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伊予市誌

3 水利技術の発展

 本市の水利源は森川と三秋大池、大谷池、その他多くのため池に頼っていたが、過去何回かの干ばつには施す術もなく、雨乞いや千人おどりを行ったり、水上と水下部落の水げんかで明け暮れることもあった。現在市内に所在するため池は一四三か所で、第105表のため池調書のとおりそれぞれ名称が付けられている。その他にも小さなため池が多数あり、昔から水稲栽培など農業生産の貴重な水資源として活用している。
 江戸時代の池については、本誌「歴史編近世」に掲載されているので、昭和時代に入って新しく築造された池について解説しておく。

 立場谷池
 大平の下部落は、一九三四(昭和九)年の大干ばつでほとんど米の収穫がなかった。それで村人たちは、貯水池の築造を始めた。現在、大平の梶畑に「築造記念碑」が建っている。それに刻まれた碑文には次のように記してある。

  当部落ハ従来灌漑水に乏シク、昭和九年ノ大干バツノ如キ殆ンド秋実皆無ノ災害ヲ被レリ、茲ニオイテ耕地整理組合員等熱心ニコレガ対策ヲ講究シ、貯水池新築ヲ企ツ、時ニ福岡芳芽氏村長タリ、官ニ請フテ国庫ノ助成金ヲ受ケ昭和一〇年八月工ヲ起コシ工程一〇ヵ月、同一一年五月竣成セリ、名ヅケテ立場谷池ト称ス、水量豊富干害ヲ免ルルニ至レリ、依リテ慈ニ碑ヲ建テ之ヲ後昆(子孫)ニ伝フ、
   昭和一一年一二月建之      組合長  福岡芳芽
                   副組合長 福岡亀一
                    他評議員一同

 大谷池の概況
 伊予市上三谷原にあって、大谷川の上流をせき止めて築造された。大谷池は砥部町七折及び谷上山の谷に発し、一・六キロメートルで平野に出て上野との境を北流し再び上三谷に出て、西北に転じて横田へ、西流して南黒田へ、南転して八反地川と合流し、下吾川を通り新川となって海に注いでいる。
 延長は一〇キロメートルあり、扇状地を流れる天井川で砂れきを流出するために、下流の川底はだんだん高くなり平常は水量がまことに少ない。用水は上・下三谷の灌漑を主とし、余水は横田に送る慣例となっている。梅雨のころや秋の大雨のときは堤防が決壊して田面に砂れきが堆積し、被害を受けることがしばしばあった。こうした災害をなくするためにも、この上流に大谷池を築造せねばならなかった。
 なお、大谷川は近年の改修工事により、川底を切り下げて天井川の解消が図られた。

 大谷池築造の経過
 一九二三(大正一二)年南伊予村長武智惣五郎が大谷池築造を発起した。同一三年四月、南伊予村外三か村(郡中村・松前町・北伊予村)耕地整理組合を設立し、次いで一九三一(昭和六)年一月、工事を県営に移し、同年一二月に関係地区用排水工事組合を結成した。同七年一月に第一期導水溝工事を始め、同年五月完工した。同八年八月第二期築堤工事に着手したが、大変な難工事であった。その上、翌九年にはまれに見る大水害で、基礎工事はほとんど破損してしまった。昭和一〇年に堀田教授を迎え地質調査を行い、再び工事を進め、特に漏水防止に一方ならぬ苦心をした。一九四五(昭和二〇)年三月、着工してから一四年の長い歳月を経てようやく完成した。
 これを発起してから二四年、大谷池貯水池の完成によって、水害防止受益面積は八〇〇ヘクタールを超え、直接灌漑による受益面積は五七〇ヘクタール、間接の受益面積を合わすと七〇〇ヘクタールに及んだ。次に大谷池の工事概況を記す。
   形式 土堰堤拱形の堰止池
  堤防直立高    三八メートル
  堤防延長     一九八メートル
  堤防底幅     一九八メートル
  堤防盛上     三六万八、四〇〇立方メートル
  堤防勾配     内法面 三割
           外法面 上段二割
           中下段 二・五割
  堤防内部石張面積 一四、〇〇〇平方メートル
  水深       二六メートル
  貯水量      一八〇万立方メートル
  導水溝延長    一、五五七メートル
  かんがい面積   五七〇ヘクタール
   工事に従事した延人員 三七万二、七〇〇人

