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伊予市誌

2 池の築造

 池普請  
 谷上山頂から眼下に広がる平野を眺望するとき、池の多いことに驚く。伊予市には川らしい川は森川だけで、昔から田へ引く水に苦労してきた。それでいきおい池普請が百姓にとって大切なことであったにちがいない。
 一七五四(宝暦四)年五月の「御替地此方御領地道法帳」(市場、『佐伯家庄屋文書』)め中に池数覚えとして、次のように記録している。

<池の名>  <長 さ>   <横>   <土手高さ>
たち場谷池   三六間     六間    二間半
谷田池     一〇間     九間    二間
片山池     一〇間     三間    一間
同所池      七間     三間    一間一尺
同所池     一〇間     三間      八尺
下行山池     八間     四間    一間
誓盧寺池    一〇間     四間    二間二尺
            〆 七カ所 新谷御分 (唐川分)

<池の名>  <長 さ>   <横>   <土手高さ>
堂ノ谷池    三四間    二一間    三間半
野が谷池    四二間    一二間      九尺
石原小池     七間    一二間      六尺
四つ森池     五間     三間      六尺
同所池      六間     三間      五尺
かじや奥池    四間     二間      六尺 
ふちおく池    六間     三間    二間
            〆 七カ所 大洲御分 (大平分)

池数覚 市場村
<池の名>  <長 さ>   <横>      <土手高さ>
新池     二〇間四尺   二〇間三尺
中池     三〇間一尺   二一間
石渕池    六一間五尺   一七間二尺
山田池    三〇間三尺   三九間三尺
大道寺池   一六間三尺    六間
がろうと池  一七間一尺   一五間
門田池    一六間     一六間
塩取場池   二三間一尺   一七間

池数覚 稲荷村
<池の名>  <長 さ>   <横>      <土手高さ>
笠谷上池   六一間     二六間
同所下池   三四間     十八間一尺
菊所池    三七間五尺   三五間一尺
八幡池    二五間四尺   六七間
山畑池    二七間一尺    七間
東池     六四間三尺   六五間九尺
但し大洲御領米湊村の分水仕まつり候
古田池    二六間三尺   二四間三尺
加国池    一六間半    一七間

 一八二〇(文政三)年五月の「御普請池年数御普請・井掛夫所改」(『上吾川村宮内家文書』)によると次のように記録されている。

  八幡池出来    一六四五(正保二)年以前上樋一七五二(宝暦二)年樋取口
  かよい谷池出来  一六六四(寛文四)年一七八六(天明六)年樋取口
  長間池出来    一六四五(正保二)年以前
  小泉池出来    右同前
  布部池出来    右同前
  市ノ坪池出来   右同前
  穴田池      一七九七(寛政九)年樋替え
  称名寺池     一七九二(寛政四)年樋替え
  池田池出来    一六八八(元禄元)年
  野々久保池    一七七三(安永二)年八月樋替え
  十合池      一七九〇(寛政二)年樋替え
  雁又池      一七八八(天明八)年樋替え
  竹の宮池     一七九三(寛政五)年樋替え
  生田池出来    一七八二(天明二)年

 一七五一 (寛延四)年二月の「上野村池々覚書」(上野『玉井家文書』)には、次のように記されている。

   一、郷之下池 西東五五間・北南五〇間、樋長一六間程・樋口四寸二四寸
    但、樋替当年で一三年になる。この池は御替地後に出来たので当年まで九八年程になる。(一六五三年承応ニ年ころ)
   一、同所上池 西東四五間・北南四七間、樋長一三間・樋口四寸二三寸五分
     但、樋替当年まで二三年になる。出来たのは前者より二、三年後らしい。
   一、立岩池 東西二四間・南北二二間、樋長九間・樋口三寸二三寸八分
    但、樋替当年まで二八年程になる。この池は一六五三(承応二)年ころに出来た。
   一、下屋敷池 東西一七間・南北一三間、樋長六間・樋口三寸二三寸
    但、樋替当年まで四年になる。この池は御替地にならないうちからあったが、年数はわからない。
   一、とどご池 東西一二間・南北一〇間、樋長五間・樋口三寸二二寸五分
     但、樋替当年まで五〇年ほどになる。
   一、正元寺池 東西九間・南北一〇間、樋長四間・樋口三寸二一寸五分
     但、樋替年数はわからない。
    〆池数六つ
   一、御公料長尾池 御公料になって当年まで三九年になる。松山領の時分からの古池である。

