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伊予市誌

3 麻生水論

 井手争論 
 重信川流域野つこ柳の下に、昔から八瀬という大石堰があり大川水を堰き入れて用水としたが、ここを「八瀬水」と呼んだ。ここから古樋井手の水路は、上麻生村(大洲領)・下麻生村(新谷領)の用水となり、一之井手の水路は南神崎村(宮ノ下村・上野村・大洲領・天領)・徳丸村(松山領)・出作村(松山領)・八倉村(大洲領)で、両井手は並行しており、しかも古樋井手は一か所掛樋で一之井手の上を横切るところなどもあった。関係村々はもとすべて松山領であったものが、替地によりまた公領の出現などで、所領関係は錯そうしていた。干天の年などは必ず水論がぼっ発したが、常にこの二つの井手にからむものであった。

 水論沿革 
 水論は一七〇三(元禄一六)年に端を発したといわれ、一七二四(享保九)年干ばつの折も古樋切り落とし問題で争論となったが、定法を定めておさめたという。宝暦以後には争いは頻繁になった。
 一七五五(宝暦五)年 泰みち(ぎょうにんべんに令・ちょく)時代
 この夏大干ばつで、森松村(松山領)は新関を作り八瀬水を取り込んだ。ために麻生村の田は干上がったので、麻生村民は押し寄せて関を破ろうとした。森松村・井門村(松山領)はこれに抗して、双方二〇〇余人の投石闘争となった。麻生勢が勝って新関は崩された。
 一七六一(宝暦一一)年 泰みち(ぎょうにんべんに令・ちょく)時代
 宮ノ下と上野が八倉・徳丸・出作各村と申し合わせて古樋を引き落とし、その上麻生村へ乱入して、「老人子供ともいわず打擲し、公領を鼻にかけて狼藉」した(『大洲旧記』)。怒った麻生方は押し返し、直ちに関を復旧、三〇〇人近くが騒ぎ立った。新谷方から稲荷村庄屋向井九兵衛、大洲方から下唐川村庄屋菊沢与八が出張して鎮圧しようとしたが聞き入れず、藩のさばきでようやく静まった。
 一七六二(宝暦一二)年 泰武時代
 この夏森松村がまた新関をしかけ、これに加担した松山領浮穴郡二四水村は一致して二〇〇余人がその関を守った。これは八倉・宮ノ下・両麻生四村への用水を妨げるので、四村の八〇〇余人が攻めかかり、森松勢を退けた。
 同年松山領浮穴郡上野村が川上川芝へ新関を設けた。上麻生村がこれを落とせばその上へまた関を作り、幾たびかこれをくり返した。浮穴郡五〇〇余人がこの関を守ったので乱闘となり、双方手負いも多かったが浮穴方は退いた。
 こうした紛争を解決するために、天領及び各藩から二人ずつの庄屋が立ち合って協議し、ようやく一七六四(明和元)年一〇月覚書を関係七か村へ交付して一応平穏となった。

 明和水論 
 泰候時代の一七七一(明和八)年は大干ばつであった。六月八日八倉・宮ノ下・上野・徳丸・出作などの七〇〇人の集団が、古樋井手を切り落としたため、両麻生勢と矢取川で乱闘となった。激しい争いで即死六〇~七〇人と喧伝された。事実は宮下村六兵衛、八倉村作左衛門の二人であったが、騒ぎが大きかったこと、天領から死者の出たことなどのため、大洲藩も公式に幕府に届けねばならなかった。同年一二月一五日には勘定奉行松平右近将監から、関係者を備中代官所へ差し出すように命ぜられた。各村の庄屋・組頭・百姓代など三〇八人が、翌明和九年二月備中へ出頭した。当時備中代官所陣屋は倉敷にあり、出張陣屋が笠岡に設けられていた。
  (イ)倉敷代官所  代官万年七郎右衛門取調
      下麻生村  八倉村  徳丸村  出作村
  (ロ)笠岡代官所  代官野村彦右衛門取調
      上麻生村  上野村  宮ノ下村

 引致された者の内、上下両麻生村の者ははじめから加害者扱いで牢舎に入れられたが、他はおのおの宿預かりという形であった。両麻生の者は、一年以上も投獄の責め苦に遭った。ああした乱闘の際のこと、発議者も加害者も明らかになるはずのものでなく、白状のしようもなかった。審理の途中で責任を負う決意を固めた下麻生村組頭兵右衛門が、発議者であると名乗り出たことで大詰めとなった。一七七三(安永二)年春、口供書がすべて終わったが、吟味はなお続行された。
 一七七四(安永三)年二月二三日、倉敷において野村彦右衛門の判決があった。兵右衛門は死罪、その他は重追放・村追放・科料等さまざまであった。兵右衛門の刑は即日執行された(『加藤家年譜』・『江戸御留守居役用日記』・『大洲旧記』・「御替地古今集」・『愛媛県農業史』菅菊太郎)。