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伊予市誌

二、教会

 日本基督教団郡中南教会
 伊予市稲荷甲九一の一番地にあって、牧師は小林秀樹である。
 当教会は一九二六(大正一五)年五月一日、旧日本アライアンス教団のミス・フランシス、ミスター・フランシス両宣教師並びに大江邦治・緒方繁造両師により、伊予郡内開拓伝道の目的をもって、郡中町で八日間の天幕伝道を行ったのがその起こりである。
 そして同年五月七日、郡中町の中上悟牧師によって、郡中南教会が創立された。その後、一九五〇(昭和二五)年八月一五日、郡中町米湊中の町に、一二二坪余(四㌃)の土地を求め会堂(三七坪)と牧師館(二三坪)を建築した。続いて翌年四月一〇日、教会内にさくら幼児園を開園した。牧師は、第一代中山悟、第二代白倉正雄、第三代小林寿、第四代桑原重夫、第五代米岡寅次郎、第六代藤井創と引き継がれている。
 教会の行事としては、毎週日曜日に教会学校を開いて、朝一〇時一〇分から礼拝を行い、夜七時半から伝道会を開くほか、毎週水曜日に祈り会を開く。また、毎年四月には復活祭を、一二月にはクリスマス会を開催したり、毎月信徒家庭集会をもったりしている。
 教会の施設は、敷地の中に礼拝堂(会堂)と牧師館がある。
 信徒は現在、約二〇人である。

 伊予アライアンスキリスト教会
 伊予市米湊八六八の二一番地にあって、副牧師で、岡本やよい師である。
 一九八五(昭和六〇)年日本キリスト教団郡中南教会より分離し、本来の団体に復帰した。現在の建物は一九九八(平成一〇)年建造の木造二階建で、礼拝堂・牧師館がある。信徒は現在約三〇人である。

 日本基督教団郡中教会
 伊予市灘町一七三の一番地にあって、牧師は作田和夫である。
 当教会は一八九一(明治二四)年ごろから、松山キリスト教会の伝道師松岡卓が、一か月二回ぐらい出張伝道をしていたが、一八九九(明治三二)年正式に教会として届け出をした。当時の届出書には、次のように記録されている。
 名 称 郡中基督教会
 所在地 郡中町大字灘町一七七番地
 敷 地 宅地三畝一五歩
 建 物 一棟借家一八坪五合
 宗教名 日本組合基督教会
 会 員 三九人
 その後一九四一(昭和一六)年教団の統合によって名称が日本組合基督教会から現在の日本基督教団と改められた。
 教会の行事としては、毎週日曜日の礼拝のほか、聖書研究会や信者の家庭集会を随時行っている。
 教会の施設には、礼拝堂一棟があり信者は現在約一〇人いる。

 カトリック郡中教会
 伊予市米湊七五六番地にあり、主任司祭はハビエル・レチョンである。
 太平洋戦争が終わったころ郡中町には少数のカトリック信者があり、当時は松山市三番町の教会に属していたが、信者が次第に増加したので、一九五三(昭和二八)年に、初めて郡中カトリック教会が独立した。そして初代主任司祭には、ドミンゴ・レデスマ(四八歳)が司教区の任命によって着任した。現在は主任司祭ハビエル・レチョンを中心に老若男女の信者たちは、熱心にミサに参加し平和で静かな教会雰囲気を作っている。
 行事としては、毎週日曜日の礼拝、四月のキリスト復活祭、及び復活祭後五〇日目の聖霊降臨祭などを行っている。
 教会の施設は、一九五四(昭和二九)年、司祭館とまかないの家ができた。日曜ミサは幼稚園の広間を使用していたが、一九五九(昭和三四)年に、ようやく礼拝堂(木造モルタル塗り五〇坪)が建築された。
 なお、同一敷地内には、教会設立と同時に開園した幼稚園(天使幼稚園)がある。