  右の外自分小池
  権現前       同前         同前
   一、喜三兵衛池   一、七郎右衛門池   一、長左衛門池
  谷田        同前         医光寺
   一、重右衛門池   一、本願寺池     一、儀右衛門池
  丸田        からへ        伊替の上
   一、小右衛門池   一、弥之平池     一、惣兵衛池
  あせ田       立岩         同所
   一、三右衛門池   一、彦兵衛池     一、半右衛門池
  きしゃの木     正光寺        籠田
   一、弥三兵衛池   一、徳右衛門池    一、次兵衛池
  小池〆一五 但、池という程のものではない。

 これらの池の土手積み上げ、井手さらえ、樋取り替えなどに各戸から役として毎年出動しなければならなかった。
 一八〇七(文化四)年には称名寺池などに七四人役、一八〇八(文化五)年には称名寺池・長間池・八幡池などに一四二人役、一八一○(文化七)年には市坪池・長間池などに三七九人役、一八一一(文化八)年には四四〇・九人役というように大変な労役であった。
 このことは、他の村々においても同様で、田へ引く水のためには進んで池普請に協力をした。
 それにもかかわらず、干ばつもたびたびあった。どのようにして水を確保するかということに、庄屋たちは悩んだ。そして池を造ることに心血を注いだ。

 三秋大池 
 この池は特に多くの村々の田地に対し、かんがい用水として大いに役立っている。一八一〇(文化七)年一一月の「覚」によると、回りが一四町一二間(一、五六〇m)、樋長二六間・樋口五寸に七寸である。昔は姥か谷と呼んでいたが、一六四七(正保四)年御普請奉行国領太郎右衛門が重上げ普請をされたときから、池の名を大池と改めた。その後一六六三(寛文三)年に重上げ普請があり、このときから下三か村(中村・森村・本郡村)は、池床になった山田の徳米弐石七斗四升五合を三秋村へ渡すように奉行からいわれ、一か村から九斗一升五合ずつ納めることになる。一七二四(享保九)年重上げ普請をする。一七四八(延享五)年樋替え普請をする。一七七二(安永元)年、樋替えと三尺(一m)の重上げ普請をする。一七七八(安永七)年土手修繕普請をする。
 こうした度重なる重上げによって、池は段々と拡張され、したがって三秋村と下三か村との間に、裁許水についての証文が、下吾川村庄屋栄助と黒田村庄屋鷲野梅三郎を証人として、取り交わされた。

     三秋村大池証文の事
   一、三秋村大池底水五尺古法の通り三秋村これを取らるべく候、但し樋前の所少しの溜りを離れ、並びに溝立ち候所を除き、年々しえ候故五尺さし取水の事
   一、底水五尺より上は四っ分に致し、四か村勝劣無く配分致すべき事
   一、この度の重上げ役入用の儀、享保年中の通り、拾四壱つ三秋村へ割賦致し候、その上御分より御村方へ拾四壱つの半分中村へ、右拾四壱ツ引残りを三つ割り、壱つ分半方下し置かれ候、但し年々入用樋替取繕役入用、先規の通り七つ壱つ割賦中すべき事
   一、除け土俵留めは申すに及ばず、何にても留め申すまじく候、並びに片山井手は自由に高さ壱尺の切石すえ置き申すべき事
   右の通り四か村庄屋役人相揃い相談の上相究め、証文御渡し申し候上は、後々年に至る迄違乱無く相守るべく候、相互に和談仕まつる池の儀に付き、少しも申し分仕まつり申すまじく候所、後々年の為仍て件の如し、
   文化六己巳年九年    本郡組頭      惣五郎(印)
               同         吉左衛門(印)
               同村 庄屋  片岡 仙  六(印)
               森村組頭      平右衛門(印)
               同        浅之丞 (印)
               同村 庄屋  永井 房右衛門(印)
               中村組頭      金  吾(印)
               同         市右衛門(印)
               同村 庄屋  武知 八  郎(印)
                      伊藤 久右衛門(印)
   三秋村御庄屋   得能 六郎左衛門殿
   同村       組頭衆中
  前書の通り相違御座無く候、この度重上げに付き両人共に取扱い仰せ付けられ、和談に及び前のか条御窺い申し上げ相究め候上は、後々年に至る迄も違乱御座無く候、巳上
                黒田村庄屋 鷲野 梅三郎(印)
               下吾川村庄屋    栄 助(印)

