を図っているところである。
 なお、ISO九〇〇一認証を取得。五色浜工場においては、業界初のFDA(米国食品医薬局)のHACCPの認証を取得している。

 セキ株式会社
 一九九〇(平成二)年、伊予市下三谷工業団地に総合印刷工場を建設した。松山市に点在していた二か所の印刷工場を集約したことで、生産能力が倍増するとともに、松山本社と伊予工場間を専用のデジタル回線とマイクロウェーブ回線で繋ぐなど、生産効率も格段に向上した。
 工場竣工以来、毎年設備の増強を図っており、一九九八(平成一〇)年には、完全オーダーメイドのカレンダー専用四色輪転印刷加工機を世界で初めて導入し、ロール紙から印刷・仕上げ加工まで一挙にできるカレンダーオートメーション機は業界の注目を浴びた。また、一九九九(平成一一)年には、印刷品質管理装置を装着したドイツ製菊全判両面兼用八色印刷機を日本で初めて導入するなど、新鋭設備の導入を積極的に行っている。
 伊予工場では、一九九九(平成一一)年一二月、国際規格であるISO九〇〇二の認証を取得、二〇〇二(平成一四)年にISO九〇〇一に更新した。また、自社ブランドの一〇〇%再生紙を開発・商品化し、更に、植物性の大豆油インクの使用により、環境に配慮した印刷物の作成を実現した。二〇〇二(平成一四)年にISO一四〇〇一の認証を取得した。近年では、個人情報保護のJIS認定(プライバシーマーク)も受けるなど、「二一世紀の情報サービス」を新たなキーワードに成長を続けている。

 明星印刷工業株式会社
 一九九五(平成七)年に、松山市土居田町から伊予市下吾川に工場を新築移転した。資本金一、四〇〇万円、従業員九五人、系列会社に株式会社明星企画・株式会社明星コーポレーションを有している。
 最新印刷設備・技術を結集した伊予工場を中枢拠点とし、デジタル・システムによる高品質製版から最終工程の仕上げ製本まで、一貫した自社制作体制をもつ総合印刷メーカーであり、入稿された素材を全てデジタルデザイン化する、業界最先端のテクノロジーを常に取り入れ、いち早くパワーマックG5を導入して、MacOSXベースの製作環境に変更した。また、QRコードの活用、CD-ROM制作、ホームページ作成など、新しい方向性を前面に打ち出し取得している。

 株式会社東洋印刷
 一九九六(平成八)年、伊予市八倉工業団地に伊予工場が建設された。この工場は、東洋印刷の主力製品であるOAラベル使用のモデル工場と言え、データとモノとを結び、工
場の生産や物流の流れを制御する管理ラベルとしての役割を持つ、OAラベルの機能を最大限に活用しながら、OAラベルの生産を行っている。
 工場内は、入庫、製造管理、在庫管理、物流、出荷の各システムと自動倉庫、無人フォークリフト、AGV、コンベアライン、自動出荷仕分け装置などから構成されており、在庫量を判断し生産計画を立て、原材料を発注するのも、原材料の受け入れもシステム化されており、無人である。工場内の作業のすべてが、東洋印刷製OAラべルを核に運用され、製品の迅速で正確な製品管理を可能にしている。
 資本金四、二〇〇万円、従業員六三人の東洋印刷が、OAラベルのトップシェアを保っているのは、東洋印刷の伊予工場が同社製品の最大のユーザーであるからであろう。

 日本通運株式会社 松山ペリカンアロー支店
 一九九七(平成九)年一一月、路線便のターミナル拠点を、松山中央より伊予市八倉工業団地に移した。商業貨物のアワー便、個人向け宅配便のペリカン便、企業向けメール便、単身者の引っ越しを扱う単身パックなど、トラックの混載荷物を中心とした中予地区のメインターミナルとして、地域密着型でよりよいサービスの提供を心掛けている。