 水利慣行
 水利慣行については記録としては別に作っていない。それは次のような原因からである。
 ①既設のため池を満度に利用し、なお不足する水は大谷池より供給するため、部落に対する水量割はなく、分儀石は作らないで七大字にため池がそのまま残されるので、ため池の総水量は九六万立方メートル、これに加え大谷池一八〇万立方メートルで水は十分あるからである。②水利費は七部落が均等反別割とする。③水路使用はいつどこを通るも異議はない、例えば上野に二〇か所の池があるが、従来は各地で慣行があり、田に強弱があったが、大字単位で一本の慣行となり、水利費も安くなる。④水が何時でも田にかかるので、農民の労力は非常に助かる。⑤直接灌漑に対し、大谷池の配水管より上にある田は間接灌漑地域として水利費をとらない。⑥水利係は各字二人の一四人、これは既設ため池の排水及び大谷池より配水を受け補給する。⑦五月中旬と一〇月上旬の二回打合会を持つ。⑧一昼夜は朝七時から翌七時までとする。⑨関係部落配水割は宮下・上野・上三谷・下三谷・横田・南黒田・上吾川、資金は完成時一〇アール当たり六〇円を徴収したが、当時は米一・八キログラムが一二〇円であったから、農民の負担は非常に軽かったわけである。
 この大事業を成し遂げた武智村長は、政治的・経済的難関、また洪水などの困難に遭いながらも、母の激励によって勇を奮い起こし工を起こしてから実に十有余年、昭和二〇年三月遂に完成した。これは武智惣五郎の卓見と至誠の賜であるとして、昭和二三年にこの地に武智惣五郎の頌徳碑が南伊予村外三か町村耕地整理組合の手で建てられた。
 なお、大谷池は築造以来五〇有余年が経過し、老朽化が著しいため、二〇〇〇(平成一二)年から六か年計画で堤体及び洪水吐・側水路・底樋・導水路の全面改修工事を施行することとなった。

 森川
 水源を障子山に発して鹿鳴川・つづら川・鎌谷川・長谷川などの支流を合わせて、唐川・大平を還流し、中村に入り、三秋大池の水をも合わせ、また道前道後平野農業水利事業の水を受けて森部落を流れて瀬戸内海に注いでいる。この川の全長は九キロメートルである。左右の岸は概ね自然のままで岩場が多いが、下流に至ってコンクリートの築堤を設けている。この川は比較的急流で川底は次第に深くなり、したがって多くの堰が築かれている。大正のころまでは石とか丸太を組んだ堰であったため、古くなると大水のときなど堰が落ちて大騒ぎをすることもあった。昭和時代になり、次々とコンクリートの堰に改造されていった。この水は唐川・大平・市場・中村・本郡・森の水田に灌漑され、また、伊予市上水道の水源としての役割も果たしている。

 排水と潮溜り
 伊予市には海抜○メートル以下の水田が二〇ヘクタールあったが、田植え前後の大雨には毎年のように山手の雨水が溝にあふれ、畦を越して一気に海岸の低地に向かって流れ込んだ。特に、大字森・本郡の水田二〇ヘクタールは濁水の湖となって一週間も稲が見えないこともあり、落水後補植しても大減収となった。それで、この水をどのように早く排水するかが問題であった。近年、排水溝・樋門・排水ポンプなどの施設も改善されたが、低地なために干満時だけでの排水では能率は上がらなかった。
 森新開地区の水田は、海に近いことと海より低いため、満潮時には砂丘を通して海水が水田に入り、大きな被害を受けることが多かった。一八〇五(文化二)年のころ、森浜の重右衛門という人が、二重堤防の間に三〇アールに及ぶ堀を構築して潮溜りとし、次の干潮までの安全弁とした。今もなお、「重右衛門堀」といってその名残を留めている。こうした昔の人の知恵と子孫に残してきた業績は、他部落にも多く見られた。

 水争い
 大谷川の灌漑水分配による、上三谷と下三谷の紛争は、長年にわたって干ばつの年ごとに起こり、その間には上下部落で血を流す事件もあった。
 一八八七(明治二〇)年七月、一八九一(明治二四)年七月、一九〇九(明治四二)年七月、一九一四(大正三)年七月には、大きな争議が起きた。しかし、水利慣行としての妥当な解決策は見られなかった。その後、話し合いの結果、一九一六(大正五)年七月に上三谷と下三谷の区長や有志を招集し、郡長が仲裁役をとって誓約書を取り交わすことになった。それを掲げると次のとおりである(大字下三谷区長保管)。
  誓約書控
 大正五年七月九日南伊豫村大字上三谷区長武智惣五郎・同大字有志武智安太郎・村上丑八・高橋重次郎、同村大字下三谷区長日野健三郎・同大字有志村上敬忠・松野市平・武智源太郎の八名は郡長の招集に依り、郡長に対し南伊予村長玉井和三市・伊予郡書記武田嘉四郎・同向井広右衛門立会の面前に於て左の通り誓う、

  一、南伊豫村大字上三谷対大字下三谷の大谷池市の井手堰及乙井手堰分水事件は、従来しばしば紛議を生じたるも、現下の国情及び町村自治発達の為、円満平和を旨とし、争論を避け従来の慣行に依り、互いに徳義を重んじ誠意事に当り、若し配水上不穏当の行為あるに於ては、自分共極力之を防止矯正することを誓う。
     大正五年七月九日
                 南伊豫村大字上三谷
                    区長  武 智 惣五郎
                    有志  武 智 安五郎
                    有志  村 上 丑 八
                   同村大字下三谷
                    区長  日 野 健三郎
                    有志  村 上 敬 忠
                    有志  松 野 市 平
                    有志  武 知 源太郎
             立会人 南伊豫村長  玉 井 和三市
                 伊豫郡書記  武 田 嘉四郎
                 伊豫郡書記  向井 広右衛門
  伊豫郡長  植 田 延太郎殿
     右郡役所に於て原本に依り謄写す。
       大正五年七月十日     区長  日 野 健三郎