 水面倒 
 池仕成りについて規約を定めていても、渇水で池水が届かないとき、農民たちは背に腹はかえられぬと、水番方を襲ったり、分水関を壊したりの面倒を引き起こした。一七九八(寛政一〇)年六月、下三谷村から上三谷村へ、大谷川筋市ノ井手・乙井手番水のことで水論があった。水上にある上三谷村が下三谷村へ昔の規約通り水を流してくれないので、蔵元の郡中代官へ訴え出た。明け方近く、百姓一統は既に岩崎土手に出て来ていた。庄屋役人共は駆け付けて話し聞かせたが、百姓一統は番水に当たり水番を遣わしても、二日とも上三谷村に水を取られ、今日は半分ずつやるといっても承知できないという。庄屋と役人との間でいろいろ話し合い、百姓たちに今日のところは家に帰るようにと説き伏せているところへ、郡奉行の阿部伊兵衛と佐々木寿平が通り掛かり、何事かと尋ねられ、右のようすを話した。二人は両方とも早く引き退くようにいわれた。百姓一統はいっこう動こうとしない。そのうち午前八時にもなり、百姓どものいうには、「今日の水当村へ取り候様御取計い押して御歎き申上候」と。庄屋両人(上三谷村・下三谷村)は、そういうことであれば、ただいまから番水残らず当村へ流し遣わそうといったので、百姓一統は承知し、なおまた、先例の通り今後も栽許してくれるようにと願って、いずれも帰宅した。この水論について、同年十二月、代官永田権太夫から下三谷村へ、次のように達しがあった。

  村方岩崎池掛井手乙井手先年よりこれあり候処、当夏上三谷村分水の儀に付、彼是面倒出来いたし願出候に付、双方吟味を遂げ候処、両村申し候所道理これなきにあらず候えども、先年より下三谷村へ分水の乙井手に相違これなく候えば、水の多少により次の市の井手分水の通り、番水に申付け候条其旨相心得え、以来水の多少によらず番水の規矩(規則)、双方申合せ怠りなく相守り、争論躰これなき様相心得申すべきものなり、
  (下三谷公民館保管『文書』)

 一八一八(文化一五)年三月「此度水面倒これ有り候に付、一統承り沖合見分の上、以来水締合書付相渡し申し候」と、岡文四郎、兵頭平助両代官名をもって「水締合口達覚」(下三谷公民館保管)を送っている。それには植え付けのとき、池樋ぬきのこと、追水のとき、渇水のときは先ず庄屋所へ申し出ること、池水番方のこと、など八か条にわたって書いてある。

 八幡池市之坪池水面倒一件 
 これは一八〇九(文化六)年六月に下吾川村から、両池水掛りのことについて面倒が起こり、上・下吾川村とも相譲らないので、一二月一三日湊町村宿において、釣吉村庄屋阿部万左衛門・森村庄屋永井芝房右衛門が仲裁に入り、何とか承知させた。翌年正月一七日大洲藩から御手代藤久四郎・平田太平両入が出張して来て、村役人を呼び寄せ事情を聞き、池々を見分した上、村中総寄せして一統へ水掛りのことを言い聞かせた。これによって一統承知して帰宅した。
 一七八二(天明二)年の「布部新池証文」(上吾川『宮内家文書』)によると、次のように上吾川村から下吾川村ヘ「一札」入れている。

  当村布部へ此ノ度新池御普請仰セ付ケラレ候、之ニ依リ春ニ至リ、下分池へ水溜り申サザル内ハ、新池水口一向明ケ申ス間敷(マジク)候、勿論(モチロン)夏矢草水両村有リ来リ之池へ満水致シ候迄者(ハ)、右新池へ掛ケ申ス間敷候、是迄水掛ケ来リ之池へ満水致シ候ハ、右新池へ掛ケ申スべク候、右之通申シ談ジ候上者(ハ)、後々年ニ至ル迄毛頭違乱御座無ク候、後証ノ為件(クダン)ノ如シ
                    上吾川村組頭 六兵衛
    天明二壬虎年二月三日      同断     佐平治
                    同断     与三兵衛
                    同村庄屋   利右衛門
      下吾川村御庄屋 治右衛門殿
      同村 御組頭  丈右衛門殿
      同       庄兵衛殿
      同       文右衛門殿

 これに対して下吾川村庄屋・組頭からも一札を入れ、「証文取替セ候上ハ後々年ニおゐて何之故障も御座無ク候」といっている。池へ水を溜めることについても、大変な気の配りようであったことがわかる。