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伊予市誌

一、沿革

 キリスト教は一五四九(天文一八)年にイスパニヤの宣教師フランシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸して初めて我が国に伝え、次第に全国に広まった。一五八七(天正一五)年豊臣秀吉が突然伴天連追放令を出してこれを禁じた。しかし、その後も各地に隠れてその布教をしたり、入信する者があった。徳川幕府は一六一三(慶長一八)年全国の寺院に対して宗門取締規則を出した。この規則は仏教寺院を取り締まる規則ではあるが、一面には仏教を取り締まることによって、キリスト教を滅ぼさせようとしたものであった。全文一六か条にわたってキリスト教をはっきり邪教と称し、邪宗門の者によく注意して取り調べを怠らないようにする。もし一か条でも背くことがあると、その寺の住職は必ず罰せられるから厳重に守らなければならないというのであった。このため、各寺院では「寺請証文」を出した。この証文は当人がキリスト教信者ではなく仏教信者であるという宗教証明だけではなく、婚姻や使用人の雇い入れにも大切なものであった。
 一六三八(寛永一五)年に至って幕府はまた、禁教令を出した。この令は宣教師を訴え出た者には銀子二〇〇枚、宣教師補の場合は一〇〇枚、普通信者は五〇枚または三〇枚の賞金をかけ、この訴えをした者はたとえキリスト教を信じていた者でも、その信仰を止めることを申し出た者はこれを許したうえ、右のとおりの賞金を与えるというものであった。もし信者を隠していたことが他からわかったときは、その在所の庄屋・五人組まで同罪として罰するというのであった。五人組の制度は初め相互扶助の目的でつくったものであったが、幕府はこのようにキリスト教徒詮議のために利用し、相互監視と訴人告発との連帯責任を負わせることにした。
 このようにしてキリスト教は長年にわたり禁制のまま明治維新を迎えた。明治新政府も一八六八(明治元)年いったん「切支丹宗門の儀はこれまでどおり固く御禁制なり」の高札を立てたが、一八七三(明治六)年に至り諸般の事情から、この高札を撤廃したので抑圧久しかったキリスト教は初めて解禁となった。
 一八八九(明治二二)年発布の帝国憲法第二八条には「日本臣民は安寧秩序を妨げず及び臣民たるの義務に背かざる限りに於いて信仰の自由を有す」と明記され、信教の自由が保証された。キリスト教はその信仰を黙認されてはいるか、とかく白眼視されていたところ、一八九九(明治三二)年に至り、初めて「神仏道以外の宗教」の中に明示され、その布教が公認された。
 一九四〇(昭和一五)年施行の宗教団体法に基づいて、今までのキリスト教は改組することを余儀なくされ、カトリックは日本天主公教と称し、翌一九四一(昭和一六)年認可され、続いて日本基督教団も改組して認可された。そのころから次第に戦時態勢に入り戦局がようやく激しさを加えると、救世軍がスパイ容疑で憲兵隊の捜索を受けたり、宣教師たちが本国に引き揚げたり、賀川豊彦らが反戦論の容疑で憲兵隊に拘引されたりして、キリスト教に関していろいろ目まぐるしいできごとがあった。
 一九四五(昭和二〇)年戦争終結によって、キリスト教は伝来以来の苦闘の時代を終わり、新しい時代の指導原理として脚光を浴び、いち早く教会の復興と体制の建て直しに力を入れ宣教活動を開始した。外国の母教会やキリスト関係団体からの物心両面にわたる援助もあって、有利な条件のもとに再建に乗り出した。現在は宗教法人法に基づいて信者たちは全く自由な信仰を続けている。