 この誓約にもかかわらず、一九一七(大正六)年七月の水争いは最終的手段をとって、翌大正七年、原告代表日野健一(下三谷)は被告代表武智惣五郎(上三谷)を相手として訴訟を起こした。その後も両部落ではたびたび協議を重ねた結果、従来模範村として知られてきた南伊予村が内紛を続けていることは将来村の発展によくないとの意見一致を見てこの訴訟を取り下げ徳義を持って慣行を重んじていこうということになった。
 下三谷での総会決議録と訴訟取り下げのときの覚書を掲げると次のとおりである(下三谷区長保管)。

 大正七年七月
   番水の件訴訟提起に係る大字惣会決議録
                     南伊予村大字下三谷
  一、村内部落間に紛議を生じ殊に詔庭に事を争うは、自治体の本義に背くのみならず優良村として表彰されたる、本村の面目を汚すは遺憾の極み、敢て為すべきものにあらざるも、祖先以来我が下三谷古有の水利権を侵害し、多年主張の武器たる証拠書類の時効に係り、煙滅に帰するの恐れあるに於ては、一日も猶豫すべき場合にあらず、一同涙を呑んで蹶起、止むなく是非曲直を詔庭に争い、年来の屈辱をそそぎ、以て証拠書類則ち特有の水利権を保全せしむべし。費用の如き躊躇するべきものにあらず、大正四年七月部落総集会決議の精神を遂行することに一決せしが、猶慎重の体度を採り、明九日早朝部落民大会を開設し、利害得失を考究の上進行することとし、上三谷に対しては村長より、我下三谷決議の実態を具に開陳し、敢て感情を害せざる様移牒を乞うと同時に、本年度番水開始七月二十一日は絶対に不同意なることを、明確に伝達せられたき事を依頼することに決し散会す、時に午前二時、
    七月二十日区長日野健一・中村清市両名玉井村長を訪問し、(午前六時四十分)前日来の労を謝す、
    番水期日七月二十一日は絶対不同意なり。遺憾乍ら祖先の遺訓旧記慣行を保全し、水利権の確認を求め、百年の大計を定め、両部落間の禍根を一層し、以て将来相互の親善を望まんとせば、此の際法の上に於て決定を乞うの外なく、万止むを得ざる次第なれば、村長宜しく上三谷に於て、悪感情を惹起せしめざる様伝達ありたしと、評議会議決の精神を詳細に陳述せり、
    玉井村長曰く、訴詔の提起は村治上遺憾とする処なり、成るべく平和に進行を望む。期日は不同意たりとも、若し後日に至り上三谷より番水開始すると言わば如何にするや、
    日野区長曰く、番水開始せば当然引用するのみならず、任意開始を迫ることもあるべしと答え帰る、
                    (村長自宅にて対談午前九時)

    覚  書
   今回南伊豫村大字下三谷日野健一外十八より、同村大字上三谷武智惣五郎外十四名を被告とし、提起したる大谷川番水期確認の訴訟は、意思疎通の結果徳義に訴え、合意の上訴訟を取下げ、互に旧来の慣行を重んじ、番水を開始するにより、爰に円満の解決を見たり、依て本書を作成し、併せて双方共将来特に誠意を以て交際することを制約す。
    大正七年十月
         南伊豫村大字下三谷 原告代表  日 野 健 一
           同村大字上三谷 被告代表  武 智 惣五郎
           同 村 長 仲裁人  玉 井 和三市
         原町村大字麻生 同    窪 田   章
         同 村大字同  同    相 田 梅太郎
        北伊豫村大字徳丸 同    遠 藤 良 貞
         松山市大字西町 同    御手洗 忠 孝

 このほかにも、一九〇九(明治四二)年のころ、中村・森・本郡の百姓三〇〇人がみの・かさを付けて身を固め、手に手に鍬や棒を持って築分池に勢ぞろいをし、当時の年行司藤井丑松らを攻め上げようとした。それを耳にした丑松の親友は驚がくして早速三秋に飛んで行き事の重大さを詳しく話したので、年行司も直ちにその対策を練り、また時の村長永井貞市の仲裁によって流血の大事にはいたらなかった。
 以上述べてきたように、水利に関しては幾多の難問題を抱えてきたが、大谷池などの大築造で水利問題は大いに緩和された。その後、園芸の発達とともに農業用水の需要は大いに増したが、道前道後平野農業水利事業の完遂と経営的・技術的進歩に伴い、本市においても三秋、森の一部を除いて果樹園全域にかん水施設の完備を見たが、今日では施設は廃せられた。

第104表 伊予市のため池調査書総括表

第104表 伊予市のため池調査書総括表


第105表 ため池調書①

第105表 ため池調書①


第105表 ため池調書②

第105表 ため池調書②


第105表 ため池調書 ③

第105表 ため池調書 ③